幾重にも層を重ねたような密な経験 ― 2018/06/27 01:07:55
『子どものころ戦争があった』
あかね書房編(1974年初版第1刷、1995年第12刷)
有名な本である。そのせいかいつでも頭の片隅に書名があって、それゆえついいつでも読める気になっていて、読む機会がなかった。なんということか。ぐずぐずしているあいだに、寄稿されている多くの作家が鬼籍に入られた。
収められている体験談の著者は以下のかたがたである。錚々たる顔触れ。
長新太
佐藤さとる
上野瞭
寺村輝夫
岡野薫子
田畑精一
今江祥智
大野允子
乙骨淑子
三木卓
梶山俊夫
新村徹
奥田継夫
谷真介/赤坂三好
さねとうあきら
田島征三
砂田弘
手島悠介
富盛菊枝
山下明生
どのかたのどの話がどうだということなど言えない。どれもこれも凄まじい。凄まじいがどのかたのお話もどことなくユーモアがあり、過酷な体験にもかかわらずあっけらかんと笑い飛ばせそうな雰囲気に満ちている。実体験を語られているのに、まるで彼らがつくり出す児童文学の世界にトリップしたような気にもなる。さすがは作家のみなさんというべきか、語りの力は素晴しいのであった。しみじみ思うのは、これほどまでの経験をしてきたからこその、児童文学なのである。これほどまでの経験を下敷きにしているからこそ、軽はずみな表現で命の重さや尊さを振りかざすようなことはしないのである。優しさや思いやり、痛みや苦しみといったわかりやすい言葉で説明してしまえるほど、人と人との情愛や、かかわりあうことで生まれる感情の擦れやぶつかりは単純ではない。子どもの世界だからこそ、それらには名前はまだない。子どもたちは自分たちの世界で次々に生まれでてくる好感や愛情や親しみや嫌悪や憎しみや軽蔑の思いに、自分たちなりに名前をつけ認識して心に記録を刻んでゆく。そのありようは、子どもが十人いれば十通り以上になるだろう。そうしたものに最初からラベルや札を与えてはいけないのだ。
なぜ、平和な時代ゆえにむき出しになるわがままやエゴイズムをしぜんに生き生きと描き出す力というものについて、辛酸をなめた戦争体験者である作家たちのほうが勝れているように感じられるのだろう? なぜ、現代の平和な時代の作家には描ききれないのだろう? 現代の作家たちにしか描けない要素はあるはずだ、技術はあまりに早く進歩し、時代はものすごい勢いで変化したのだから。しかし、児童文学に限って言うと、昨今流行りのニヒリズムなどを匂わせても、あるいは安易な泣かせるストーリー仕立てにしても、喜ぶのは大人ばかりで、子どもは大人を喜ばせるためにそんなものでも読むけれど、ほんとうの意味で心をとらえているようには思えない。子どもには、普遍的でありきたりな体裁をしていながら、深い物語が必要なのだろう。
深い物語は幾重にも層を重ねたような密な経験をした者でなければ、書けないのだ。
……ということは抜きにしても、戦時下の体験物語として興味深く楽しめる一冊である。子どもたちに親しめるように、ふりがなが丁寧に振ってある。絵本作家の挿絵も面白く、悲しい。
何度も読み返したい。
Quel début d'année atroce... ― 2015/02/28 16:17:34

谷川俊太郎 著 柳生弦一郎 絵・装本
福音館書店(2007年33刷/初版1982年)
今日で2月も終わりである。雪の多い正月を過ごし、雪の話ばかりしていたのに、めまぐるしく日々が過ぎていき、明日から3月。
ほんとうに、なんということだろうと思う。何が何でも、12月の選挙でひっくり返さなければならなかった。幼稚で狡猾な独裁志向のただのわがまま坊主には退場してもらわねばならなかった。ほんとうに、この国の大人たちの危機感のなさ、視野の狭さ、その「自分のことで精一杯」ぶり、もとよりこれは自戒を込めて言うんだけど、あまりのことに呆れ果てただ悲しい。
悲しいときに、よく私はこの本を開く。この本にはただひらがなの言葉がつらつらと並び、ときおり、子どものいたずら描きのような、それでいて味のある、人物の肖像が挟まれる。そうしたひらがなの文字を目で追い、目で追うほどに言葉になるのを追い、言葉が連なるままに詩篇となるのをただ吸収する。息を吸うように読み、息を吐くようにページをめくる。
そうするだけで、いつのまにか心が落ち着きを取り戻すのを感じる。こんなに毎日惨いことが起こる世の現実に私の精神はひどく安定を欠いているのだが、一時的にせよ、いやまったく一時的に、なのだが、穏やかになれる、心底。安定を欠いていると言ったが、なにも朝から晩まで不安に苛まれ泣いているわけでも、ホゲーとしているわけでも、どうすればわからなくなってうろうろしているのでも、ラリっているわけでもない。平静を装い、毎朝同じ時間に起き、いつもと同じ一日が始まると自分にも娘にも母にも猫にもいい、三度の食事を支度し食べ、洗濯や掃除などハウスキーピングにいそしみ、商店街で野菜の値段を見比べ、大人用紙パンツのセールに目を光らせる。そんな合間に、依頼された原稿を整理したり、自分の書いたものの焼き直しをしたり、面白そうな仏語本を渉猟する。娘のメールを読み、返信をする。優先順位の高いことというのは、たしかに、何よりもこうした自分と自分の身近な者たちのことばかりであって、そしてほんらいそれでよいのである。家のそと、町のそと、地域のそとは、私なんかが心を砕かなくても万事順風満帆に事は運び憂いは流れ、いいとこ取りをされて均されて、治まるというふうに、かつては決まっていたのであった。いや、かつてもこの世には恐ろしいことや許されないことや悲しいことがたしかに次々起こっていたのだけれども、そのたび、そのときも私の心はおろおろしていたのだけれども、世の中には必ず賢明な知見が在るべきところに在り、どこかで防波堤となっていたのであった。
いまはその防波堤が見当たらない。どこにも。あかんわ、もう。あかん。
『みみをすます』を開く。ひらがな長詩が六編収められている。ひらがなだけど、これらの詩は子ども向けではない。この本を買ったのは、自分のためだった。谷川俊太郎の「生きる」が小学校の教科書に掲載されてたか授業で取り上げられたかなにかで、娘が暗誦していたときに、その「生きる」よりもいい詩が俊太郎にはあるんだよ、と「みみをすます」のことを言いたかったんだけど、詩篇は手もとになく、ネット検索で見つけた詩篇のすべてをダウンロードしたかコピペしたかの手段でテキストとしていただき、ワープロソフトに貼って、きれいなフォントで組んで、A3用紙にプリントして、壁に貼った。とっくに貼ってあった「生きる」の横に、「生きる」よりはるかに長い「みみをすます」はとても暗誦できるものではなかったが、断片的に拾うだけでも意味があると思って、「みみをすます」を貼った。娘は「みみをすます」も声を出して読んでいたが、語られていることはまだまだ幼かった彼女の想像を超える深淵さで、圧倒されてつまらなかったに違いない、そのうち熱心には読まなくなった。
