BONNE ANNEE 2014!!!2014/01/02 23:56:47

このお鏡さんのサイズは2合です。小さいけど、ちゃんとしたお鏡さん。
我が家の神棚。
礼。礼。ぱん。ぱん。礼。

あけましておめでとうございます。
佳いお正月を過ごされましたか。

今シーズンは暦の関係で少し休暇が長いのだけど、そのせいでキンキンに仕事してて、おまけに介助も加わって、自分のもの、身の回り、部屋の掃除が何もできない秋冬を過ごした。いくら少しばかり休暇が長いったって1日や2日余分にあるだけだしおまけに今年の正月準備、母は何もできないからほぼ全部やってるし。ああもう。そんなこんなで片づかないまま年越しました。2014年も何も片づかない年になるという、「例年どおりの」(笑)吉兆じゃないかしらん? ま、ええわ。

とゆうわけで、忙しいんです。
みなさまはゆっくりゆったり安穏な冬休みを過ごされますよう。

今年もmidiの本読み&反原発&反改憲ブログをよろしくね。

Un jour, c'etaient les lunettes...2014/01/06 18:35:01

あいたっ、と思ったら眼鏡だった。
眼鏡はまっぷたつに割れて、一方はぱあんと飛ばされて落ち、歩道わきの溝のきわに転がった。
曲がりしなに後ろを振り返り、いま走ってきた路面を見ると、もう一方は一部がぐしゃっとつぶれて粉々になっていた。
わたしは、自転車で眼鏡を轢いたのだった。

安物のサングラスが、いつか自分の鞄の中でまっぷたつに割れていたことを、思い出した。安物でもわたしにはお気に入りの眼鏡だった。朝夕と真夏、太陽がいささかきつく感じられるときには必ず日除けのために眼鏡をかけた。日除け用の安グラサンはいくつも持っていたが、弦が外れたり、みすぼらしくなったりしていくと使わなくなる。鞄の中で割れた眼鏡は最も長期間愛用していたものだった。割れた姿を見たときは、愛犬を亡くした飼い主ってこんな気持ちだろうかと、とても悲しく大きな喪失感を覚えた。

わたしが轢いた眼鏡は、見誤っていなければ黒めのサングラスで、おそらくスポーツタイプの大ぶりなものだった。わたしの通勤路はジョギングコースでもあり、自転車、歩行者、ランナーが行き交う。そこそこ本格的な装備で走っている市民ランナーがつけていそうな、そんなサングラスだったように思う。走っていて、ふとしたことから外して、からだのどこかにつけていたのが、落ちたのだろう。

わたしは、自転車乗りは器用なほうだ。つまり、乗っているのはママチャリだが、そんな自転車の割に、スピードは出せる。もちろん、緩急をつけたり歩行者の間をすり抜けたり障害物をくいくいっとよけたり、はお手のものなのである。道に落ちているジュースの紙パックなんかはわざと轢いてつぶれる感触を楽しむ。缶の類はタイヤへのダメージが気になるので転がってきてもすんでのところでよけられる。
だから、舗道の上の眼鏡を遠目にでも確認していれば轢くことはなかったのだが、迂闊にもわたしはそのとき何も、いっさい、目に入らなかった。路上など、見ていなかった。いつものわたしなら、目ざとく眼鏡を見つけ、自転車を停めて降り、眼鏡を拾い、誰かに蹴られたり踏まれたりしないように柵の上に置くとか石塀のでっぱりに引っ掛けるとかする。必ず、そうする。
そのときのわたしの頭の中は何かに占有されていた。いや、ただ、ぼーっとしていたのである。一市民ランナーの紫外線防御サングラスはわたしの一瞬の夢想の、無残な犠牲になった。わたしには、この眼鏡が哀れでならない。原形をとどめないガラクタと成り果てたからには、もはやそれを眼鏡と認識する歩行者も自転車もない。ただ、踏まれ続けるだけだ。

