MUMYO, c'est l'ignorance profonde ou exprès ― 2013/03/14 00:00:44

小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)
天気予報がよく当たる。今朝のラジオで「今はすっきり晴れていますが午後曇り始め夕方には雨になります。夜にかけては強い風をともなう大雨となります。春の陽気から一気に気温も下がります、ご帰宅の遅い方は防寒具を」といっていたが本当にそのとおりになった。いま外は土砂降りである。昼間はへんに温かったけど、肌寒くなった。でも、寒くても、雨がいい。春は粒子がいっぱい飛ぶ。花の美しい季節だが、三日に一度の割合で降ってくれるほうがいい。降って街を洗い流してほしい。マジ。
知らぬが仏とはよくいったが、仏教の言葉に「無明(むみょう)」という語がある。意味は、どうしようもないほど、醜悪といっていいほどの無知、だそうだ。『大辞泉』には「最も根本的な煩悩」とある。「無明」、つまり明るくない、というか明かりが無い、つまり真っ暗。落ち込むだろうな、「お前って、無明」なんて言われたら。立ち直れねえ(笑)
岡 それは正しい直観だと思います。
(略)
男女関係の醜い面だけしかかいていません。あれが無明というものです。人には無明という、醜悪にして恐るべき一面がある。(略)釈迦は、無明があるからだということをよく説いて聞かしているのです。人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。(略)
小林さんの学問に関するお話は、いかにももっともと思います。それを無明ということから説明すると、人は無明を押えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。たとえば良寛なんか、冬の夜の雨を聞くのが好きですが、雨の音を聞いても、はじめはさほど感じない。それを何度もじっと聞いておりますと、雨を聞くことのよさがわかってくる。そういう働きが人にあるのですね。雨のよさというものは、無明を押えなければわからないものだと思います。数学の興味も、それと同一種類なんです。》(「無明ということ」12~15ページ)
小林秀雄の「無常といふ事」が大好きで何度も繰り返し読んでいるわたくしであるが、岡潔いうところの「無明ということ」もなかなか手ごわそうである。このくだりを読んで、岡潔の著作に一気に関心が高まったことを白状する。
無明とは、学びが足りないゆえの知識の欠乏などではなく、どちらかといえば、知ること学ぶことができるのにあえてそれをせず、というよりそれから逃げて、むしろ無知無学を標榜してあたかもそれが強みであるかのようにふるまうことではないか。そりゃ、醜悪だな。愛するウチダいうところの、学びから逃走する子どもたちだな。
コメント
_ コマンタ ― 2013/03/15 08:04:35
_ midi ― 2013/03/15 18:38:47
記事内でも書いたけど、むみょう、って言われたらほんとうに失格の烙印押されたような、そんな気にさせられる強い言葉だと思います。ある日のある時、ある分野に限っていえば無明である、なんてことはきっとありますね。「お前、それ、無明」みたいな使いかた? 「おまえ、それ、ムミョーやん」だなんて、先輩格の「ビミョー」の立場が(笑)。