ノートに漢字を書く私にゾランは「君、それは絵だよ」と言ったことを思い出したの巻2009/06/10 17:52:25

カフェ・アピエにあった骨董ミシン。垂涎もんである。骨董品に興味はないが、ミシン、大好きなの……。


『ぶらんこ乗り』
いしいしんじ 著
新潮文庫(2004年)


お気づきの方もおいでかもしれないが、本日のわたくしはほとんど仕事になっていない(笑)。
明日しめきりの企画書と原稿が私の頭の中で形をなさないまま山になっている。最初の1行、とっかかりのひと言をつかめたらあとはすすすすすっと行くんだけど、それがつかまらなくて、外は雨だし、まったくもう、掃除してないドブみたいに溜まったまま吐き出せないんである。

気晴らしにちょこちょこよそ見をしにいってはなんのかんの書き散らしたりして、たちが悪いのである(笑)。

だからというわけではないが、やっぱ読まなきゃよかったよ、という感想をもった本について書き殴ることにする。

本書はいしいしんじのデビュー作だそうである。
私は前に、彼の『トリツカレ男』を大いに楽しんだ。ブログにも綴ったけど、この『ぶらんこ乗り』はずっとずっと前に一度図書館で借りて、読めないでいるうちに期限が来て返してしまったのであった。思えば、あのとき『ぶらんこ乗り』を読んでいれば、私は二度といしいしんじに近寄らなかったかもしれなかった。不思議なもんである、本との縁も、人との縁も。
先に結論からいってしまうと、『ぶらんこ乗り』は疲れる。押しつけがましいところがちっともないせいか、よけいに疲れる。いろいろ見せられて読まされて、「で、どこへいけってゆーんだよ」という気分にさせられるのである。

なぜそんなに疲れるのか。
複雑な話ではない。こみいった構成でもない。
語り手「私」には天才の弟がいるが、この弟が幼いくせにいっぱい「お話」を書くんである。それはいいとして、そのお話がことごとく平仮名ばっかりで紹介されているのである。弟が書いたままを表現しているということだろうが、たいへん読むのがしんどい文面なのである。

平仮名ばかりだと読むのに疲れるのか、というと必ずしもそうではない。ひらがなで、やまとことばばかりで、書いてあるのであればべつにどうってことはないはずである。谷川俊太郎の詩の例を引かなくても、子どもの絵本やお話の本はひらがなばかりである。それを大人が読んで読みにくいとは思わないであろう(モノにもよるけど)。
『ぶらんこ乗り』の作中物語として登場する天才の弟が書くお話には、かなり漢語が混じっていて、それを平仮名にしているもんだから読みにくいのである。
漢語の中には、幼少時から、つまり言葉を覚えたての最初から、慣れ親しむ熟語もある。ほかに言い換えのきかないような言葉がそうである。
んーと、たとえば……せんせい、かぞく、せかい、ないしょ、ひみつ……

《ぎょそんのみんなはふねをくいにしばり、やねをしゅうぜんし、とぐちやかべにいたをうちつけました。》(15ページ)

《「くうちゅうぶらんこのげんり」
 (……)さいしょはたいしてへんかはでません。けれどそのうち、ふとしたひょうしにてあしがさかさにまがってる。(……)》(20~21ページ)

ひとつめの例は、引用箇所の前に「みなと」という言葉が出ているので、「ぎょそん」でなく「むら」でよいと思う。また、「しゅうぜんし」より「なおし」のほうがいいと思わない?

二つめの例では、「げんり」「さいしょ」「へんか」「ひょうし」。すべて和語で表現すればもっと見やすい。言葉を言い換えることで前後の表現は当然変わってくるが、物語の流れからしてその点はあまり重要ではないはずだ。「げんり」の和語はなんなのよといわれると困ってしまうが、「くうちゅうぶらんこのげんり」と題されたこのお話が「原理」について語っているとは思えないので「くうちゅうぶらんこのしくみ」とか「ひみつ」とかならもっと可愛いのに、と思ったのである。「はじめはあまりかわりません。けれどそのうち、ふとしたはずみに……」でもいっこうに問題ないと思われる。
また、弟のお話は言い回しや文章構造もいささか大人びているので、ひらがなを覚えたての幼児なんぞが本書の「弟のお話」の部分だけを読んでも絶対ちんぷんかんぷんのはずである。

弟の天才性を強調するために、漢語を多用したのかもしれない(だとしても納得しないけど)。もちろん、熟語が平仮名になっているからといってまったく意味がわからなくなることはないし、多少の読みにくさはクリアできるさという人には苦でもなんでもないだろう。
若干イラつきながら何とか読み終え、物語『ぶらんこ乗り』そのものはけっして悪くないのにもったいない、と思ったのだった。だけどそれでももう読みたくないし、読まなきゃよかったと正直思った(これじゃなくて他の本にすればよかった)。
思えば、前に読まずに返却してしまったのも、ぱらぱらと開いて「うっ」ときて閉じちゃったような、そんな気がしてきた。

私は、ひらがなが好きである。ひらがなで意味が通るところはひらがなで書くのを好む。けれど故事成語や維新後に渡来した西欧語からの翻訳語、たとえば法律とか、議会とか、鉄道とかの類だけど、そういうのは幼児向け絵本でも1年生の教科書でも「漢字表記でルビを振る」方針でいくべきだと考えるほうである。
ひらがなは文字で、漢字は絵として認識するのが、日本の子どもたちの正しいはじめの一歩だもんね。

初めてヨーロッパを旅したとき、日本のことを全然知らない欧州人ばかりに会ってたいへん愉快だった。ブラチスラヴァで会ったゾランとスコピエで再会した。私が旅ノートを取り出してメモしているとおそるおそる「……それ、字?」と訊いた。字でなかったらなんだと思うんだよ(怒。笑)という私に絵じゃないのかなってさ、と彼は真顔で言った。ハウスはどう書くのと聞かれて家と書いたらすごく感動された(笑)。いうまでもなく私は心の中で野蛮人めと舌打ちしたのである。若かった。

みんなが感動することに同じように素直に感動するのもいいけれど、みんなが素晴しいと言うものを同じように素晴しいとは到底思えないという感性も必要であるの巻2009/06/04 19:19:29

少し前のことですが、念願の「Cafe Apied」訪問を果たしました。幸せな空間だった……
カフェ・アピエはここざんすよ↓
http://apied.srv7.biz/apiedcafe/index.html
※今春の営業はこの週末でおしまいです。


