Pour la calligraphie, il est formidable !2012/09/10 18:48:49

週末、書道展へ行った。友達が出品しているからだ。その友達は書道を習い始めてまだ4、5年だけれど、先生の勧めで公募展に出品するうち佳作や入選、特選と入賞するようになり、それが励みにもなってますます書くことが好きになり、多忙な中間管理職ながら、時間をひねり出して練習に打ち込んでいるらしい。
で、初めて彼の書を鑑賞。
びっくり。

「えーーーっ。これ、書いたん? アンタの体のどこからこんな高尚な字が出てくんのよーー。びっくりしすぎて言葉もないわ」
「あのなあ、いまさんざん言いたいことゆーたやん」
「かっこいいーーー! すごおおおい!!! どんな顔してこれ書いてたん? 動画に残しとかなあかんやん」
「顔って……」
「ほんでこれ、何て書いてあんの?」
「そういう質問は、しんといてくれる?」(笑)

その書道展には、高名な指導者、またそうした書家に師事して自身も書家として一本立ちを目指すプロ志向の人から、ただの余暇つぶしの趣味としてちょろちょろと書いては応募するような一般人まで誰でもが参加できる(ただし、作品の規格は決められている)もので、応募者全員の作品が展示されていた。ピンからキリまであったわけだが、その作品のありようは非常にさまざまで、たいへん楽しめた。

書家として活動し、しゃしゃしゃっと書いた作品がン十万円もしちゃうくらいメジャーになっちゃった、という女性が友人にいるんだけど、彼女の場合は独創性とかこれまでもこの先も誰も書かないものを書くことが求められているし、それに応える作品を生み出さなければならない。文字から発想しているのだろうけれど、作品そのものはもはや字ではなく絵にしか見えなかったりする。

数年前まで漢字がらみの仕事が多かったので、漢字・文字研究者や、いわゆる書家に会い取材したことも多かったのだが、書家という人たちの書く字はもはや字の領域を超えていた。ま、芸術作品である。書の展覧会に行くということはそういうほとんど字には見えないぶっ飛んだ世界を鑑賞することを意味していた。この週末までは。

今回鑑賞した書道展は、そういうのではなくて、「お手本に従って書きました」「先生に教わって書きました」という、いい意味で、まじめに上手になろうとして練習中の人たちによる成果発表会的な要素が強かった。なんていうんだろう、この字を書くためにいったいどれほど紙を費やし、来る日も来る日も墨を摺って、何度も書き直すということを繰り返したことだろうか、なんて(わが子のバレエの発表会を見るような)妙な愛しさをどの作品にも感じた。漢字にしろ、仮名にしろ、ひと文字ひと文字に思いを込めてあるが、玄人的な思いの込めかたではなくて、ただただ「とめ」「はらい」「はね」を綺麗にかつ自分らしく筆を運んで表現する、という、「作品をつくる」というよりもずっとずっと単に「書く」ことに近い行為の成果。
書くって素敵だ。書くって大事だ。痛切に、そう感じさせてくれたのである。

先述した、メジャーになっちゃった友人書家も、取材でお目にかかった大家たちも、ゲージツ作品をつくってはいるが、書道教室の先生として子どもから大人まで基礎から教える仕事もしているのである。何書いてんのかわからんようなもんを書いていても、書くときゃ書く、ちゃんと楷書行書草書隷書篆書etc.,etc.,書くし指導もするのである。基本の「き」はしっかり確立しているのである。
筆を手に持って書く。これ、大事だ。

「ねえねえ、どんな書道家になりたいの?」
「へ? 書道家って何、その〈か〉ってつけるのやめてくれる?」
「でも、賞もらったりしてるやん。書道家の卵ってゆーか予備軍ってゆーか、そんな感じやん」
「先生の字見て真似すんので精一杯やねんで、そんなんあと何十年と続けてたら万に一つもあるかもしれんけど」
「続けたらええやん」
「飽きるかもしれんもん~」

いやいや、彼は飽きないとみた。次の作品展も楽しみである。

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