「みみをすます」は次の4行で始まる。
みみをすます
きのうの
あまだれに
みみをすます
生活音を想像できるのは以上の4行のみで、次のパラグラフからは壮大な人類の歴史に思いを馳せていくことになる。《いつから/つづいてきたともしれぬ/ひとびとの/あしおとに/みみをすます》。
ハイヒールのこつこつ
ながぐつのどたどた
これくらいはわかりやすいけど、《ほうばのからんころん/あみあげのざっくざっく》や《モカシンのすたすた》など、現代小学生に自明ではない言葉が出てくる。すると、現代っ子の悪い癖で思考を停止させ、調べもせず、考えるのは停止して語の上っ面だけを撫でていく。長じて、知らない言葉をすっ飛ばしてテキストを読む癖がつき、小説だろうと論評だろうと漫画だろうと、そうした読みかたでイケイケどんどんと読み進み、読めていないのに読んだ気になる。
ま、いまさら仕方ない。
はだしのひたひた……
にまじる
へびのするする
このはのかさこそ
きえかかる
ひのくすぶり
くらやみのおくの
みみなり
ここから詩は古代史をたどる。恐竜や樹木や海流やプランクトンが幾重にも生まれ滅んで、そして一気に自分の誕生の瞬間を迎える。《じぶんの/うぶごえに/みみをすます》《みみをすます/こだまする/おかあさんの/こもりうたに》
谷川俊太郎は、私の亡くなった父と同じ生まれ年である。昭和20年は13、4歳だった。敗戦時に何歳でどういう社会に身を置いていたかでその後のメンタリティは大きく変わるので、父と同じように少年時代の俊太郎を見るのは失礼きわまりないのだけれど、戦争はそれなりに当時の少年の心を大きく占める関心事であったに違いなく、そしてそれが無惨な終わりかたをしたこと、そして周囲の大人たちが思想的に豹変を見せたりしたことはショッキングな事態だったと思われる。父は、玉音放送に涙を抑えきれず、でも泣いているのを母親や兄弟に見られたくなくて部屋の隅っこで壁に向かって、声を立てないように気をつけて泣いたと言っていた。しかし、俊太郎の両親や親戚はいわゆる賢明で動じない人びとだったのであろうか、戦時は時勢にしたがい行動し、やがて粛々と敗戦を受け容れ時代の変化になじんでいったようである。母親に溺愛され、自らも母に深い思慕を抱いていた俊太郎は、一体になりたいとまで欲した母に代わる存在がやがて現れることを恋と呼ぶというようなことを、エッセイを集めた『ひとり暮らし』(新潮文庫)の中で述べている。家族愛に守られ成長した俊太郎は、戦前、戦中、戦後を、あからさまではなく静かに、詩の中に書き記していくのだ。
うったえるこえ
おしえるこえ
めいれいするこえ
こばむこえ
あざけるこえ
ねこなでごえ
ときのこえ
そして
おし
……
みみをすます
うまのいななきと
ゆみのつるおと
やりがよろいを
つらぬくおと
みみもとにうなる
たまおと
ひきずられるくさり
ふりおろされるむち
ののしりと
のろい
くびつりだい
きのこぐも
つきることのない
あらそいの
かんだかい
ものおとにまじる
たかいいびきと
やがて
すずめのさえずり
かわらぬあさの
しずけさに
みみをすます
(ひとつのおとに
ひとつのこえに
みみをすますことが
もうひとつのおとに
もうひとつのこえに
みみをふさぐことに
ならないように)
いま引用したくだりは、「みみをすます」のなかでも最も好んで反芻する箇所である。ヒトは自分の耳に心地いいものしか聴こうとしない生物である。でも人であるからこそ、聴きにくい音や聴きづらい声も傾聴できるのだ。
このあと「みみをすます」は十年前のすすり泣きや、百年前のしゃっくりや、百万年前のシダのそよぎや一億年前の星のささやきにも「みみをすます」。
でも、そんなふうに壮大な物語に思いを馳せつつも、《かすかにうなる/コンピューターに》《くちごもる/となりのひとに》「みみをすます」。
最後の一行まで読めば、気持ちが未来へ向くように、とてもよくできている。それでも時は流れ、風は吹き、水も流れ、命が生まれるのだと、そこには少し諦念を含みつつ、安寧に満ちた気持ちになる。
つづく「えをかく」という詩も、「みみをすます」に似ている。耳を澄まして聴く行為が絵に描くという行為に交替していると言ってもいい。自分を描いたり、草木を描いたり、家族を描いたり、自動車を描いたりしていきながら、《しにかけた/おとこ/もぎとられた/うで》を描く。《あれはてた/たんぼをかく/しわくちゃの/おばあさんをかく》。
「ぼく」という詩がつづき、「あなた」という詩があり、「そのおとこ」「じゅうにつき」とつづく。
いま、いちばん人の心を裂くように食い入って響くのは、「そのおとこ」かもしれない。男でも女でも、「そのおとこ」でありうる。私たちはそれぞれが奇跡の巡り合わせで生きている。今月19歳になった私の娘が、過激派組織に参加するために家出したロンドンの17歳の少女であるわけがないと、どうして言えるだろう。たったひとつのボタンの掛け違いが、人の歩くみちを簡単に遠ざける。いつもビデオカメラを抱えて旅をしていた私の友人が、あの殺されたジャーナリストにはなり得なかったとは言えないのだ。利発でやんちゃな隣の男の子が、河川敷で血まみれになっていた少年であるはずないなどとは、とうてい言えやしないのだ。彼我を分けるのは紙一重のいたずらに過ぎない。
うまれたときは
そのおとこも
あかんぼだった
こんな当たり前のことを、誰もが忘れている。
もしじぶんに
なまえがあるなら
おとこにも
なまえがある
こんな当たり前のことを、みんな忘れようとしている。
だから、『みみをすます』を開いても、心穏やかにはなれない自分に、やり場のない憤りを感じ、悲しみがこみ上げる。どうすればいいのだろう、こんなに惨い始まりかたをしたこの年を、どんな顔をして、どんなふうにふるまいながら、近しい人びとを励まし元気づけ食べさせながら、自分も凛として生きていくために、どうすれば、ほんの少しだけ転がる石ころやゴミに気をつけるだけでとりあえず歩くに支障のない道を歩くように、暮らしていくことができるのだろう。幾度も幾度も開いては、心を潤してくれていたこの本が、いまは傷口に塩を塗るように、心の壁を逆撫でする。
Ce monde existe pour l'avenir des enfants. ― 2014/08/20 00:16:58