『西の魔女が死んだ』
梨木香歩 著
新潮文庫(2001年)


「お母さん、みんなが『西の魔女が死んだ』はすごくいいっていうねん」
「ふうん」
「今度図書館行ったら借りてきて」
「止めとき。『オズの魔法使い』読むほうがええ。西の魔女、でてくるやん。最後死ぬやん」
「そやけど、違う話やん」
「あ、知ってた?」
「当たり前やろ」
「読んだ人から話聞いとき。わざわざ読まんでもいいって。ほかに読まなアカン本はいっぱいあるで」
「なんでぇ」

まさか『親指さがし』のほうがはまし、とまでは絶対いわないけれど(笑)、『西の魔女が死んだ』を読む時間があったらほかに読んでほしい物語はいっぱいある、というのは本音だ。私はずいぶん昔に『裏庭』を読んで以来申し訳ないけど梨木香歩の作品に先入観をもってしまって近寄れなかった。『西の魔女が死んだ』の評判は知っている。私の友人も、信頼できる筋も、読んだ人はたいていよかった、感動したという。だからたぶん私も、『裏庭』がどうあれ、それはそれとして、『西の魔女が死んだ』を読めば普通に感動するかもしれない。そう思うとなおさら読みたくない。……天邪鬼のようだが、こういうのがベストセラーやロングセラーに対する私の場合のごく普通の反応である。であるからして、ことさらに『西の魔女が死んだ』だけを毛嫌いしているわけではない。しかし、本書の場合はそういう私の性格に加えて、ネーミングや登場人物設定から『裏庭』と同じ、自分とは相容れないなんらかの匂いを感じて本能的に避けていたのである。

そうはいっていても、案の定、主人公と同じ年頃の中学生たちの間では、とくに女子生徒の間では絶大な人気があるらしい。本好きな子はすでに小学校時代に軽くクリアしている。中学1年生のとき、クラスメートのさくらちゃんから、さなぎは『西の魔女が死んだ』の単行本を借りてきた。イケズな母が図書館で借りてきてくれないから(笑)。

「読んだ?」
「うん、読んだ」
「どうやった?」
「さくらが、すっごぉくいいで、感動するで、絶対泣くで、てゆうてたけど」
「けど?」
「どこで泣くのかわからへん」

さすがは私の娘である(万歳三唱)。

以上の出来事は去年の夏頃だったと思う。
さくらちゃんは中学校に入ってから仲良くなった子で、四人きょうだいのいちばんお姉ちゃんであるせいか、ウチの子よりずっと小柄で丸い顔があどけないのに、とてもしっかり者で頼れる存在である。昨年度一年間はクラスのいろいろな活動でさくらと一緒に行動し、さなぎはずいぶん彼女の世話になり、また互いに信頼関係も築いたようである。2年生になってクラスが分かれたが、相変わらずよくくっついているみたいだ。

いつかも触れたが、娘はとても「昭和な」国語の先生を慕っているので、よく読書のアドバイスを受け、図書室で先生の言にしたがって本を借りてくる。先日も文庫を何冊か持って帰ってきた。そのなかにまたしても『西の魔女が死んだ』があった。

「あれ、また西の魔女」
「うん」
「読み直してみようという気になったのはなぜですか、お嬢さん」
「前は、さくらに早よ返さなあかんてゆうのもあったし、なんかさささっと読んで……何が面白いんかなー泣けるんかなーってわからへんかったし」
「じっくり読んだらまた違う感動を得るかもしれないというわけですか」
「映画になったって、聞いた」
「うん、西の魔女=おばあちゃん役した女優さん、きれいな人やで」
「え、観た?」
「ううん、雑誌のインタビューを読んだん」
「ふうん……映画になるくらいやし、やっぱし感動的なんちゃうかなあ……」

そんなもん、ヴィジュアル化しようと思ったらなんだってできちゃうんだよ君、『親指さがし』だって映画になるんだよ(ってもういいってか)。
という発言は控えたが、何にしろ、「私の読みが浅かったのか」と疑問を持ち、再読する気になったことじたいは悪くない。娘は『西の魔女が死んだ』を通学リュックのポケットに入れて持参し、読書タイムだけでなく休み時間にも読んでいた。

「みんな、ようそんなん学校に持ってくるなあ、ってゆうねん」
「なんで? そんなヤバイ読み物か?」
「その本は、ベッドの横にタオルと一緒に置いといて、夜寝るときに泣きながら読む本やって。机に向かってクールぅに読む本と、ちゃうねんて」
「ぎょえー」
「ぎょえー、やろ、ほんまに」
「で、さなぎは? 昨日の晩は寝る前読んでたやん」
「うん。そやけど、タオル要らんし」

さすがは私の娘である(万歳三唱の三乗)。

『西の魔女が死んだ』は、想像力を働かせ、深く読み込まないと味わえない物語だと思う。中学になじめず不登校になる少女、田舎で独り暮らす英国人の祖母、大好きだったのにその祖母と喧嘩別れしたまま永遠に別れてしまうことになる……という設定は、小中学生をジーンとさせるには十分である。しかしながら著者の本意はもちろん別のところにも、あっちにもこっちにもあるのだろう。主人公の少女が関わる、魔女こと祖母や母はじめ幾人かの大人たちの描かれかたは、かなり思考をめぐらし想像しないと読者に響いてこないし、思わせぶりなエピソードの多くは解決(あるいは終結)を見ないままほったらかしにされる。あとは読者に委ねられるわけである。
けっこう読解力のある大人でないと、物語として面白いと思うかどうかも、作品としていいも悪いも語れないのではないか。子ども目線で描いているような体裁をとりながら、大人が見下ろしながら書いたわね、というのが率直な感想である。
また、英国暮らしを少しかじっていないとある意味隅々まで堪能できないと思われる。著者は英国文化体験者らしいので、『裏庭』もそうだが「イギリスの香りをちょっぴりお届けします」的な、「隠し味の押しつけ」を感じ、それを味わえないと楽しめないんですよお客さんといわれているように感じてしまうのである。いや、天邪鬼なんですわかってますよ。
ま、早い話が、私が大の英国嫌いなので好かんのだ、というだけである(でもけっして英文学嫌いではないんだぞ、最近のは読まないけど)。これが、もっと別の文化のエッセンスが振りかけてあったなら異なる感想を持ったであろう。たとえば憧れの島マダガスカルとか、サリフ・ケイタの国マリとか、死ぬまでに絶対訪れたいブータンやネパールとか……の匂いがぷんとする物語だったら、単純短絡な私は手放しで絶賛したかもしれないのである(というか、絶対絶賛する)。

