幾重にも層を重ねたような密な経験 ― 2018/06/27 01:07:55
『子どものころ戦争があった』
あかね書房編(1974年初版第1刷、1995年第12刷)
有名な本である。そのせいかいつでも頭の片隅に書名があって、それゆえついいつでも読める気になっていて、読む機会がなかった。なんということか。ぐずぐずしているあいだに、寄稿されている多くの作家が鬼籍に入られた。
収められている体験談の著者は以下のかたがたである。錚々たる顔触れ。
長新太
佐藤さとる
上野瞭
寺村輝夫
岡野薫子
田畑精一
今江祥智
大野允子
乙骨淑子
三木卓
梶山俊夫
新村徹
奥田継夫
谷真介/赤坂三好
さねとうあきら
田島征三
砂田弘
手島悠介
富盛菊枝
山下明生
どのかたのどの話がどうだということなど言えない。どれもこれも凄まじい。凄まじいがどのかたのお話もどことなくユーモアがあり、過酷な体験にもかかわらずあっけらかんと笑い飛ばせそうな雰囲気に満ちている。実体験を語られているのに、まるで彼らがつくり出す児童文学の世界にトリップしたような気にもなる。さすがは作家のみなさんというべきか、語りの力は素晴しいのであった。しみじみ思うのは、これほどまでの経験をしてきたからこその、児童文学なのである。これほどまでの経験を下敷きにしているからこそ、軽はずみな表現で命の重さや尊さを振りかざすようなことはしないのである。優しさや思いやり、痛みや苦しみといったわかりやすい言葉で説明してしまえるほど、人と人との情愛や、かかわりあうことで生まれる感情の擦れやぶつかりは単純ではない。子どもの世界だからこそ、それらには名前はまだない。子どもたちは自分たちの世界で次々に生まれでてくる好感や愛情や親しみや嫌悪や憎しみや軽蔑の思いに、自分たちなりに名前をつけ認識して心に記録を刻んでゆく。そのありようは、子どもが十人いれば十通り以上になるだろう。そうしたものに最初からラベルや札を与えてはいけないのだ。
なぜ、平和な時代ゆえにむき出しになるわがままやエゴイズムをしぜんに生き生きと描き出す力というものについて、辛酸をなめた戦争体験者である作家たちのほうが勝れているように感じられるのだろう? なぜ、現代の平和な時代の作家には描ききれないのだろう? 現代の作家たちにしか描けない要素はあるはずだ、技術はあまりに早く進歩し、時代はものすごい勢いで変化したのだから。しかし、児童文学に限って言うと、昨今流行りのニヒリズムなどを匂わせても、あるいは安易な泣かせるストーリー仕立てにしても、喜ぶのは大人ばかりで、子どもは大人を喜ばせるためにそんなものでも読むけれど、ほんとうの意味で心をとらえているようには思えない。子どもには、普遍的でありきたりな体裁をしていながら、深い物語が必要なのだろう。
深い物語は幾重にも層を重ねたような密な経験をした者でなければ、書けないのだ。
……ということは抜きにしても、戦時下の体験物語として興味深く楽しめる一冊である。子どもたちに親しめるように、ふりがなが丁寧に振ってある。絵本作家の挿絵も面白く、悲しい。
何度も読み返したい。
Das 180. Münchner Oktoberfest ! ― 2013/10/01 16:00:47


Juillet! ― 2013/07/08 18:24:40

で、ちょうど2か月後の9月8日、ウチの娘はドイツへ留学のため機中の人となるのである。あ、ついでに私も機中の人となるのである(1週間後に帰ってきますけど、ひとりで)。
あと2か月なんだけど、お嬢さん、準備しようという気配が全然ない。あと2か月で高校の仲間たちとお別れだから「思い出づくり」(=遊びほうける。笑)全開である。