まちにはいたるところに「お地蔵さん」がある。ふつうは町内会ごとに祠がひとつ建てられていて、町内会ごとに自主的に管理している。町内会ごとにルールがあり、そのルールはけっこう頑固に厳密に運用される。A町がこうだからといってB町はけっして A町のやりかたになびかないのだ。各町内会ごとのお地蔵さんには、各町内会ごとに歴史があり、住民と深く関わってきているので、その信仰の在りかたもさまざまであるのだ。
ウチの町内会の場合、「お地蔵様を奥まった路地に移したら七人も死者が出た」という言い伝え(というより事件。そんなに古い話ではなくほんまに起こったこと。今90代の長老たちが幼少の頃に経験した。……らしい。笑)があり、以来、何をおいてもお地蔵様より偉いものは存在しないのである。車が増え、駐停車などの便宜を図りたいがゆえに人目につかない路地奥に移動されたお地蔵さんの祠は、ばたばたと死人が出たことに驚いた住民によって、再び表通りへ移された。こうした移転のたびにその費用は住民が出し合う。小さな額ではないが、お地蔵様のためならエンヤコラ、なのである。
数年前、長らく表通りの定位置に居られたお地蔵さんに危機が訪れた。ちょうどお地蔵さんの真後ろにあった染め工場が敷地を売却して移転することになった。それじたいは構わないのだが、売却の際の条件が「お地蔵さんをここからどけてくれたら」ということだったらしい。緊急に開かれた町内会の会合の席で、染め工場の主人は半泣きになりながら生き残るための苦渋の選択を詫びた。「すんまへん。みなさん、すんまへん。お地蔵さんにも、すんまへん。そやけどほかに道がなかった。わかってもらえへんやろけど、ほんま、もうしわけおまへん」
染め工場の主人を責めることなど私たちにはできなかった。
工場の移転と再建、事業の立て直しを進めていけば資金はあっという間に底をつく。土地をできるだけ高く売るためには、お地蔵さんの移動という鬼のような条件を呑むほかなかった。
しかたがない。
しかたがないが、お地蔵さんの行き先を決めなくてはならない。
腕のいい大工さんに、祠を建ててもらわなければならない。
手提げ金庫じゃあるまいし、ここはアカンの、ほなあっちに置いとくわと、ほいほい持ち運びするようなものではないのである。
跡地にはどでかい分譲マンションの建築が決まっていた。
「マンションの出入り口に祠を建てさせてもらうわけにはいかんのか」
こうした意見はごく自然にみなの口をついて出た。市内にはお地蔵さんを設えたマンションが何軒も建っている。おそらく町内会との話し合いの結果、地蔵様の安置場所を変えずに従来の位置を維持したケースなのだろう。
しかし、「それは絶対に受け容れられんといわれたんです」と件の染め工場主が再び泣きそうな顔で、消え入りそうな声で述べた。
マンションのアプローチにちょっぴりモダンなお地蔵様の祠が建つ。ほんの一瞬、皆がイメージした絵。しかし文字どおり「絵」にもならなかった。「お地蔵さんをどける」条件で契約が成立している以上、もうやいのやいの騒いでも始まらないのである。
(町内には大きなマンションが幾つも建ったが、いずれも、売り主つまり元の住人はひと言も周囲に漏らさずある日突然、土地売った、引っ越す、マンション建つしよろしく、ほなさいならとトンズラするのである。なぜそんなに秘密主義なのか。引っ越すのも売るのも勝手だが、跡に建つものについて私たち旧住民との相談の場を設けることはそんなにも罪なことなのか? それほどまでに買う側つまり不動産会社や土建屋は怖いのか?)
どこへ移そう?
何本かある路地のうちのひとつに、空き家があった。その家の手前部分をつぶして地蔵様を祀るというのはどうだ?
しかし、この意見はたちまち例の「言い伝え」によって却下された。それだけではない。ウチの町内の場合、お地蔵さんを信じ敬い朝な夕なに拝む人はけっこう多いのである。いうまでもなく高齢者の面々だ。杖や歩行器なしでは歩けない人々だ。そんな人々を思えば、お地蔵さんを路地奥へはやれない。
それに費用はどうする?
町内会費の積立が少し残ってるけど?
秋の行楽レクレーションを取り止めてお地蔵さん再建に遣うか?
この問いには満場一致で「町内会費で再建しよう」にたちまち決定した。
……と、ことほど左様に町内会のなかであーだこーだと議論しているのが仲介不動産業者の耳に入ったようであった。
「古い祠のお取り壊し、新しい場所での再建、お祓いお清め、いっさいの費用を弊社が負担させていただきますっ」
(当たり前やろ最初からそう言えアホ。……と思ったのは私ひとりではないはずだ。笑)
金銭面のハードルが低くなっても、移転場所の決定は難航した。誰かが住居の一部を提供するしかもう方法がなかった。
とうとう、ある人が手を挙げた。「ウチの軒先でよかったら……大それたこと申しますけど……」
「よろしいんでっか、ほんまによろしいんでっか」
「ありがとうございます!」
「おおきにおおきにおおきに!」
満場一致で感謝感激大賛成。
そんなわけで無事に落ち着き先が決まったお地蔵さん。きれいにお召し替えもできて、住民の地蔵信仰は否が応にも深まり、愛着が強まり、帰属意識は高まったのである。
そして今夏の地蔵盆。
今年の当番組は私たちだった。
例の染め工場跡に建った巨大なマンションに住むいくつかの家庭が町内会に加入し、それらの子どもたちも参加しての、賑やかな地蔵盆となった。子どもたちが無邪気に遊ぶ姿を見るのってこんなに癒されるのか、なんて、あたしも年をとったもんだなあなどとのどかな安寧に浸ると同時に、こんなに屈託なく無心に遊ぶ子どもたちを間近に見られる幸せが稀有なものになりつつあることに、不安も禁じえないのだった。スーパーボールをたくさんすくえたと居合わせる大人ひとりひとりに自慢して回ったり、くじ引きで欲しかったものが当たらなかったと悔し涙を流して町内じゅうに轟くほどの泣き声を上げたり。嬉しいこと楽しいこと悔しいことを全身で表現するのが子どもたちだ。世界は子どもたちのために在り、世界に未来が在るとしたらそれは子どもたちのために用意された未来に他ならない。子どもたちの未来をつくらずして世界の存在意義はない。
それなのに、現在の世界の非情なこと。
地蔵盆と前後して届いた写真月刊誌が、厳しい現実を幾つも掲載していた。瓦礫のなかを歩く子、爆撃で家族とともにひとたまりもなく吹き飛ばされた子、銃撃に遭い路上に倒れたまま放置された子、惨状のショックに言葉を失い回復しない子、甲状腺癌が体のあちこちに転移し息絶えた子……。笑うのを忘れた子。泣くのも忘れた子。ガザ。ベイルート。イラク。チェルノブイリ。
子どもたちに洋々たる未来が用意され、子どもたちがその輝く未来に向かって長く生き延びますように。お地蔵様には、ただただそれを願うのである。「世界中の」というと若干荷が重くてらっしゃるようだが少なくとも我が町内の子どもたちの未来は、見守って応援してくださるはずなのである。