もとい。さくらちゃんはじめ、娘の周囲の中学生たちがどこまで本書を読み込み、どこにどのように深く感動し、胸を震わせたのかはわからない。しかし、この年頃の少年少女は人の意見になびきやすい。長いものに巻かれやすい。情報に翻弄されやすい。みんながよいというものをよいと思い込みやすい。
それが絶対ダメだとはいわない。周囲に素直に同意できるのも重要な「能力」だが、違和感を感じ異を唱えることができる「心意気」も必須。大人になっていく過程でしっかり培い、両刃の剣の如く使いこなしてほしいのである。

ところで、このさくらちゃんは私が絶賛した『トリツカレ男』に大感動したというのである! さくら、君はワンダフル!
ウチの娘はというと、私があまりに勧めるので読んだものの「うーん、なんかイマイチ」とかなんとかいって面白いといわなかったのである。
……ということは、さなぎの天邪鬼ぶりはちと極端、ということになるのか? いやそれより、やっぱし単に「読めてない」だけなんかい……?

どうしてこんなことになってしまったんだろう、と考える時間は長いほどよい2008/11/18 18:41:15

『ぬすまれた宝物』
ウィリアム・スタイグ作・挿画 金子メロン訳
評論社(1977年)


中耳炎の治療のため、娘を連れひっきりなしに通っていた耳鼻科には、なぜだかスタイグの絵本が多かった。小児科ではないので待合室の図書に絵本はさほど多くはなかったが、その多くない絵本の中にスタイグの絵本が何冊もあった。私はスタイグという作家に無縁の人生だったのだが、そこでめでたくファーストコンタクトとあいなったのである。

そこにあった絵本はたしか、『ねずみの歯いしゃさんアフリカへいく』『いやだいやだのスピンキー』『ジークの魔法のハーモニカ』などなどであった。私はとりわけ『ジーク――』が気に入って、必ずまずそれを探し、待つあいだに読み聞かせるのであった。しかし娘は、あまり気に入らないようであった。たいてい私の読むものはおとなしく黙って聴くのだが、何度も繰り返し読んでとせがまない場合は興味を惹いていないということである。スタイグの絵本を、娘が自分から読んでとねだることはついぞなかった。待合室には他にも美しい絵本、楽しい絵本も置いてあったので、そっちのほうがよかったということだからしかたないが。
そんなわけで、私はスタイグの絵本を自分のために取り、読んで、娘をつき合わせていたのであった。それ、もう読んだよ、とヤツに何度いわれようが、まずスタイグの絵本を読んだ。

なぜかというと、浅はかな私は、スタイグの絵本の登場人物たちが実に深く考えることに圧倒されるのである。
絵本のストーリーはすぐに完結するし、幼児に読み聞かせる際に、登場人物の苦悩の深さや長さをわからせるのは難しいし、無駄だ。起承転結が伝わるように読めばいい。
だが私は私で、それとはべつに、スタイグの登場人物たちと一緒に考えたくなるのである。どうしてこんなことになってしまったんだろう? 今なぜこんな辛い思いをしているのだろう? いったいどうしたら、前のように幸せになれるんだろう、家族の笑顔を取り戻せるんだろう?

登場人物の苦悩の長さ。スタイグの絵本や物語ではこれがけっこう長いと思うのは私だけだろうか。人物が自問するさまが、たっぷりと描かれる。『ジーク――』では、家出をしたジークはあちこちさまよいながら痛い目に遭ったりしながら、やはり家族のもとへ帰るんだけど、面白おかしいドタバタふうに描きながらも、思いつめたジークの心から、行き場のない怒りやどうしようもない寂しさがにじみ出てくるのを感じるのである。
ジークは豚で、だから家族も豚だし、一見これは豚さんの滑稽なお話絵本なんだけど、それだけで済ませてはいけないのだ、大人なら。

私は花粉症の、娘は副鼻腔炎の治療で、今も同じ耳鼻科に時々足を運ぶが、いつのまにかスタイグの絵本は姿を消していた。傷んで捨てられたのかもしれない。

『ぬすまれた宝物』は、だからって、スタイグが読みたくなって借りたわけではなかった。それこそ適当に児童書架から引っ張り出した一冊だった。でも、表紙に描かれた憲兵姿のガチョウの絵を見て、ああ、これはきっと、このガチョウが苦悩する話だな、と思ったら、やはりそうだった(笑)。
ガチョウは、永年仕えた城を追われるように離れて、傷心の放浪を続ける。どうしてこんなことになってしまったんだろう? と自問しながら。でも、苦悩するのはガチョウだけではない。もうひとりいる。何しろ本書の原題は「ほんとうのどろぼう」なので、「ぬすまれた宝物」に関する容疑者と真犯人、それぞれが思い悩むのである。というわけで、長く深い苦悩の時間をダブルで味わえる(笑)。

スタイグは風刺漫画家出身なので、キャラクター設定は動物が多いけどその表情は、第一の読み手として想定される子どもたちに媚びるところが一切ない。ストーリーも然り。とってつけたような華やかさや盛り上がりは、ない。ところどころに痛快な風刺が効く。最後は、ああよかったね、と安心できるところへ笑いとともに落ちる。
でも、読み終えて、これでいいのか? という漠然とした疑問を払拭できないこともある。(それこそが作家の狙いなのかもしれないが)
ちっちゃな子どもの想像力を膨らますには、親の少しの工夫が必要かもしれない。が、かといって、親が入れ込んで味わいすぎて同じような読み取りを子どもに求めてあれこれ解説してしまうと、子どもにとっての面白味は半減するであろう。

本書も、「盗む」という行為は悪いことなんだ、ということを子どもにわからせるには、あまり説得力がない。いろいろあったけど、またもとのように仲良くなれてよかったな。幼な子にはそれだけが伝われば、まずはよし。
こんなことはしちゃいけないぞ、悪いと思ってなくても結果的によくなかったこともあるんだぞ。少し大きな子には、そこまで伝えたい。

でも、悪いことをしても、償えば許される?