翌朝には清掃人がきれいに始末をするだろうか。ああそうだ、そうしてくれれば、もしかしたら持ち主は愛用品の無残な姿を見ずに済むかもしれない。



書き始めたものの落としどころを見失ったり、意気込んで書いたけど急速に色褪せて見えてボツにしたり、といった文章を、ときたま、こんなふうにアップしようかなと思います。つまんないけどおつきあいくださいね。

1 est defini comme le successeur de 0, mais...2014/01/09 18:32:58

史上最強の雑談(7)

『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)


「一(いち)」とは何だろう。
「一つ(ひとつ)」に含まれるのはどこからどこまでか。
自問してみるも、明快な答えにはたどり着けない。たどり着けないけれど、それでも、ひとりひとりがそれなりに「一」を認識し、意味するところをわかったつもりで言葉として用いている。「一(いち、ひと)」のつく言葉は多い。夥しい。昨今、「一段落」を「ひと段落」と発音する誤用が蔓延し、こともあろうに公共の電波でアナウンサーまでが誤用している。しかし、誤用は時を経て「それも間違いとは言えない」となり、やがて「それが正しい」となってしまうのだろう。「あらたし」が「あたらしい」と誤用されるうち通用したように。だから、ま、今回、そこは措く。

人はいったいいつから「一」を認めるのか。「一」とは数字であるがゆえに、数学者はこの「一」というものについて整然たる理路でもって解説できるのではないかと思われがちだが、本書の中で岡は、数学では「一は何であるかという問題は取り扱わない」と断言している(103ページ)。だが、だからといって「一」のことを「あるかないかわからないような、架空のものとして」扱っているわけでもない(104ページ)。「内容をもって取り扱っているのです」(同)。

では、「一」の内容とは何だろう。
数学的には考えも及ばないから、自分の体感で述べたいが、「いち」とか「ひとつ」とかいうとき、それはあるときは「個」であり、あるときは「全」であるといえる。
個別対応をする、とは、十把一絡げでなくひとりひとりに相(あい)対するということだ。あるいは、その人の、またはその家庭の状況を斟酌して採るべき処置を検討するということだ。
個性豊か、だとか、個性を尊重、だとかいうけれど、これもいわばある種の個別対応だ。人をその集団でなく、ひとりずつ別の要素としてみる。評価する。
長い行列をつくって歩く蟻たちを黒い紐状の線を描く集団ではなく、一匹一匹、虫としての個体を見つめ、その生に思いを馳せるとき(笑)、その思考は蟻の個性を尊重し、蟻に対して個別対応をしているといえるだろう。
全力を尽くす、とは、「私」の持てる力を全部何かに注ぎ込むことだ。その時の「全力」は、「私」という「ひとり」の人間に宿るものである。
全身にみなぎる力、とは、「私」という「ひとり」の人間の体に満ちる力である。
全校生徒、とは、ある「ひとつ」の学校に属する生徒のことである。
全国大会、とは、日本という「ひとつ」の国の代表にふさわしい「一番」を決する大会である。

唯一とは、たったひとつのことだけど、統一とは、実に多くのものを内包したうえで成し遂げられるものである。唯一は、「私」の気持ち次第で何でも「唯一」と認めることができ、他者に異議を唱える権利はないけれど、統一は、「私」の気持ちのほかに他者の同意が必要だ。

彼は唯一無二の親友だ。(ふうん)
これが唯一、わたしの家にあってもいいと思えるデザインなの。(あっそう)
父について唯一許せないのは足が臭いことよ。(だろうな)

今日はブルー系で統一してみたわ。(何言ってんの、靴が赤いよ。ダメ)
体育祭用のクラスTシャツをボーダー柄で統一したいんだが。(そりゃ反対意見が噴出するよ)
秀吉がやったようにこの国を統一したい。(アンタじゃ無理よ。ホントに戦(いくさ)するつもり? 馬鹿だね)