よろしくね。
1 est defini comme le successeur de 0, mais... ― 2014/01/09 18:32:58
『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)
「一(いち)」とは何だろう。
「一つ(ひとつ)」に含まれるのはどこからどこまでか。
自問してみるも、明快な答えにはたどり着けない。たどり着けないけれど、それでも、ひとりひとりがそれなりに「一」を認識し、意味するところをわかったつもりで言葉として用いている。「一(いち、ひと)」のつく言葉は多い。夥しい。昨今、「一段落」を「ひと段落」と発音する誤用が蔓延し、こともあろうに公共の電波でアナウンサーまでが誤用している。しかし、誤用は時を経て「それも間違いとは言えない」となり、やがて「それが正しい」となってしまうのだろう。「あらたし」が「あたらしい」と誤用されるうち通用したように。だから、ま、今回、そこは措く。
人はいったいいつから「一」を認めるのか。「一」とは数字であるがゆえに、数学者はこの「一」というものについて整然たる理路でもって解説できるのではないかと思われがちだが、本書の中で岡は、数学では「一は何であるかという問題は取り扱わない」と断言している(103ページ)。だが、だからといって「一」のことを「あるかないかわからないような、架空のものとして」扱っているわけでもない(104ページ)。「内容をもって取り扱っているのです」(同)。
では、「一」の内容とは何だろう。
数学的には考えも及ばないから、自分の体感で述べたいが、「いち」とか「ひとつ」とかいうとき、それはあるときは「個」であり、あるときは「全」であるといえる。
個別対応をする、とは、十把一絡げでなくひとりひとりに相(あい)対するということだ。あるいは、その人の、またはその家庭の状況を斟酌して採るべき処置を検討するということだ。
個性豊か、だとか、個性を尊重、だとかいうけれど、これもいわばある種の個別対応だ。人をその集団でなく、ひとりずつ別の要素としてみる。評価する。
長い行列をつくって歩く蟻たちを黒い紐状の線を描く集団ではなく、一匹一匹、虫としての個体を見つめ、その生に思いを馳せるとき(笑)、その思考は蟻の個性を尊重し、蟻に対して個別対応をしているといえるだろう。
全力を尽くす、とは、「私」の持てる力を全部何かに注ぎ込むことだ。その時の「全力」は、「私」という「ひとり」の人間に宿るものである。
全身にみなぎる力、とは、「私」という「ひとり」の人間の体に満ちる力である。
全校生徒、とは、ある「ひとつ」の学校に属する生徒のことである。
全国大会、とは、日本という「ひとつ」の国の代表にふさわしい「一番」を決する大会である。
唯一とは、たったひとつのことだけど、統一とは、実に多くのものを内包したうえで成し遂げられるものである。唯一は、「私」の気持ち次第で何でも「唯一」と認めることができ、他者に異議を唱える権利はないけれど、統一は、「私」の気持ちのほかに他者の同意が必要だ。
彼は唯一無二の親友だ。(ふうん)
これが唯一、わたしの家にあってもいいと思えるデザインなの。(あっそう)
父について唯一許せないのは足が臭いことよ。(だろうな)
今日はブルー系で統一してみたわ。(何言ってんの、靴が赤いよ。ダメ)
体育祭用のクラスTシャツをボーダー柄で統一したいんだが。(そりゃ反対意見が噴出するよ)
秀吉がやったようにこの国を統一したい。(アンタじゃ無理よ。ホントに戦(いくさ)するつもり? 馬鹿だね)
人間の体を構成する細胞や遺伝子に至るまで、小さな「一」については無限にその「個体」を追究することができる。いっぽうで、世界はひとつ、地球はひとつ、宇宙はひとつ……と、大きな「一」も無限に膨張する。
私たちはもはやその両極端のきわみまで、とりあえず、理屈で、理解することができる。
冷静に考えて、素晴しいことだと思う。「一」という概念はミニからマックスまですべてに適用可能なのだ。それを無意識に私たちは使いこなしている。
このこと以外に「一」は順序を決めたり数を数えたりするためのカウントの道具の最初のかけ声である。いち、に、さん。ひとつ、ふたつ、みっつ。カウントする際の「一」に個性も全身もない。また、3-2=1(3ひく2は1)と解を求めたときの「一」にも、唯一だの統一だの、意味はない。そのことも、私たちは使い分けている。
《小林 岡さん、書いていらしたが、数学者における一という観念……。
岡 一を仮定して、一というものは定義しない。一は何であるかという問題は取り扱わない。
小林 つまり一のなかに含まれているわけですな、そのなかでいろいろなことを考えていくわけでしょう。一という広大な世界があるわけですな。
岡 あるのかないのか、わからない。
小林 子供が一というのを知るのはいつとかと書いておられましたね。
岡 自然数の一を知るのは大体生後十八ヵ月と言ってよいと思います。それまで無意味に笑っていたのが、それを境にしてにこにこ笑うようになる。つまり肉体の振動ではなくなるのですね。そういう時期がある。そこで一という数学的な観念と思われているものを体得する。生後十八ヵ月前後に全身的な運動をいろいろとやりまして、一時は一つのことしかやらんという規則を厳重に守る。その時期に一というのがわかると見ています。一という意味は所詮わからないのですが。
小林 それは理性ということですな。
岡 自分の肉体を意識するのは遅れるのですが、それを意識する前に、自分の肉体とは思わないながら、個の肉体というものができます。それがやはり十八ヵ月の頃だといえると思います。
小林 それが一ですか。
岡 数学は一というものを取り扱いません。しかし数学者が数学をやっているときに、そのころできた一というものを生理的に使っているんじゃあるまいかと想像します。しかし数学者は、あるかないかわからないような、架空のものとして数体系を取り扱っているのではありません。自分にはわかりませんが、内容をもって取り扱っているのです。そのときの一というものの内容は、生後十八ヵ月の体得が占めているのじゃないか。一がよくわかるようにするには、だから全身運動ということをはぶけないと思います。
小林 なるほど。おもしろいことだな。
岡 私がいま立ちあがりますね。そうすると全身四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。そういうのが一というものです。一つのまとまった全体というような意味になりますね。だから一のなかでやっているのかといわれる意味はよくわかります。一の中に全体があると見ています、あとは言えないのです。個人の個というものも、そういう意味のものでしょう。個人、個性というその個には一つのまとまった全体の一という意味が確かにありますね。