本書が問いかけているのは、友達がもし悪いことをしたとき、その友達がどうすれば君は許してやれるのか、あるいは、身に覚えのない行為の犯人として糾弾されたら、君を犯人と名指しした奴らを、疑いが晴れたとき君は許せるのか、ということだ。
償いさえすればいいのか? そんな疑問が浮かぶくらい大きくなった子にも読んでほしい。
本書は明快に答えは示さない。だから考えないといけない。すぐに結論を出せと、職場でも学校でもいわれるご時世、どうしてこんなことになったんだろう、どうすればもっとよくなるんだろう、ほんとうにこれでいいんだろうかと考える時間はもっともっと長くていい。子どもたちには考える時間をいっぱい与えてほしい。

昨年はスタイグの生誕100年だったそうだ。とっても素敵な彼の写真は公式サイトで見られます。うふ、好み。
http://www.williamsteig.com/williamsteig.htm

忙しい時に限ってどうでもいいことを書きたくなる2008/11/12 17:20:57

『人魚の島で』
シンシア・ライラント作
竹下文子訳 ささめやゆき絵
偕成社 (1999年)


寒くなった。曇って太陽が覗かないからよけいに寒い。でも、まだウチでは暖房を出していない。母が就寝前に寝室のヒーターをタイマーセットしているだけだ。温かいものをいただけば身体は温まり、お風呂に入ってすぐに寝れば冷えずに安眠熟睡、翌朝すっきりである。
でも職場では寒い寒いを連呼する経営陣が暖房器具のセッティングを命じ、ほどなく完了されると待ってましたとばかりにがんがん焚き、おかげでぽかぽかむんむん、ぬくいことはありがたいが、そんなにするほど寒くないだろと思う私は案の定、室温上昇過多のせいで頭痛に見舞われる始末である。
いまならひざ掛けがあればいい。贅沢なひざ掛けでなく古いジャージでよい。しばらく開けなかった衣装箱から古いセーターが幾枚か出てきたので、切ってつないでひざ掛けにしようか。

『人魚の島で』に描かれる島は、寂しい。絵を描いているささめやゆきさんの絵がお洒落で可愛らしいので、少女向けの可愛らしいファンタジックな童話だと思って読んだら、うーん、なんかちょっとちがった。
島は、なかなか住環境としては厳しいのである。風の強い日、おおしけの日。
住民は、それぞれが島のように、互いにつながらず関わりを持たずに暮らしている。
幼い頃両親を亡くしている「ぼく」は祖父と暮らす。

物語に横たわる空気は、どちらかというとマンガレリ作品のもつそれに近いなという印象をもった。主人公は寡黙で、家族は少なく、友人はなく、暮らしは楽でない。

ただ、本書では主人公が成長していき、過ぎゆく歳月の描かれるところが、マンガレリの2作品『おわりの雪』『しずかに流れるみどりの川』とは異なる。
これは、読み終えてみると大きな差異なのである。
本書の読後感には、主人公の現在の充実や未来に待つより大きな幸福、そうしたものを最終的にすくいとれるような、安心感に近い感覚が大きい。一方、マンガレリの作品はどちらも、主人公の行く末に大きな不安を抱かずにはおれない。この子、大丈夫なんかなあ、的な読後感。(とはいうものの、マンガレリ作品の主人公たちのほうが格段に強くたくましく生きていくように思えるのは単に私の好みの問題か。そうであろう、きっと)

『人魚の島で』のダニエル少年は、物語のはじめのほうで人魚に会う。人魚は少女の姿で、彼の名を呼んだあと尾びれを返して海に消えていった。それ以降、少年のなかで何かが変わり、そのことが彼の生きることへの自信の源となっていく。
気難しい祖父しか家族のいない少年が、その祖父の息子だった亡き父や、子どもの頃に亡くなったという祖父の姉といった、目には見えないけれどたしかに生きていた、いくつかの存在を、自分なりのしかたで心に確かなものとしてゆく。島の浜に散らばる貝殻のひとつのようにしか思えなかった自分自身にもルーツがあるということを、そうははっきり書いてはいないけれど、確信することで自信を得て成長していくのである。

物語を大まかに捉えると「やっぱりね」感が大きくてつまらないので、細部にこだわって読むことをおすすめする。人魚の櫛って何でできてるのかなあ、そもそもなんで人魚に櫛が要るのかなあとか、鍵って持つとこ丸いのかな四角いのかな、などなど、揚げ足取りや重箱隅なんかしながら読むとけっこう楽しい。お話はちゃんと辻褄が合い、あ、そうなのね、とすとんと落ちるようにできている。

訳者の竹下文子さんはおびただしい数の絵本や童話を出版されている児童書界のベテランである。幼い子どもたちに向けた優しい語り口のなかにある確かさには信頼が置ける。はずである。しかし、本書に関してのみいえば、もう少し、なんというのか、重厚感のある文章のほうが、物語の背景の寂寥感や、ダニエルを貫く孤独感を出せたと思うのだが……。ファンタジーだからあまりどっしりしちゃうと「なんとかXの魔宮の棺 未知の物体を追え」みたいなわけわからんホラーミステリーまがいのものになってしまうだろうけれど。そうなってはだめだから子どもにも読めるように可愛いめの体裁にしたのだろうけれど。一貫して「おじいちゃん」でなく「祖父」といわせているのは、ダニエルに聡明さや芯の強さをもたせたかったからか、祖父、孫ともに質実なところをにじませたかったのか、どうなのか……。最初から最後までどことなく文体がちぐはぐで、そのせいで、原書から抜け落ちたものがあるんじゃないかという疑いをぬぐいきれないのだ。

ライラントの本は「小石通りのいとこたち」シリーズが知られていると思うが、このシリーズ、とてもつまらなかった(ごめんなさい)。娘がちっちゃな頃に読み聞かせたけど、ヤツは全然興味をもたなかった(同上)。

もしかしたら、訳者がどんなに頑張っても、ちぐはぐなのかも。

「小石通り――」のみならずライラントの訳書は数多いが、とりあえず、同じささめやゆきさんのお洒落なイラストを着せられた『ヴァンゴッホ・カフェ』は読もうと思う。そちらは中村妙子訳なので、ぶれない文体と原書以上の言葉の豊かさを期待できる(かもしれないかなあ)と思う。

一生わからないと思う2008/10/31 19:13:14



『しずかに流れるみどりの川』
ユベール・マンガレリ著 田久保麻理訳
白水社(2005年)


