謙虚な気持ちでレッスンすることと、自覚と自信をもつこと2010/05/10 18:38:40

『トウシューズ』
ルーマ・ゴッデン著 渡辺南都子訳
偕成社(1996年)


本書と、同じ著者による『バレエダンサー』(上下)は、娘がバレエを習い始めた頃にバレエとは何たるかを知るために熟読したものである。これらの物語によってバレエの何たるかがすべてわかるわけではもちろんないが、とにかく、当時は、バレエに関するいちばんまともな本ってもしかして山岸涼子の『アラベスク』か有吉京子の『SWAN 白鳥』だけじゃないの、バレエに関するまともな文献なんてないじゃんかと思っていたので、ゴッデンのこの2作は、バレエについてその世界を垣間見るための絶好の参考書であったのだ。

少し知識がついてくると、ダンス関連の書物や雑誌がやたらあることに気づいていきなり目は開かれるのだけれど、パッと見、雲の上の存在のダンサーをただ眺めるだけの雑誌、または、ぶりぶりひらひらお嬢様御用達マガジン、にしか見えないような体裁だったりするのでなかなか手が出ず、読むべきところをピンポイントでしっかり読み込めばそれなりに参考になるのだということに気づくまで、相当時間を要したりするのであった。

ともかくそういう事情で読んだゴッデンの本書だが、プロダンサーの世界は誰もが望んで入れる場所ではない、ということを明快に語っているといっていい。それはたしかである。努力がものを(まったく言わないわけではないが)言う世界ではない。もって生まれた素質と才能が98%、親や周囲の審美眼と鑑識眼と投資が1%、本人の努力1%。あからさまにそう書かれているわけではないが、結局はそういうことねとわかるような物語になっている。ほんとうは、作家の狙いはダンサーを夢見る子どもたちを勇気づけることにあっただろうと思われるが、できるだけ現実味を帯びさせようと工夫した結果、読み手によっては逆に「ああ、私には手の届かないところなのね」と打ちひしがれてしまうこともあろうかと思われる。

そんなわけで、娘がバレエを習い始めた頃、姿勢がよくなればいいわ、ほどほどの頃合いで辞めさせなくちゃと思っていたのだが、だから他の習い事にも目を向けさせたりしたのだが、意に反してバレエがいちばん好きになりバレエ以外はすべて辞めてしまって、バレエがいっちゃん大事やねんウチは、と口にするようになってしまって現在に至る。

物語は、シャーロットという10歳の少女が英国王立バレエ学校に入ってジュニアの主役を射止め立派に踊りきるところまでが描かれている。

シャーロットの亡き母は優れたダンサーだった。今、母の姉である「おばちゃん」と一緒に暮らしている。生活は貧しく、昼となく夜となく、休む間もなく働きづめのおばちゃんを助けて、シャーロットは学校へ行きながら家事一切をこなす。そしてバレエ教室へも通う。
彼女が通うバレエ教室に、王立バレエ学校からオーディションの打診が来て受験することになり、猛レッスンの日々が始まる。
落ち込んだり、レッスン教師をクサらせたり、何かとたいへんだったが合格して入学、入寮するシャーロット。他の生徒から意地悪されたり、残してきた愛犬(この子犬の存在が話をややこしくしている)が心配だったりと、何かと話はさまざまな要素を絡めつけもつれさせて展開していく。が、高慢な同期生アイリーンが退学させられたくだりから、物語のゴールははっきり見える。すべてはこの上ないほどハッピーなエンディングへと収束する。

読み取るべきは、シャーロットが謙虚な性格に描かれていて、とても自分なんかダンサーの器じゃないと思っていたのがだんだんと選ばれた人間としての自覚と自信をもつようになる、その成長のさまであろう。容姿に恵まれ立居振舞にも華のあるアイリーンが、自惚れから基本レッスンを怠ったために上達が滞り、学校から退去させられるのと対照をなしている。謙虚な気持ちを失わず、自分の身体の声を聴くことに徹するシャーロットに女神が微笑む。このことは、死にもの狂いの練習とか、たゆまぬ努力、というものとは少し違う。いくらやってもダメなものはダメで、するべき人がするべき時にするべきことをした時にのみ、将来のプリマは誕生するのである。