小林 それは一ですね。
岡 順序数がわかるのは生まれて八ヵ月ぐらいです。その頃の子に鈴を振ってみせます。初め振ったときは「おや」というような目の色を見せる。二度目に振って見せると、何か遠いものを思い出しているような目の色をする。三度目を振りますと、もはや意識して、あとは何度でも振って聞かせよとせがまれる。そういう区別が截然(せつぜん)と出る。そういうことで順序数を教えたらわかるだろうという意味で言っているのです。一度目、二度目、三度目と、まるっきり目の色が違う。おもしろいのは、二度目を聞かしたとき、遠い昔を思い出すような目の色をする。それがのちの懐しさというような情操に続くのではないか。だから生後八ヵ月というのは、注目すべき時期だと思います。》(「「一」という観念」102~105ページ)
本書の中で、この「一」に関するわずかな記述が最も共感を覚えた部分であったことを白状しよう。この最強の雑談の内容をブログで紹介しようと思ったのも、この「一」についての岡の記述を書きとめたい一心だったのである。しかし、それは本の後半だし、なんだか数学者が乳児の成長論みたいなことをゆってるとこだけを切り取って披露するのもちょっと違うと思ったのだった。つらつらと、いかに本書がエキサイティングか、深読みできるか、現代に通じるか、この数学者がどれほどエエ男か、なんてことを書き連ねてやっとたどり着いた(笑)わけだが、自明のことを、誰もがそんなのわかりきってるやんと思っていることこそをを解きほぐしてきれいに説明してみせる技は、暮れに書いた谷川俊太郎も実はそうだし、愛するウチダはもちろん、わっしいこと鷲田清一、虫ジジイの解剖学者養老大先生もそうだし、未だに喪失のショックから立ち直れない亡き西川先生もその技に長けておられたのだった。ということは、研究ジャンルや職業に関係なく、語りに説得力のある人というのはいつの世もあちこちに存在してくださる。そしてある共通項をもっている。人としての情緒を豊かに涵養できる世でありたい。普通に生きるのが当たり前の世でありたい。争いは何も生まないし、戦争は愚かな振る舞いである。過剰な科学技術は武器や爆弾の例もあるように破壊に通じるだけである。――といったことがその思索の根底にあり、揺るがないのである。
Quand elle peint les poissons, elle devient un poisson et nage avec les autres dans l'eau... ― 2012/11/17 23:48:27



Il a fait une averse, ensuite une autre, le temps se refroidit de plus en plus...Brrr!!! ― 2012/11/14 18:32:21

小木曽 宏著
生活書院(2007年)
児童虐待の現実や対策を取材したり、また児童、若者を受け入れる養護施設や援助ホームを訪ねたりといった仕事が、ある。多くはないが、一度経験するとそのインパクトは大きい。これこれこういう施設を訪ねます、虐待問題に詳しいホニャララ先生に話を聞きに行きます、援助ホームで社会復帰に向けて頑張る若者を取材します……というような要請が来るたび、問題の所在まで遠回りせずにたどり着くため類似文献や事例報告を下調べする。取材対象者の著作にあたる。虐待ってなんなのか、その境界線ってあるのか、あるいは境界線を引くことに意味はあるのか。疑問がいくらでも湧いてくるのだが、自分の疑問の解決に割く時間はあまりない。とにかく文献をあさって「理論武装」して、「わかったふり」をするために、にわか仕込みで「日本の児童虐待問題を追いかけてン年の凄腕ルポライター」を装う(笑)。いつまで続くかな、こんなこと。
しかし、「ここまでやるには相当な覚悟がいるよな、ここまで苛め抜くにはとんでもなく膨らんだ憎悪があるんだろうな」と思わずにいられないさまざまな事例のオンパレードを読むうちに、やはりとうてい理解に至れない複雑な感情が親の心に絡み、もつれていることが想像され、単純に生きてきた私は「虐待する親の気持ちがわからない」ほうへ結論がいってしまう。
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家族援助の方法と実際
事例「誘拐されたリカちゃんのママ」――階段のない2世帯住宅のナゾ
「放火」事例から考える
問題行動の「言語化過程」
児童相談所と母親支援
不登校の事例──摂食障害の母親と長期不登校のR子
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平湯 真人著
子どもの人権双書編集委員会編
明石書店(2000年)
こちらは、養護施設を舞台に子どもの側の視点で著されたもの。生まれてきたからには必ずあるはずの「家族」という器、あるいは柱、あるいは手すりなしに、独りで生きることを強いられる子どもたち。その生活の場である養護施設がどう機能しているかをレポートする。

施設で育った子どもたちの語り編集委員会編
明石書店(2012年)
壮絶なバトルの末、養護施設や里親に引き取られて成長した子どもたちの語り。彼らの多くが福祉や援助の現場で働いている。社会復帰のプロセスはさまざまだが、共通してあるのは「自分のようにあんな辛い思いを他の誰にもさせたくない」という気持ちだ。よく、大きくなってくれたね。おばちゃんは、お礼を言うよ。
居場所をなくす不安と闘いながら(小林大)
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愛で満ちていてほしい。
本当にそうだね。
シャガールも言ってたさ。
すべては愛なのです。真の芸術は愛にある。愛を描かずに何を描くというのでしょう。
これも愛。たぶん愛。それも愛。きっと愛。
生きとし生けるものの在るところ、多寡はあれど愛に満ち満ちているはず。
こんちきしょーめ。負けないわっ
Ca ne finit toujours pas... ― 2011/09/09 19:19:08

マイケル・モーパーゴ著、佐藤見果夢訳
評論社(2007年)
痛い小説だ。
第一次世界大戦のさなかに起こった本当にあったいくつかのエピソードを基にして書かれた物語。年端も行かない少年が、戦地に駆り出され、上官からは嫌がらせや拷問を受け、前線では苛酷な戦況に足を竦ませ……
