MUMYO, c'est l'ignorance profonde ou exprès2013/03/14 00:00:44

史上最強の雑談を読む(2)


『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)


天気予報がよく当たる。今朝のラジオで「今はすっきり晴れていますが午後曇り始め夕方には雨になります。夜にかけては強い風をともなう大雨となります。春の陽気から一気に気温も下がります、ご帰宅の遅い方は防寒具を」といっていたが本当にそのとおりになった。いま外は土砂降りである。昼間はへんに温かったけど、肌寒くなった。でも、寒くても、雨がいい。春は粒子がいっぱい飛ぶ。花の美しい季節だが、三日に一度の割合で降ってくれるほうがいい。降って街を洗い流してほしい。マジ。

放射性物質のついたスギ花粉に中国製大気汚染煤のついた黄砂。んでもってダチョウやエミュの卵の殻でつくった高性能マスク。曇らない特殊加工を施した密閉度の高いゴーグル。目のかゆみを緩和する点眼薬。くしゃみ、鼻水、鼻づまりを押さえる点鼻薬。早期から飲めばアレルギー症状を軽減する内服薬。国民の多くが苦しんでいるというのに何の対策も取らないで、あの手この手で金儲けする奴ばかりが登場する。この国、そういうシャレにならない国なんだ。汚染されるずっとずっと前から花粉も黄砂も飛んでいた。黄砂はよその国から飛んでくるし、へっぴり腰だから文句も言えないんだろうけど、さんざん植林した挙句使わずじまいで花咲き放題の杉くらい、自己責任なんやから切りなさいよさっさと、と言いたい。ヒノキも。イネ科のカモガヤも。しゃしゃしゃああああっと刈り取ってくれっ。

知る権利は民にあるが、中途半端に知ることが苦悩や対立を生むことも確かだ。偏向な知識を互いにひけらかすことが、脱原発と原発推進の間の無意味な溝を深めている(そう、深まるのは溝なのよ、絆じゃないの)。知ることは大切だが、何が正しいかの物差しのない状況では、むやみに知ったために却って辛い生を生きねばならないこともある。

知らぬが仏とはよくいったが、仏教の言葉に「無明(むみょう)」という語がある。意味は、どうしようもないほど、醜悪といっていいほどの無知、だそうだ。『大辞泉』には「最も根本的な煩悩」とある。「無明」、つまり明るくない、というか明かりが無い、つまり真っ暗。落ち込むだろうな、「お前って、無明」なんて言われたら。立ち直れねえ(笑)


《小林 岡さんは、絵がお好きのようですね。ピカソという人は、仏教のほうでいう無明を描く達人であるということをお書きになっていましたね。私も、だいぶ前ですが、同じようなことを考えたことがある。どこかの展覧会にいきまして、小さなピカソの絵をみました。それは男と女がテーブルをはさんで話をしている。ピカソの絵ですから、男か女かわからない。変なごつごつしたもので、とてもそうは見えないけれども、男と女が話しているなと直感的に思った。そうすると、いかにもいやな会話を二人がしているんですな。これは現代の男女がじつに不愉快な会話をしているところをかいたのだなと、ぼくは勝手に思っちゃった。
 岡 それは正しい直観だと思います。
 (略)
 男女関係の醜い面だけしかかいていません。あれが無明というものです。人には無明という、醜悪にして恐るべき一面がある。(略)釈迦は、無明があるからだということをよく説いて聞かしているのです。人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。(略)
 小林さんの学問に関するお話は、いかにももっともと思います。それを無明ということから説明すると、人は無明を押えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。たとえば良寛なんか、冬の夜の雨を聞くのが好きですが、雨の音を聞いても、はじめはさほど感じない。それを何度もじっと聞いておりますと、雨を聞くことのよさがわかってくる。そういう働きが人にあるのですね。雨のよさというものは、無明を押えなければわからないものだと思います。数学の興味も、それと同一種類なんです。》(「無明ということ」12~15ページ)


小林秀雄の「無常といふ事」が大好きで何度も繰り返し読んでいるわたくしであるが、岡潔いうところの「無明ということ」もなかなか手ごわそうである。このくだりを読んで、岡潔の著作に一気に関心が高まったことを白状する。
無明とは、全然イケてないくらい、まさに終わってるほど無知だけど、そのうえジコチューな行動をとらせる本能だけど、それさえクリアしたら、にわかに人生ワクドキに展開する。イマふうに言えばこういうことなのか?(笑)
無明とは、学びが足りないゆえの知識の欠乏などではなく、どちらかといえば、知ること学ぶことができるのにあえてそれをせず、というよりそれから逃げて、むしろ無知無学を標榜してあたかもそれが強みであるかのようにふるまうことではないか。そりゃ、醜悪だな。愛するウチダいうところの、学びから逃走する子どもたちだな。

本書によれば、無明の輩はすでに1965年(本書のもとの出版年)に跋扈していたわけだから、そりゃ、今、日本が文字どおり「世も末」をリアルにゆくのは道理だな。