マンガレリの『おわりの雪』について書いたのはもう一年も前のことなんだ。自分でちょっとびっくりしている。
http://midi.asablo.jp/blog/2007/11/08/1897843

『おわりの雪』がまさに雪の色をしていたのに比べて、こちらは草の色でむんむんしている。タイトルの「みどりの川」は主人公の記憶の中にあリ、今人物の眼前にある情景として描かれているのではない。にもかかわらず、やはりタイトルにあるせいだろう、わずかな記述しか割かれていない「みどりの川」の存在感は物語の中にいる二人にとってとてつもなく大きい。
ここでいう物語の中の二人とは、主人公の少年と、読者である。

少年は、自分よりも背の高い草の生い茂る原っぱを、潜るように歩くのが好きである。草を踏みしめて道を作り、それでもなお左右から覆いかぶさる草で「トンネル」ができる。そこへ毎日歩きに行く。歩きながら、さまざまなことを思う。思い出し、空想し、考える。
いま住む町へ引っ越す前に住んでいた町には、川があった。藻が繁殖しているせいで川は深い緑色に見えた。少年は、その川で父が釣りをしていたと記憶している、と思っている。だがその記憶は不確かで、父は、釣りをしていたことは思い出せないという。
父は、静かに流れる緑の川が前の町にあったことは憶えているけれど、その記憶自体に関心はないのだ。
だが少年の心は川の緑色にとらわれる。
その色は、彼がトンネルと呼ぶ草原の緑とは微妙に異なって読者には感じられる。物語の季節は夏で、眩しい陽光が容赦なく照りつける草原の緑は浅く黄色っぽく浮かぶからだ。だが父と少年が住む家の裏に茂る「つるばら」からは深い葉の色が想起される。つるばらを殖やしてひと儲けしようと考える父の脳裏には、緑の川の緑の代わりにつるばらの緑が繁茂している。
読者の思いはしかし、少年の「トンネル」内部の深淵に「しずかに流れるみどりの川」を見、彼の父への純真な愛情をその色とオーバーラップさせ、やはり父ではなく少年と「みどりの川」を共有するのだ。

父と息子とは、なんだろう。
父と息子とは、どのようにつながっているものなのか。

私には永遠にわかるはずのない問いである。

私の周囲には、幸か不幸か「傍目にも羨ましく思えるほど」「強い絆で結ばれた」あるいは「とてもよい関係を構築している」父と息子ただ二人の家族というのが存在しない。
仲良しの父と息子は掃いて捨てるほど(あらごめんなさい)いる。
でも必ずそこには「妻」とか「娘」とかが絡んでいて、男二人だけの世界を謳歌している例はないのだ。

だから本書のような物語の、行間や、後ろにある、目に見えない父と息子特有の紐帯のありようが想像できない。
それはおそらく母と娘にはありえないものなのだろう。

では、死んだものは……?2008/10/20 15:38:05

『イリーナとふしぎな木馬』
マグダレン・ナブ著 立石めぐみ訳 酒井信義絵
福音館書店 世界傑作童話シリーズ(1995年)


短めの童話を立て続けに読んでいる。
つくづく、わたしにはこのくらいの読み物がいちばん肌にしっくり来るなあと思うのである。小難しい本や理屈っぽい本は基本、脳を鍛えるため(だけ)に読んでいる。その類の本で皮膚感覚に逆らわない「しっくりくる感じ」を味わえるのは愛するウチダの本だけである。またまたもう、という人がいるかもしれないが、わたしの場合、ホントなの。

ふつうは小学校高学年くらいを意識した小説や童話などが、自分の脈拍の速度にも合い、狭小な視野にもぴったりはまり、粗い思考回路にも潤沢に流れてくれるのである。たぶん、わたし自身がその年頃にあまり童話や小説などの本を読んでいなかったので、身体の中のどこかにある、「そういうもの」で「満たされるべき部分」が長いあいだ枯渇していて、ほしがっていたところに、今、大人になってからとはいえ、こうしてやたら注ぎ込んでやるから喜んでいるのであろう。
たいへん心地よいのである。

イリーナはクリスマスが好きではない。
イリーナの家は忙しい農家。学校からも遠いので、一緒に帰る友達も遊ぶ約束をする友達もいない。いたとしてもそれはイリーナには許されないこと。帰れば両親の手伝いが山のように待っている。
町には家庭で必要なものだけを買いに来る。飾りつけた店の前であれがほしい、これがほしいとねだるよその子を見ても、けっして同じ振る舞いは見せないイリーナ。
親にほしいものをいえない、というよりは、自分にとってほしいものがなんなのか、それすら見つからない、イリーナ。
ところが、薄暗い古道具屋に、ほこりだらけの木馬が見える。他の古道具に押し潰されそうになっている木馬……生まれて初めてイリーナは「ほしい」と感じ、両親に「買って」とねだる。
まるで本物の馬の世話をするように納屋に藁を敷き、木馬の居場所を作り、毛並みを整えてやるように、ほこりを払ってみがいていく。するとある夜……。

古道具屋の主人である「おじいちゃん」はイリーナにこういう。
「この世に生きているものはすべて、おまえのものなんかじゃない。そんなことを信じていたら、いつかつらい涙を流すことになるよ」

生きているものには、それ自身の生きる「生」があり、それは「誰か」や「どこか」に属するものではけっしてない、という意味だ。木馬がイリーナの「もの」ではないように、イリーナも両親のものではない。だからイリーナは、ただ言いつけだけを守って親に従って心を開かずにいるのをやめて、自己主張を始める。木馬がそうして見せたように。

先日出奔したイモリのヒデヨシに思いを馳せた(あ、話はそこへ行きますか、といわずに聴いてくれ。笑)。
わたしが世話をしているものはわたしのもの、と人は何でも思いがちだが、そうではないことをヒデヨシは身をもって教えてくれたのである。
娘はもちろん、猫だって、カエルだって。
あるいはこれから世話をすることになるやもしれぬ老親だって、支配権や所有権は、わたしにあるわけはない。

だが死んだらどうなのだろう?
死んでしまったものたちについては、「わたしのもの」と思ってもよくないか?
せめて記憶の中でだけでも、わたしだけのものであってほしい。
そう思うのは罪作りだろうか、罰当たりだろうか。
死んでしまったものたちの魂はそれこそなにものにも束縛されず自由であるだろうから、それらの記憶を「わたしのもの」として留める事を許してほしい。

(だから緒方拳も峰岸徹もフィリップ・ノワレもわたしのものと思いたい。あ、そこへ行きますか、と軽蔑しないでください)