第一次大戦は1914~1918年間続き、他の戦争の例に漏れず、人の心と大地を荒廃させた。舞台である英国は階級社会で、軍人や地主が大威張りで使用人をこき使い、胸三寸で解雇も配置換えもしたような時代。それでも戦争の影がまだ色濃くないうちは、そんないけすかない雇い主や、四角いアタマの教師、頑固で古臭いジイサンバアサン連中を、庶民や子どもはうまく出し抜いたりやり込めたりして、貧しくても知恵を使い、厚みのある暮らしをしていたのだった。
冒頭で主人公が、残された時間を、世界にひとつしかない宝石を握り締めるようにいとおしんでつぶやく。この冒頭で、まだ18歳にもならないこの少年を見舞う苛酷な運命を、読者はなんとなく想像することができる。そして、1行空けて、主人公の少年は、辛いことも悲しいことも驚いたこともあったけれど、キラキラと輝きに満ちていた幼少時代を少しずつ回想していく。文体は、本書が児童文学として分類されていることからもわかるが平易である。情景描写は童話的で、豊かな森林や、古い聖堂の威容など、絵画のように読者の目に立ち上がる。時間の流れもゆったりしていて、登場する子どもたちは無邪気で生意気である。
父親が死に、主人公はその死の原因が自分にあると自己を苛んでいる。その心の底の、彼にとっては小さくないこぶが、母や、兄や、兄の恋人との関係に少し影を落としたりもする。
母子家庭となった家では生活に困窮し、兄弟は領主の敷地で魚や農作物を盗んだりもする。それでこっぴどく罰せられる。だがそうした、そのときはえげつないように見えるひとつひとつの事件が、少年たちのハートをけっきょくは打たれ強い頑健なものにしていった。彼らの強さが家にささやかな幸福をもたらすかに見えたのだが。
ドイツ軍が侵攻し、若い兵士たちが次々と駆り出されていく。十分な訓練を受けていないまだ子どものような兵士たち。彼らの敵はドイツ兵よりもまず自分の恐怖心だ。臆病風に吹かれて逃げ出したが最後、そんな兵士は必ず捕らえられて自国の軍事裁判にかけられ有無を言わさず銃殺刑に処せられる。
主人公兄弟の上官は狂気に走った軍曹で、作戦も何もなく闇雲な突撃を命令する。ただそこにいるだけで必ず殺されるのに……。
物語の最後のほうで、主人公は父の死にかんする心の傷を兄に打ち明ける。だが兄は笑って、母さんも俺も知ってたよという。でもお前のせいじゃないよ、断じて違うよと。
第一次大戦のとき、300人近くのイギリス兵士が脱走ないし臆病行為により銃殺刑に処せられた。そのうちの2人は見張り番をしていて居眠りしていたことが理由だったという。
本書はそうした臆病行為の罪で銃殺刑になった若いイギリス兵の実話を基に、書かれた。けっきょくこの戦争では数百万人の戦死者が出たのだが、その一人一人にどのような人生の物語があったのか、それを掘り出して語り継ぐ試みは、日本と同様、英国でも遅々として進んではいないようである。
心臓をわしづかみにされ、捻り潰されるかと思うほど、痛い小説だ。中高生に読んでほしい。
J'ai mal partout! ― 2011/06/08 14:33:55

スズキ コージ著
ビリケン出版(2000年)
いつもいつもいつもしんどい、という限りなく更年期的症状に近い状態にはカラダもアタマも慣れつつあるのだが、近頃そこらじゅうが痛いのである。頭とか腹ではなく膝とか肘とか指の第二関節とか踵とか土踏まずとかいわゆる整形外科的疼痛である。そんなもんアンタ前からじゃないの、あっちもこっちも痛い、なんてのはさあ、とおっしゃる向きも多かろうが、現在のように同時多発的な痛み発症というのは、なかなかどうして、私の場合珍しいのである。じつは今年初めから膝関節が痛くて曲げ伸ばしが困難になり、正座するのがひと苦労なのである。正座できないというのは、我が家での暮らしにも支障があるし、居酒屋のお座敷席でも難儀するとあって、非常に不都合な真実である。しかし、そんなことになってしまったのには原因があり、したがってこれは治癒する痛みだという診断が下され、そして医師のいったとおり、GW過ぎると痛みはかなり軽減した。したのだが、膝が楽になって喜んだのもつかの間、さきほどならべたてた部位の数々がいっせいにブーイングを飛ばすように痛み始めたのである。まともに歩けないから家の中ではほとんど伝い歩きである。外を歩くときくらいはしゃきっとしようと思って無理するので、職場や自宅に戻ったとたん、前かがみで足を引きずり、ほとんど老婆。これじゃあスズキコージのつえつきばあさんのほうがよほど元気でダンサブルなのである。年に一度の祭りの日。山奥のあちこちの集落から人々が集まって踊る。つえつきばあさんたちもつえつきおどりを踊るのである。こういう年中行事があるから元気でいられるのだな。膝を傷めた時、かかりつけの整形外科医は「絶望的なほどの運動不足がそもそもいちばん問題」といった。つまり、あまりにも体を動かしていないから、突然動かした時の負荷が何倍にも膨れ上がってしまうのである。運動不足解消には何がよいか。つえつきばあさんの例のように、やはり年中行事に限るのだ。私の場合、原則祭りは見物オンリーだ。これではいかん。参加型の祭りが必要だ。祭りでないといかんこたあなかろうに、とおっしゃる向きは多かろう。たしかに、早朝や夕方に近くをジョギングするとか、いや、走らずとも歩くだけでよいではないか、ウォーキングしなはれ、というか、通勤は徒歩に変えなさい。ハイハイ、おっしゃるとおりです。最近よさげなスポーツジムもできたことだし、体験エアロにでもいってみっか。いろいろと、私だって、検討しないわけではないのだ。しかし、どれもこれも生活の中での優先順位をいうと下位にきてしまう。時は金なり。一秒でも惜しい毎日を過ごしているのでジテキン(自転車通勤)はやめられない。ましてやジムなんぞに行く暇はない。しかし、地域の年中行事は優先順位のトップに上がる。地域の夏祭り、子ども祭り、地蔵盆、レクレーション、運動会。どれひとつとして外したことはない。どういうわけか、休日に仕事を入れられそうになっても「すみません、町内行事があるのでほかの日にしてください」というわがままが通る。お母さん、●月●日、買い物行こうよという娘にも、あかん◆◆祭りの日やもん、というと聞き分けがいい。というか「ウチも行くー」である。現にウチの娘は夏の神輿担ぎに必ず参加している。べつに義務づけられているわけではない。ないが、季節がめぐると、参加せんでどうする、みたいな気持ちになるのである。炎天下でほぼ丸一日まちを練り歩く。ハードワークだ。体力使うぞ。そうだ。私にもそういう行事があればいいのだ。杖つかないと歩けなくなる前に、この夏の盆踊りには参加を表明しよう。うう、痛い。ふざけているようだが大真面目である。そこらじゅうが痛いのである。