原文のスタイルを尊重した翻訳文は、雰囲気を余すところなく伝えているようだが、若干読みづらさをともなう。たとえば、いま語られているのがレッスン場面だとすると、そこに前触れもなく、レッスン室にはいない第三者の過去の会話が挿入されたり、突然場面転換したりする。一般小説ならべつに普通の展開だろうが、児童書であるので、さらには翻訳文体であるので、もうちょっとだけ親切な編集ができていればと思う。主人公の年齢からしても、小学校中学年あたりからをターゲットにしたいところだろうが(実際英国ではそうなんだろうけれど)、翻訳ものを相当読み慣れていて、なおかつ小学校高学年以上、がせいぜいではないか。ちなみに、ウチの子は中学生になってから、返却期限を超過して読んでいたが、読み切れなくてギブアップ。いわく「どうでもいい話題が多すぎる」。いや、ルポルタージュじゃなくて小説だからこれでいいんだよ。でも、もう少しだけ日本の小説らしくなっていればなあ、と思わなくもなかった。

シャーロットのおばちゃんは、シャーロットの通うバレエ教室の主宰団体である劇場の衣装係として勤めており、そのためシャーロットはほとんどレッスン料を払わなくて済んでいる。彼女の母親がかつてその劇場を賑わしたダンサーであったことも関係している。そして王立学校への入学である。シャーロットは貧しいが、バレエに関してほとんど費用がかかっていないのである。反対に彼女の周囲は、膨大な費用をかけてレッスンを積み合格した子女たちばかりで、親が多国籍企業のトップだったり、国境を越えて入学していたり、帰省先はお城だったりする。謙虚で控えめなシャーロットの存在は、読み手によっては励ましになるだろうが、先述したとおり、やはり例外というか虚構というか、御伽噺に近いものだと思わせるのがちょっと悲しい。

ちなみにウチの子の場合、バレエのレッスンにかかる費用はいまのとこ年間で約60~70万円程度である。最初からそうだったわけではなくて、習い始めの頃はその半分ぐらいだった。3、4年前に跳ね上がって上昇中なのだが、これに、他の生徒さんのように臨時講習や教室外レッスンなどをこまめに受講したり、レッスン着やシューズ、ポワント(トウシューズ)をどんどん新調していくと、ぽんぽんと10万単位で積み上がっていく。だから60~70万円というのはこの世界ではけっして高くはなく、とてもリーズナブルに過ごせているはずである。しかし、なんといっても親は年収が250万円に満たないこの私ひとりである。何かにつけて私がぴいぴい弱音を吐くのも無理ないということをわかっていただけるであろうか。で、である。娘がさらにバレリーナの道を邁進するとなったらいったいこの私にどうしろというのか。

「さなぎちゃんは踊れる子です。お母さん、身体を大事にしてしっかりバシバシ働いてください」
「お母さんに苦労かけて悪いからもうバレエ辞めよう、と思うようでは見込みがありません。お母さんに苦労かけるけどそれでも私はやる、というある意味非情さをもたないと、あるいは誰が自分のためにどれだけ力を尽くしていようが知ーらない、というような無頓着さ、そういう人でなければこの道では大成しません」

中一の時にいただいた、バレエ教室の先生からのお言葉である。
はいはい、働いておりますですよ(苦笑)。
しかし、ウチの子は非情でも無頓着でもないから、大成せんということだ。

家庭訪問のあった日、進路ネタで嶋先生と話したことを娘に言うと彼女はけらけら笑ったあと真顔になって、
「女子プロ野球チームに入団、ていう手もあるやんな。ウチ、入れる自信あるで。知ってる? 年棒200万円やって。お母さんとええ勝負」

……。あのなあ。

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