人間の体を構成する細胞や遺伝子に至るまで、小さな「一」については無限にその「個体」を追究することができる。いっぽうで、世界はひとつ、地球はひとつ、宇宙はひとつ……と、大きな「一」も無限に膨張する。
私たちはもはやその両極端のきわみまで、とりあえず、理屈で、理解することができる。
冷静に考えて、素晴しいことだと思う。「一」という概念はミニからマックスまですべてに適用可能なのだ。それを無意識に私たちは使いこなしている。
このこと以外に「一」は順序を決めたり数を数えたりするためのカウントの道具の最初のかけ声である。いち、に、さん。ひとつ、ふたつ、みっつ。カウントする際の「一」に個性も全身もない。また、3-2=1(3ひく2は1)と解を求めたときの「一」にも、唯一だの統一だの、意味はない。そのことも、私たちは使い分けている。

《小林 岡さん、書いていらしたが、数学者における一という観念……。
 岡 一を仮定して、一というものは定義しない。一は何であるかという問題は取り扱わない。
 小林 つまり一のなかに含まれているわけですな、そのなかでいろいろなことを考えていくわけでしょう。一という広大な世界があるわけですな。
 岡 あるのかないのか、わからない。
 小林 子供が一というのを知るのはいつとかと書いておられましたね。
 岡 自然数の一を知るのは大体生後十八ヵ月と言ってよいと思います。それまで無意味に笑っていたのが、それを境にしてにこにこ笑うようになる。つまり肉体の振動ではなくなるのですね。そういう時期がある。そこで一という数学的な観念と思われているものを体得する。生後十八ヵ月前後に全身的な運動をいろいろとやりまして、一時は一つのことしかやらんという規則を厳重に守る。その時期に一というのがわかると見ています。一という意味は所詮わからないのですが。
 小林 それは理性ということですな。
 岡 自分の肉体を意識するのは遅れるのですが、それを意識する前に、自分の肉体とは思わないながら、個の肉体というものができます。それがやはり十八ヵ月の頃だといえると思います。
 小林 それが一ですか。
 岡 数学は一というものを取り扱いません。しかし数学者が数学をやっているときに、そのころできた一というものを生理的に使っているんじゃあるまいかと想像します。しかし数学者は、あるかないかわからないような、架空のものとして数体系を取り扱っているのではありません。自分にはわかりませんが、内容をもって取り扱っているのです。そのときの一というものの内容は、生後十八ヵ月の体得が占めているのじゃないか。一がよくわかるようにするには、だから全身運動ということをはぶけないと思います。
 小林 なるほど。おもしろいことだな。
 岡 私がいま立ちあがりますね。そうすると全身四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。そういうのが一というものです。一つのまとまった全体というような意味になりますね。だから一のなかでやっているのかといわれる意味はよくわかります。一の中に全体があると見ています、あとは言えないのです。個人の個というものも、そういう意味のものでしょう。個人、個性というその個には一つのまとまった全体の一という意味が確かにありますね。
 小林 それは一ですね。
 岡 順序数がわかるのは生まれて八ヵ月ぐらいです。その頃の子に鈴を振ってみせます。初め振ったときは「おや」というような目の色を見せる。二度目に振って見せると、何か遠いものを思い出しているような目の色をする。三度目を振りますと、もはや意識して、あとは何度でも振って聞かせよとせがまれる。そういう区別が截然(せつぜん)と出る。そういうことで順序数を教えたらわかるだろうという意味で言っているのです。一度目、二度目、三度目と、まるっきり目の色が違う。おもしろいのは、二度目を聞かしたとき、遠い昔を思い出すような目の色をする。それがのちの懐しさというような情操に続くのではないか。だから生後八ヵ月というのは、注目すべき時期だと思います。》(「「一」という観念」102~105ページ)