コレハ ニンギャウノイヘ。イッタイ ドンナ ニンギャウガ スンデ ヰルノデセウ。 ― 2010/05/11 18:47:12

『武井武雄画噺2 おもちゃ箱』
武井武雄 絵・文
銀貨社(復刻版1998年)
偉大なる武井武雄大先生をご存じか。
私は恥ずかしながらつい近年までまったく知らなかったのである。
なぜ知ったかというと、武井武雄大先生は画家であると同時に造本作家でもあったのだが、蒐集家や美術館が所蔵している武井武雄作の豆絵本の数々が地元のとあるギャラリーで一挙展示される機会があり、武井武雄の名は知らずとも「豆本」「造本」というキーワードにビビビときて私はその展示会へダッシュした。はたして、そこに展開されていたのはめくるめく大正モダニズムの薫り濃く、昭和初期の罪なき少年少女が夢見た星の向こう側を見事に描きつつ、エスプリとアイロニーをピリリと効かせたタケちゃまワールド、ううう、もとい、武井武雄大先生様の世界であった。またこいつめ過剰称賛してからに、と思われるかもしれないが、ほんとに素晴しいのだ。当時の子どもたちのほうがきっときっと現代っ子の何百倍も幸せだったに違いない。そう確信できるほど、武井武雄大先生様の絵本は美しく幻想的で想像をかきたててくれるのである。その世界は文字どおりおもちゃ箱をひっくり返したようでありながら、ちゃらちゃらしてなくて、しっとり、じんわり、きめ細かく心に沁みてくる。
武井武雄のその造本作品は、今は長野県の「イルフ童画館」がほとんど所蔵していて、そこへ行かないとふつうは見ることができない。私が作品を見ることのできたギャラリーは、そのオーナーの先代が個人的に武井武雄と交流があり、いくつか作品を収集していたのを披露した、ついては各地の蒐集家や所蔵館にも一部を出展してもらったということであったようだ。昨今めっきり小ギャラリーへは足を向けなくなり、知り合いの作品展か、行きずりで覗いた個展やグループ展、でなければ子どもにせがまれて鳴り物入りの大きな美術展しか鑑賞しなくなっていたので、新聞の片隅の三行広告だけで行動するなんて珍しい出来事であったわけだが、ときどきこういうふうに運命の出会いというか、脳に稲妻が走るような衝撃の出会いが訪れる。やはり私は本づくりに生きていかなくちゃ、大先生には及ばないけれど、かつて大人も子どもも魅了したタケちゃまワールドのように、私なりの世界をつくらなくちゃ。世間知らずの美大生のようなナイーヴな呟きを中年の胸に繰り返したひとときであった。
そうはいっても、もう武井武雄大先生の絵本は、どこででもお目にかかれるものではないのである。本書は、図書館の児童書コーナーを、例によってぶらぶらほっつき歩いていて、泳いだ視線の先に、たまたま、あったのである。
本書『おもちゃ箱』は銀貨社からいくつか出ている復刻版のひとつ。
おもちゃ箱のなかのおもちゃの国で起こる不思議な(というか、だからなんやねん、的な)物語が4編収められている。オリジナルの『おもちゃ箱』はすべてカタカナ表記だが、復刻版では、著者本人の手書き文字以外は現代仮名遣いに改められている。
「ワラノヘイタイ ナマリノヘイタイ」
「キデコさんのはなし」
「キックリさんのはなし」
「クリスマストオモチャバコ」
この4編のお話の前に、おもちゃ箱の中の人物紹介というのがあって、「リクグンタイシャウ」(陸軍大将)に始まって、数ページにわたっておもちゃの絵と説明が連なる。オリジナルのデジタルアーカイヴがあるのでぜひご覧いただきたい。
http://kodomo4.kodomo.go.jp/web/ippangz/cgi-bin/GZFrame.pl?SID=107370
もともとは昭和2年に刊行されたそうである。当時はモダンでハイカラな絵本だった。
とにかく、人物(人形)の目が素敵。視線がたまらない。ああ、オネエサマ(笑)。身悶えしちゃうよ。
※疑問※「にんぎょう」は「ニンギャウ」、「たいしょう」は「タイシャウ」、なのになぜ、「すんでいるのでしょう」は「スンデヰルノデセウ」と表記するのかな? 誰かご存じ?
武井武雄は1894(明治27)年6月25日生まれ。長野県の平野村(現岡谷市、イルフ童画館のあるところ)出身。東京美術学校(現東京芸大)西洋画科を卒業。1921(大正10)年、生活のため『子供之友』や『日本幼年』などの子ども向けの雑誌に絵を描き始める。
やがて、子どものために絵を描くということは腰掛けや片手間ですることではなく、「男子一生の仕事にしても決して恥ずかしくない立派な仕事」であると思うようになったという。
『コドモノクニ』という絵雑誌が1922(大正11)年に創刊されると、その絵画部門の責任者として従事する。見開きいっぱいの美しいカラー刷りの絵に、西条八十や北原白秋の童謡や童話を掲載した『コドモノクニ』は、当時画期的な雑誌であったそうだ。
1925(大正14)年、初の個展「武井武雄童画展」を銀座で開催。『童画』という言葉は武井武雄がこの時初めて使ったという。
しかし、私は、武井武雄の絵を「童画」といってしまうのは惜しい気がする。それは大先生には不本意なことかもしれないが、大先生の絵は「童の画(わらべのえ)」を遥かに超越していると思うからだ。
その「わらべ」がミソである。おそらく「童」という字は、かつてはもっと意味が深く神聖で、この一字に人々が込める願いは天空よりも大きかったことであろう。現代ではこの文字は「幼児」と「児童」と「生徒」との区分けにしか用いられない。「児童手当」も「子ども手当」に変わっちゃったし(笑)。「童」も「童画」も「童話」も、もうノスタルジーを帯びてしまって現実味がないのかも。「童心」なんて、死語だもんね。
ああ、武井武雄大先生ーーー。
謙虚な気持ちでレッスンすることと、自覚と自信をもつこと ― 2010/05/10 18:38:40
ルーマ・ゴッデン著 渡辺南都子訳
偕成社(1996年)
本書と、同じ著者による『バレエダンサー』(上下)は、娘がバレエを習い始めた頃にバレエとは何たるかを知るために熟読したものである。これらの物語によってバレエの何たるかがすべてわかるわけではもちろんないが、とにかく、当時は、バレエに関するいちばんまともな本ってもしかして山岸涼子の『アラベスク』か有吉京子の『SWAN 白鳥』だけじゃないの、バレエに関するまともな文献なんてないじゃんかと思っていたので、ゴッデンのこの2作は、バレエについてその世界を垣間見るための絶好の参考書であったのだ。
少し知識がついてくると、ダンス関連の書物や雑誌がやたらあることに気づいていきなり目は開かれるのだけれど、パッと見、雲の上の存在のダンサーをただ眺めるだけの雑誌、または、ぶりぶりひらひらお嬢様御用達マガジン、にしか見えないような体裁だったりするのでなかなか手が出ず、読むべきところをピンポイントでしっかり読み込めばそれなりに参考になるのだということに気づくまで、相当時間を要したりするのであった。