本書では、濃度の低い水彩絵の具をたっぷり筆に含ませてぽとぽと落としただけのような絵が、読者の想像を邪魔することなく、冬の朝日のように控えめな光を、物語に射している。

その箱を開けてはいけません(1)2008/06/18 17:59:41

『筆箱の中の暗闇』
那須正幹作『筆箱の中の暗闇』(偕成社、2001年)所収


30年来の超ロングセラー『それいけ!ズッコケ三人組』に始まる「ズッコケ三人組シリーズ」の作者である。幾度もドラマ化されているので原作のほうはもう誰も読まないんじゃないかと思うが、私の行きつけの図書館では本シリーズのたいていの巻が貸し出し中で、那須さんの書架はいつだってスカスカである。
斉藤さんの「ルドルフ」とか「ナツカ」とか、杉山さんの「名探偵」とか好評でシリーズ化されているものは、第一作の初版がもうずいぶん前のものであっても変わらず子どもたちには人気で、予約しないとなかなか回ってこない。寺村さんの「王さま」なんて40年来の長生きシリーズだ。さすがに古さも感じるが、それでもよく貸し出されている。こんな世の中になっても他愛ない王様の物語を読む子どもが絶えないことにほっとする。こんな世の中になっても、ハチベエ、モーちゃん、ハカセといういまや絶滅危惧種に近い(?)小学校6年生の三人組に共感できる子どもたちがいてくれることにほっとする。

いっぽうで、こういうシリーズもの以外の作品はけっこう見過ごされがちである。

だいたい、シリーズ化というのは出版社側が一本目が売れたから続きを出しましょうと作家に持ちかけて始まる。作家はけっして最初からシリーズ化を考えてはいないのだ。
こうしたシリーズ化の功罪についてはすでに書いたような気がするけど、いつも思うのは、第一作のみずみずしさや感動は、2作目以降は味わえないってことだ。当たり前だけど物語を重ねていくほどに鮮度は失われていく。鮮度が落ちてもなお読者を惹きつける力量のある作家だけがシリーズ化を成功させるということも、いえるけど。つまり、こうした作家さんたちはすごいのである。

話が逸れたけど、そういうすごい作家さんたちの「小品」が、私は好きである。
児童書の書架にあるのに、子どもたちもお母さんたちもあまり手にしていないせいでけっこうきれいなままの本。

『筆箱の中の暗闇』は那須さんの短編集。短いお話がぎっしりで、まるで「小学校ミステリーの宝箱」のようである。そう、これはミステリー集なのである。ちょっぴり不思議な、学校での出来事。読んでいると、もしかして『ズッコケ』を執筆するためのネタ帳をそのまま本にしたんじゃないのか、と疑ったりもしなくもないくらい短いお話がいっぱいである。
子どもは何でも不思議がる。不思議を解くためにどんな想像でもする。そんな子どものとんでもない思いつきを、那須さんが上手に仕立てました、という感じ。

表題作である『筆箱の中の暗闇』は4ページほどの短編。
子どもは学校に行けない。不登校になってしまったのだ。教師も親も心配する。しかし子どもは怖いのだ。学校へ行くと、筆箱を開けなくてはならない。しかし筆箱を開けると……。

筆箱は暗闇への扉。吸い込まれそうになる恐怖で、子どもは学校へ行けないのだ。でも誰にも信じてもらえないとわかっているから、言えない……。

これ、不登校の理由に使えるじゃないか、などと思った私はお気楽で不遜だが。
学校へ行けなくなる、ご飯が食べられなくなる、友達と話せなくなる。子どもに突然訪れる拒絶の感覚はもしかしたらそのような小さな恐怖と大きな想像のコラボのなせる業かもしれない。そう思うと大人ってやっぱ童心には返れないのね、と悲しい気持ちになる。

あ、そこのあなた。
その箱を開けてはいけません。なぜならその箱は……。

考えるのを止めるな12歳!2007/10/09 19:13:26

『12歳たちの伝説』
後藤竜二 作 鈴木びんこ 絵
新日本出版社〈風の文学館第2期〉全5巻(2004年~)


「ウチの子のクラス、荒れちゃっててねえ」なんていつか書いてたっけ、そこのお母さん?
必読! 面白い!
大人だったら、ちょいと気合入れて読めば1冊30分くらいで読めるから、全巻読破をチョーおすすめ!

パニック学級とあだ名されるほど学級崩壊していた5年1組。お人よしのじいちゃん先生は辞めてしまい、その後誰ひとり担任として長続きしないまま、そのまま6年1組の春を迎えた。担任には新しく他校からやってきた、頼りなさそうな若い女の先生。ゴリラのぬいぐるみを持ってきたから、あだ名はゴリちゃん――。
児童ひとりひとりの一人称で物語が語られる。いじめられた子、いじめた子、学校なんてかんけーねー、と不登校になってた子。語り口がそれぞれにとても12歳らしくて、とてもリアルである。個人的には第3巻の烏丸凛(からすま・りん)ちゃんの登場がスリリングで好きである。
てんでばらばらのクラスは、まとまりそうに見えながらも、やはり筋金入りのパニック学級でなかなかまとまらない。事あるごとに問題続発。それでも、少しずつ、互いが互いの気持ちになって行動するということを考えるようになっていることが、巻を追ってわかる。12歳の思考の範囲と深さが生々しく見える。もっと考えろ!とエールを送りたくなる。

小学生の親をしているが、現実に「目に見えてひどいクラス」というものは見たことがない。娘が小学校1年生のとき、初めて行った参観で、たしかに落ち着きのない、喋ったりふざけたりする子どもの多いことに閉口した。娘が通っていたのはお寺の保育園で、座禅をはじめとする「おつとめ」や「せんせいのおはなしのじかん」というのがけっこう長時間の日課としてあったので、前で「先生」と呼ばれる人が話をしているときはどういうふうにしていなくてはならないか、は理屈でなく身に染みついている。その保育園出身者が30人のうち、5、6人いたのだが、前を向いてじっと静かに聴いているのは、見事にその子たちプラス2名ほど、だけであった(プラス2名はいずれもハイソなご家庭のハイソな幼稚園出身者だった)。あとの20名余は「何かしている」。隣の子に話しかける者、隣の子と遊ぶ者、立ったり座ったりする者、ひとりで歌を歌う者、ひとりでスーパー戦隊ごっこをしている者……。噂に聞く小1プロブレムというやつだった。周りがこれだと、お寺保育園出身組も、遠からず同類になっちゃうなあ、と暗澹たる思いだった。
ところが結局は、そうひどいことにならないうちに落ち着いてきた。担任は若い女の先生で、可もなく不可もなくという印象だったが、新卒で着任以来低学年ばかり受け持っているということだった。プロブレムだらけの「小学生という名の幼児」たちの扱いに慣れていたのかもしれない。娘は学校が大好きで、毎日運動場にお泊りしたい、家に帰る時間がもったいないとまで言っていたので、「学校嫌い、行きたくない」という子どもがいるこのご時世、なんと私はラッキーかと思って彼女の小学校生活は彼女自身に任せきりであった。

