コンタクトレンズを止めてずいぶん経つ。でも、目が楽になったかというとそんなことはない。いや、老眼でコンタクトレンズが合わなくなったから眼鏡に換えただけで、目の疲労の軽減は目的ではなかった。それはわかっているけれど、このところとりあえず疲労が甚だしいのでそれで普段よりいっそう疲れ目を感じているのだろうけれど、とにかく目がしんどい。開けていられない。それ、眠たいだけちゃうのん?というなかれ。眠気はない。しかし目で何かをみているのが非常に辛いのである。
でも。
名月(の、ひと晩前。正確には)ならいくらでも見ていられる。
いや名月だけではない。三日月も、夕焼けも、入道雲も。昔から人一倍、空を見上げるのが好きだった。空は、誰に対しても等しく胸元を広げて開放する。そこに何を描こうと何を見出そうと何を貼りつけようと、どう切り取ろうと、どう汚そうと、咎めることなく包容する。空は、ほんとうはその向こうによろしくないものも美しくないものもたくさん隠しているのだけれど、そのそぶりがあまりに聡明で、そこから響く音はあまりに玲瓏で、だから空はまるで平和や安泰のシンボルのようにいわれる。たしかに、朝焼けや夕闇、宵と明けの明星、カシオペアやオリオン、白鳥座と、空にあるものをひとつひとつ思うだけで心が平穏になる。空に見えるもので私がいちばん好きなものは薄い薄い三日月と、風船のように真っ赤な太陽。幼子の頃に見た記憶をそのまま引きずっている。それを凌駕して美しいものを見る機会を持てないでいる。それにしても、ここ数日の満ちた月の華のある美しさといったら。千年前も二千年前も、月はかように輝いていたのであろうか。
月にうさぎがいるというのは日本人だけらしいが、うさぎがいたらこんなには輝かないであろう。およそ生物なんぞいないから、これほどまでに光ることができるのである。
今日はクライアント先で打ち合わせをしただけなのに、ひどく疲れて、帰社したらもう目を開いていられなかった。したがってとっとと退社した。積み残した魚は大きい。逃げてもいいぞ、さかな。