ともかくそういう事情で読んだゴッデンの本書だが、プロダンサーの世界は誰もが望んで入れる場所ではない、ということを明快に語っているといっていい。それはたしかである。努力がものを(まったく言わないわけではないが)言う世界ではない。もって生まれた素質と才能が98%、親や周囲の審美眼と鑑識眼と投資が1%、本人の努力1%。あからさまにそう書かれているわけではないが、結局はそういうことねとわかるような物語になっている。ほんとうは、作家の狙いはダンサーを夢見る子どもたちを勇気づけることにあっただろうと思われるが、できるだけ現実味を帯びさせようと工夫した結果、読み手によっては逆に「ああ、私には手の届かないところなのね」と打ちひしがれてしまうこともあろうかと思われる。
そんなわけで、娘がバレエを習い始めた頃、姿勢がよくなればいいわ、ほどほどの頃合いで辞めさせなくちゃと思っていたのだが、だから他の習い事にも目を向けさせたりしたのだが、意に反してバレエがいちばん好きになりバレエ以外はすべて辞めてしまって、バレエがいっちゃん大事やねんウチは、と口にするようになってしまって現在に至る。
物語は、シャーロットという10歳の少女が英国王立バレエ学校に入ってジュニアの主役を射止め立派に踊りきるところまでが描かれている。
シャーロットの亡き母は優れたダンサーだった。今、母の姉である「おばちゃん」と一緒に暮らしている。生活は貧しく、昼となく夜となく、休む間もなく働きづめのおばちゃんを助けて、シャーロットは学校へ行きながら家事一切をこなす。そしてバレエ教室へも通う。
彼女が通うバレエ教室に、王立バレエ学校からオーディションの打診が来て受験することになり、猛レッスンの日々が始まる。
落ち込んだり、レッスン教師をクサらせたり、何かとたいへんだったが合格して入学、入寮するシャーロット。他の生徒から意地悪されたり、残してきた愛犬(この子犬の存在が話をややこしくしている)が心配だったりと、何かと話はさまざまな要素を絡めつけもつれさせて展開していく。が、高慢な同期生アイリーンが退学させられたくだりから、物語のゴールははっきり見える。すべてはこの上ないほどハッピーなエンディングへと収束する。
読み取るべきは、シャーロットが謙虚な性格に描かれていて、とても自分なんかダンサーの器じゃないと思っていたのがだんだんと選ばれた人間としての自覚と自信をもつようになる、その成長のさまであろう。容姿に恵まれ立居振舞にも華のあるアイリーンが、自惚れから基本レッスンを怠ったために上達が滞り、学校から退去させられるのと対照をなしている。謙虚な気持ちを失わず、自分の身体の声を聴くことに徹するシャーロットに女神が微笑む。このことは、死にもの狂いの練習とか、たゆまぬ努力、というものとは少し違う。いくらやってもダメなものはダメで、するべき人がするべき時にするべきことをした時にのみ、将来のプリマは誕生するのである。
原文のスタイルを尊重した翻訳文は、雰囲気を余すところなく伝えているようだが、若干読みづらさをともなう。たとえば、いま語られているのがレッスン場面だとすると、そこに前触れもなく、レッスン室にはいない第三者の過去の会話が挿入されたり、突然場面転換したりする。一般小説ならべつに普通の展開だろうが、児童書であるので、さらには翻訳文体であるので、もうちょっとだけ親切な編集ができていればと思う。主人公の年齢からしても、小学校中学年あたりからをターゲットにしたいところだろうが(実際英国ではそうなんだろうけれど)、翻訳ものを相当読み慣れていて、なおかつ小学校高学年以上、がせいぜいではないか。ちなみに、ウチの子は中学生になってから、返却期限を超過して読んでいたが、読み切れなくてギブアップ。いわく「どうでもいい話題が多すぎる」。いや、ルポルタージュじゃなくて小説だからこれでいいんだよ。でも、もう少しだけ日本の小説らしくなっていればなあ、と思わなくもなかった。
シャーロットのおばちゃんは、シャーロットの通うバレエ教室の主宰団体である劇場の衣装係として勤めており、そのためシャーロットはほとんどレッスン料を払わなくて済んでいる。彼女の母親がかつてその劇場を賑わしたダンサーであったことも関係している。そして王立学校への入学である。シャーロットは貧しいが、バレエに関してほとんど費用がかかっていないのである。反対に彼女の周囲は、膨大な費用をかけてレッスンを積み合格した子女たちばかりで、親が多国籍企業のトップだったり、国境を越えて入学していたり、帰省先はお城だったりする。謙虚で控えめなシャーロットの存在は、読み手によっては励ましになるだろうが、先述したとおり、やはり例外というか虚構というか、御伽噺に近いものだと思わせるのがちょっと悲しい。
ちなみにウチの子の場合、バレエのレッスンにかかる費用はいまのとこ年間で約60~70万円程度である。最初からそうだったわけではなくて、習い始めの頃はその半分ぐらいだった。3、4年前に跳ね上がって上昇中なのだが、これに、他の生徒さんのように臨時講習や教室外レッスンなどをこまめに受講したり、レッスン着やシューズ、ポワント(トウシューズ)をどんどん新調していくと、ぽんぽんと10万単位で積み上がっていく。だから60~70万円というのはこの世界ではけっして高くはなく、とてもリーズナブルに過ごせているはずである。しかし、なんといっても親は年収が250万円に満たないこの私ひとりである。何かにつけて私がぴいぴい弱音を吐くのも無理ないということをわかっていただけるであろうか。で、である。娘がさらにバレリーナの道を邁進するとなったらいったいこの私にどうしろというのか。
「さなぎちゃんは踊れる子です。お母さん、身体を大事にしてしっかりバシバシ働いてください」
「お母さんに苦労かけて悪いからもうバレエ辞めよう、と思うようでは見込みがありません。お母さんに苦労かけるけどそれでも私はやる、というある意味非情さをもたないと、あるいは誰が自分のためにどれだけ力を尽くしていようが知ーらない、というような無頓着さ、そういう人でなければこの道では大成しません」
中一の時にいただいた、バレエ教室の先生からのお言葉である。
はいはい、働いておりますですよ(苦笑)。
しかし、ウチの子は非情でも無頓着でもないから、大成せんということだ。
家庭訪問のあった日、進路ネタで嶋先生と話したことを娘に言うと彼女はけらけら笑ったあと真顔になって、
「女子プロ野球チームに入団、ていう手もあるやんな。ウチ、入れる自信あるで。知ってる? 年棒200万円やって。お母さんとええ勝負」
……。あのなあ。