だが、やはりそうはうまくいかなかったのである。

たびたび言及しているとおり、娘の小学校は小中一貫制度なんぞを取り入れ、内外から注目されているけれども、大小高低さまざまなプレッシャーやストレスが、教師にも子どもにも親にもかかっているに違いないのである。これまでの5年半の間に、精神的な疲労によって退職した教師は5人を越える(私がガミガミ文句をいった先生たちはピンピンに元気だっ)。また、娘の学年にはないが、やはり3年、4年になっても落ち着かないざわついた雰囲気のままのクラスもあるらしい。ある教師は数名の保護者からの糾弾によって「休養」に追い込まれたという噂もある。図画工作作品が明らかに故意に壊されていたり、上靴や教科書を隠したり捨てたりなんて陰湿な嫌がらせは日常的に起こっている。あからさまに目に見えないだけに、気分はよろしくない。

ウチの子もずいぶんな被害にたびたび遭っている。考えるだけしんどいし辛いので、私たちはほとんどなかったことにして過ごしている。でも、ほんとうは徹底的に考えたいのである。ある行動を起こすときの子どもの心理、刃物でノートを切り裂いてやる、と思って実際に実行に移すときの感情、その子の脳裏に去来する黒い影の正体。いくら考えても、わかりっこないだろうが、実際には、考え抜いたことはない。
キレイごとを言うのでも、「ええかっこしい」で言うのでもなく、「そんなこと」をする子どもの心をできることなら救いたい、と思うのである。だが、日々にかまけて後回し先送りうやむやにしている。3年前、教室に畳んであった娘の衣服を鋏でずたずたに切ったるりちゃん(仮名)の心模様を追究するのも、るりちゃんとそのお母さんが大泣きに泣いて謝りに来た風景を思い出すと、できなくなる。考えるのをやめてしまう。

『12歳たちの伝説』を読んだからといって、そうした子どもたちの単純かつ複雑、浅はかかつ深遠な思考回路を理解できるわけではない。しかし、なんというのか、たとえば、いままで気にも留めなかった「物静かなあの子」や、いつも寒いギャグを飛ばしては「無視されているこいつ」の心の中を少し覗けそうな気にさせてくれるのである。
娘が、「あいつは××だから嫌い、口利かない!」なんていうとき、以前は「ああ、そんなやつほっとけえ」とろくに聞かず生返事、生相槌していたが、「ま、そういわずこの次は返事くらいしてやれよ」、などというようになった。それがいいことか悪いことかわからないが、もし、子どもの心が閉ざされているとして、それを開ける鍵はやはり毎日近くにいる子どもたちが持っているのではないか。本書を読んでその思いを強くしたのである。



ちなみに我が家では、夏の終わりから「娘が読書に耽っている」という我が家始まって以来の珍事に騒然となっている。読んでいる本はといえば6年生のくせに低中学年向けの平易なものが中心だ。ま、何でもいいぞ、読め読め!とヨコヤリいれずにほっておいたが、私がえらい勢いで読んだ本書のシリーズにようやく手をつけて深刻な顔をして読んでいる。
よしよし。

「星」の意味2007/06/29 10:04:04

どこかで撮ったお星さまたち(クリスマスツリーだな)。


『星の王子さま』
アントワーヌ・ドゥ・サン=テグジュペリ著
内藤濯訳
岩波書店(岩波少年文庫53/1953年初版第1刷、1971年第34刷)


岩波書店の翻訳権が切れたとかで、近年、怒涛のように新訳が出版された『星の王子さま』。著名な翻訳家や作家による訳も出たので、手にとった方、読んだ方も多いことだろう。

でも、こんなことをいっては何だが、こういうものは最初に読んだものの印象がとても大きいのである。ことに子どもの頃に読んだとしたらなおさらである。

私の持っている『星の王子さま』は、私が小学生の頃、当時大学生だった従姉妹からプレゼントされたものだ。素敵なお話なんよ。当時は気づかなかったが、のちに奥付を見たら定価240円とある。小さいけれど、ハードカバーでケース入り。240円だよ。
その従姉妹のお姉さんは私が中学生になったときに、自分の使い古しの英和辞書をくれて、辞書はぼろぼろになるほど使うほうがいいんよ、といった。中学何年生のときだったか忘れたが、洋書店で『The Little Prince』を見つけて買い、お姉さんにもらった『星の王子さま』とお古の英和辞書をめくって見比べて必死に読んだのを思い出す。

しかし、サン=テグジュペリという作家に特別な興味をもつことなく、私は大人になった。フランス語を学ぶようになっても、サン=テグジュペリの肖像が刷られた50フラン札を手にして喜ぶというミーハー精神は発揮しても、サン=テグジュペリの他作品を読むことはしなかった。でも、フランスの書店で、巻末に物語の関連学習クイズが付いて朗読CDもセットになった『Le petit prince』を見つけたときは小躍りして買った。そのCDに出演しているのは「ぼく」の声優さんと「王子さま」の声優さん(たぶん子ども)の二人だが、あまりによくできていて泣きそうになった。
彼らの声を聴いて、お姉さんにもらった、内藤さん訳のあの『星の王子さま』が、私の脳裏にはありありと浮かんだのだった。


—— S'il vous plait... dessine-moi un mouton !
—— Hein !
—— Dessine-moi un mouton...
(page 11)

「ね……ヒツジの絵をかいて!」
「え?」
「ヒツジの絵をかいて……」
(11ページ)

Et j'ai vu un petit bonhomme tout a fait extraordinaire qui me considerait gravement. (page 12)

すると、とてもようすのかわったぼっちゃんが、まじめくさって、ぼくをじろじろ見ているのです。(12ページ)