本書の中で、この「一」に関するわずかな記述が最も共感を覚えた部分であったことを白状しよう。この最強の雑談の内容をブログで紹介しようと思ったのも、この「一」についての岡の記述を書きとめたい一心だったのである。しかし、それは本の後半だし、なんだか数学者が乳児の成長論みたいなことをゆってるとこだけを切り取って披露するのもちょっと違うと思ったのだった。つらつらと、いかに本書がエキサイティングか、深読みできるか、現代に通じるか、この数学者がどれほどエエ男か、なんてことを書き連ねてやっとたどり着いた(笑)わけだが、自明のことを、誰もがそんなのわかりきってるやんと思っていることこそをを解きほぐしてきれいに説明してみせる技は、暮れに書いた谷川俊太郎も実はそうだし、愛するウチダはもちろん、わっしいこと鷲田清一、虫ジジイの解剖学者養老大先生もそうだし、未だに喪失のショックから立ち直れない亡き西川先生もその技に長けておられたのだった。ということは、研究ジャンルや職業に関係なく、語りに説得力のある人というのはいつの世もあちこちに存在してくださる。そしてある共通項をもっている。人としての情緒を豊かに涵養できる世でありたい。普通に生きるのが当たり前の世でありたい。争いは何も生まないし、戦争は愚かな振る舞いである。過剰な科学技術は武器や爆弾の例もあるように破壊に通じるだけである。――といったことがその思索の根底にあり、揺るがないのである。

Il a neige un peu ce matin. Et toi, qu'est ce que tu veux pour ton anniveresaire?2014/01/10 17:47:01

いやあ……寒かった、まったく。何回も聞いたけど「この冬一番の冷え込み」ってさ。今朝もラジオで言ってたが、いやそのとおり、冷え込んだー。ゆうべから今朝。雪の量は多くないけど。

まちからはすでに雪は無くなっていたが、御苑の中にはまだ、ほら。
たたずむカラスがなんだかフィロゾフみたいに見えたり。
わたしが自転車で近くをすり抜けても動じないんだよね、カラス。

遠くにははしゃぐ犬と子どもの姿もあった。静かな雪の朝が、もう9時を過ぎていたけど、御苑にはまだあった。
昼には陽光が空気を少し暖めてくれたけれど、やっぱ寒い一日だったな。


年頭には、「一年の計は元旦にあり」にちなむわけではないんだけど、今年はとりあえずこうしよう、こうできるようにしよう、あれとこれをゲットしよう、なんて、けっこう物欲なんだけど、目標を立てたりする。怪我や病気のない安寧平穏な日々を、というのが最大の願いだからそのほかはどうでもいいわけだが、去年の元旦に娘と出かけた初詣ではおみくじで「凶」という「大当たり」を引いてしまい、一生の幸運を使い果たしたような気分であった。今年は初詣には友達と出かけたが、おみくじを引かなかった。何が出ても昨年に「凶」に負けるような気がして(笑)。

欲しい、やりたい、叶えたい、といつも口に出して念じていればきっと実現するよ、という友あり。とにかく何でもいいから書き出せばいい、手に入れたいもの全部列挙するんだ、という友もあり。

あれほしいねん、これほしいねん、と言いすぎると、微妙にズレたもの、しかも嗜好品ではなく実用品、を身内からプレゼントされるという悲しき実績があるので(うーんちょっとテイスト違うねん嫌やこれ/ああこれは微妙に役に立たへんわウチでは)、今年はあまり口に出さないでおこう。

口には出さないけどここに書く(笑)。

欲しいもの

魔法のようにしゅるしゅるっとコルクを抜くことのできるワインオープナー。
牛乳とヨーグルトをポンと入れとくだけで勝手にヨーグルトをつくってくれる小さくて場所をとらないヨーグルトメーカー。
コンロでコーヒー豆を煎るための焙煎器。
ムーランナカフェ(コーヒーミル)。

やりたいこと

退職。
ミシンを修理に出す。
母とミュンヘンに行く。
仏検を受けて合格する。
シアタールームをつくる。

さてさて~(笑)

J'adore du pain!2014/01/16 18:24:16

なななななななななんと!
とうとう我が家にも「オレオレ詐欺」の電話がかかったぞ!

もしもし。
「あ、もしもし」
(むしむし、とも聞こえる。すごい早口)


はい、もしもし。
「もしもし、おれ、ジローやけど」
(? むしむし、れ、じよーやけど、としか聞こえないくらい早口)
え、もしもし?


「ジローやけど」
……。……。
(こいつ)
もしもしー?
(お前誰やねん)


ガチャン!

あれ、切れた。
わーお! これ、あれやん! 「ジロー」は(仮名だが)弟の名前だ。

おばあちゃん、いまの電話、オレオレ詐欺やったー!!!
へえ、ほんまー? とうとうウチにもかかったんかー。あんな、デイサービスに来たはる人でな、しょっちゅうかかるて言うてる人、やはるねん。
(あきらめろよ、「オレ」。笑)


声も口調も違うし、ウチの弟はすでにもっとおっさんやし、名乗りかたも違うので、弟でないことはすぐに知れる。この電話を母がとったとしても、これほど差異があったら母だって息子からとは思わない。だいいち、この「おれ」君のようなカスレ声の早口だと、母はまず聞き取れない。
さらに、弟は市内に住み、ウチにはしょっちゅう顔を出すので、電話をかけてくるとしたら「今から行きますー」くらいしかないので、会話に突入したとしてもこの詐欺は成立しなかったであろう。

しかし私は後悔した。あと数秒早くこの電話がそれだと気づいたら、婆さんの振りして騙されゴッコしてやったのに。

おお、おお、ジローか。元気にしてんのか。ちょっとも顔出さんと。ほんで、どないしたんや。そうか、そうか、そらえらいこっちゃな。なんぼ要るんや、すぐ送るがな。現金送るがな。住所、どこやった? あかんのか。ああそうか、銀行か。どないしたらええのんえ。教えてんか。ほうほう。そうか。ふんふん。わかったで。わかったわかった。安心しい。……

(出演:昨秋購入した2台目のホームベーカリーでつくったパンたち)

Merci!2014/01/22 18:10:53

このあいだお誕生日だったので、お花をもらった。
ちっちゃなブーケ。
真ん中の、濃いピンクの薔薇の下に見える花、これは薔薇じゃないんだって。なんとかいう今だけ手に入る珍しい花だそうで、名前聞いたのに忘れちまったい。


で、誕生日当日から三日経過して娘からバースデーカードが届いた。
可愛い~♪
表彰台に乗ったはる(笑)。かつてオリンピックを目指していた(笑)娘らしいチョイスである。しかもバレエコスチューム(笑)。

カードを開くと。
ほほほ~~力作じゃの~
これ、イラストとコラージュよ。やるなあ、毎度のことながら。
そうそう、猫はこたつで丸くなる(笑)。
今年はこたつ、出してないけどね。

ありがとね♪

外国で、母親の誕生日にカードを手づくりする17歳女子の心境……。
これで、よかったのかな、と何かにつけて思うのだけど、よかったのであろう。すでに次年度に向けた目標も立てていると見え、情報収集に余念がないみたいだし。えらいなあ、我が子ながらまったく。

わたしの17歳、18歳の頃なんて、自分以外のこと考えてなかったもんね(今もか。笑)。受験もあったけど、だから周囲が応援してくれてたはずやけど、そんなこと当たり前と思っててさ、自分がいちばん偉かったもんね(今もやな。汗)。

子どものふり見てわがふり直せ。はははっ


無事にまたひとつ歳を重ねることができました。こんなに重ねても、まだまだ成熟にほど遠く、無礼非礼を繰り返しておりますが、このだらだらブログをいじった形跡があればわたくし心身ともに健康とご承知おきくださいませ。皆様とともに五十年目のこの一年、よく視てよく聴きよく考えてまいりたいと存じます。なにとぞ今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。