—— Adieu, dit le renard. Voici mon secret. Il est tres simple : on ne voit au'avec le coeur. L'essentiel est invisible pour les yeux.
—— L'essentiel est invisible pour les yeux, repeta le petit prince, afin de se souvenir.
(page 72)

「さよなら」と、キツネがいいました。「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
「かんじんなことは、目に見えない」と、王子さまは、忘れないようにくりかえしました。
(115ページ)


L'essentiel est invisible pour les yeux(かんじんなことは、目に見えない)。これとほぼ同義の文章がこれ以降何度か出てくる。

「そうだよ、家でも星でも砂漠でも、その美しいところは、目に見えないのさ」と、ぼくは王子さまにいいました。(125ページ)
「たいせつなことはね、目に見えないんだよ……」(142ページ)

夜空に瞬く星を見て、星の美しさや大切さとは、ここまで届くあの光ではなく、こうして満天のかがやきを地球人に見せることではなく、たぶんあの星やこの星に一輪の花が咲いたりヒツジの餌に心をくだく住人がいたりすることなんだろうなと、私は思っていた。そしてたぶん、友情や愛情という目に見える形にはなりえないものが、この世ではいちばん大切なのだ、ということを、作者はいいたかったんだろうな、と思っていた。
それ以下ではなかったし、それ以上でもなかった。

冒頭の献辞にあるレオン・ウェルトという作家の親友がナチに捕らわれたユダヤ人だということも大人になってから知り、星を覆いつくした3本のバオバブの木が日独伊という枢軸国を表現しているという説があることも最近知った。
しかし、そんなこと知らなくたって本書は十分に含蓄に富み、たくさんのメッセージを届けてくれる。

ノンフィクション作家の柳田邦男さんも、この本には特別の思いを持っておられる、という。『星の王子さま』は、読んだ人の数だけ物語を紡ぐ。もちろん、それは『星の王子さま』に限ったことでもない。お話に、「定説」や「正論」は、要らないのだ。

いつかも書いたけど、作家や作品と真剣に向き合うことはその対象を切り刻み、えぐりとり、裏からも表からも透かして見ることに等しいから、それは、対象への情熱がたぎっている人に任せよう。

『星の王子さま』の「星」の意味は、家かもしれないし国家かもしれない。それはもはや誰にもわからない。しかし私にとって星は、空に浮かぶ、あの「ぼっちゃん」が住んでいるかもしれない場所であり続けるし、そのような思いの馳せかただって無意味ではないと思っている。

天に召されるものたち2007/06/25 07:13:56

名前は知らないけれど、葉っぱから根と芽が出て育つ植物。葉っぱを一枚もらったのが、今、鉢が幾つにも増えて置き場所に困るほど。なのに性懲りもなくまた葉っぱを水につけて増やそうとしているところ。


『ほおずきの夜』
砂岸あろ著
白馬社(2007年)


6年生の七緒(なお)は、同級生の涼太(りょうた)と地蔵盆の縁日へ出かける。新しくあつらえた、紺地にひまわり柄の浴衣が、少し大人びて感じられて嬉しいような恥ずかしいような。下駄を履くと少し七緒のほうが背が高くなる。
人混みの中、二人で歩いていると、級友の女の子たちに会う。懸命に涼太を隠す七緒。級友たちが口々に言う。「涼太くん、七緒のこと、好きやったんよ」――

夏の終わりの、子どもたちの最後の楽しみ地蔵盆。各地でその地域に伝わるやり方でお祭りが行われるが、本書の舞台は京都の山科(やましな)。なんでも、旧街道沿いにたくさんの屋台が並ぶにぎやかな縁日らしい。私の住む地域では子どもが少なくて、地蔵盆は寂れる一方だ。なんだかうらやましい。
山科では、ほおずきを地蔵に祀ってお参りするらしい。物語の中で七緒も、実が七つついたほおずきの一枝をもって歩く。

七緒も涼太が好きだった。七緒はついにその気持ちを涼太にぶつけるけれど、涼太は……。
ほおずきが涼太そのものなのか、七緒の涼太への想いがほおずきの色に表れているのか、タイトルに使われているにもかかわらず、物語の途中まではさほど印象的ではないほおずきが、最後のほうで情念の炎を燃やすかのように俄然あかあかと色めきたつ。

子どもを主人公にした他愛ない恋心を描きながら、しかしその想いの強さに読む大人ははっとして胸を締めつけられる。
手をつなぐのも恥ずかしかった幼い頃の恋の思い出を振り返りたい人なら、切ない蜜をいまいちど味わえるだろう。

「こども」カテゴリに入れたけど、本書は児童書のコーナーには置いてなくて、「女性現代文学」の書架にあった。
著者の手になる縁日の写真がたくさん収められていて、読む者を夏祭りの喧騒の中に誘い込む。けっして凝ったつくりではないのだが、写真とストーリーのバランスは、子どもよりもむしろ大人を惹きつけると思われる。
けれどそれでも私は、小学校の高学年くらいなら、読める物語だと思った。読んで人物の心に思いを馳せてほしい。人物が交わしたであろう会話を、教室や校庭での風景をイメージしながら、夏休みを思いながら。

ところで、6月半ば、我が家には金魚の赤ちゃんが生まれた。話が長くなるので詳細は省くが、透明なぷつぷつが黒くなり、やがて稚魚になったときは感動した。タニシの赤ん坊を発見したときに勝る感動だった。
しかし、わずか数日しか経っていないのに、稚魚はどんどん天に召されていく。一匹も生き残れないかもしれない勢いだ。

幼くして天に召されてしまうのは、運命なのか。
当事者はそうは思いたくないのに、そう思おうとして無理に自身を納得させようとする。運命ではない、私に非があったのだと自身を責める。
お前たちが死んでいくのは、きっと私の世話のしかたが悪いのねっ。
泳ぐのを止めていく金魚の子どもたちを見て、『ほおずきの夜』を読んで、天に召された小さな魂の数々について、少し考えた。

さて。
著者がこの物語を執筆したのは1991年のことだそうだ。
多くの人たちの励ましと支えを得て、何より本人のこの物語への思いが実を結んで、単行本として日の目を見たのである。その書くことへの、自身の作品への愛とエネルギーに喝采を送りたい。
【ここで自慢】
著者の砂岸あろさんはお友達だもんねー。ね、あろさん♪ え、違う? ひいいいんん、あたしの思い込み?