とうとう外国暮らしかよ~。私も若い時からあちこち放蕩したけど、一年以上長期で住んだのは27歳の時が初めてだったからなー。奴の心中がわからん。17歳の高校3年生の時、私はひたすら美大受験のためのデッサンを繰り返していた。娘も、遊びほうけているがバレエのレッスンは欠かさない。形は違えど、同じことなのかな。とりあえずの近未来に立てた目標にひたすら向かい、いずれそれが通過点になるまで走り続けるしかない感じの、不器用で融通の利かない生きかた。
しばらく京都を離れる娘のために、鴨川の床でご飯しよう~と提案したが、私も奴も忙しすぎて実現してない。べつに高級料理いただかなくてもええねんけど。スタバでええねんけど(笑)
暑いねえそれにしても。
Bravo mes fils ! ― 2012/07/18 20:40:59
なんでもスマホで情報キャッチするイマドキの子どもたちは、大人よりもずっと事態掌握(ガセネタもあるにせよ)するのが早く、数日前に家でこの話を出したとき娘は「そんなこと、もうみんな知ってるで」とこともなげに言った。ウチの娘は相変わらずノーケータイの絶滅危惧種であるので、もっぱら情報源はスマホ中毒の級友たちだ。亡くなった子もいじめていたとされる子もその親もみな実名はおろかあんなこともこんなことも、ネット上では言いたい放題暴露し放題で手がつけられない。
まったくたいへんな世の中だと思うと同時に、こうしていささか乱暴な方法であぶり出されなければ、この類の出来事が明るみに出て追及されることがなかったかと思うと、また悲しい。
昔から友達どうしというのはときに意地悪をしたもんだ。すぐに泣く子はよけいにいじめたくなる、可愛い子、好きな子に覚えてほしくていじめてしまう。殿方にはそんな思い出の一つや二つ、あるに違いない。力を誇示するだけのいじめっ子もいたけれど、家に帰れば母ちゃんに叱られる無邪気なガキ大将に過ぎなかった。弱い者をいじめる奴には必ずどこからか天誅のようなものが下ったものだ。
いつから学校も社会も自浄作用を失ったのだろう。
そして、いったいいつから「いじめる」という動詞が使われなくなり「イジメ」と名詞化し、「イジメを受けた」などという言い回しに変わったのだろう。
*
さて、娘の高校の野球部が奇跡の2回戦突破(笑)。
こりゃあ、まったくすごい! あっぱれじゃ息子たちよ!
なんつうても、娘のクラスは42人中17人が野球部員(笑)。みんなジャガイモ頭で野球しかとりえのない(あら失礼)可愛い高校球児なのだ。しかしいかんせん野球というものは、チームプレイだけれども、個々の資質・能力が試合にはかなりモノをいうスポーツなので、それしかとりえがないといっても一流でもないから(再び失礼)、加えて選手層も薄い普通の公立校だし、トーナメントを何試合も勝ち抜くのは至難の業なのだ。
2回も勝つなんて。
つまり3回戦進出やん。
それって、私たちが在籍中に一度あって(このときも大騒ぎして)以来じゃないかいな?
すご。ブラヴォー!!!
というわけで、いうまでもないが娘も級友たちも狂喜乱舞している。
狂喜乱舞といえば、陸上部からインハイ出場者が出たので、すでに数日前に陸上部マネージャーとして狂喜乱舞した娘である。
熱く楽しい高2の夏になりそうじゃの。
Ils sont rentrés! Elle avait l'air un peu fatiguée mais très joyeuse! ― 2012/03/18 12:05:38
http://cms.edu.city.kyoto.jp/weblog/index.php?id=300605&type=1&column_id=221166&category_id=7620
どの子も皆、多少疲れが見えましたが、一様に満ち足りた顔をしていました。と、教員ライクなコメントをしてみた(笑)。
わが娘はフロリダで買ったキャスケットを被って、なんかまた背が伸びたような。気のせいだろうけど。
「お寿司屋さんの看板に鳥居が描いてあったよ」
「相変わらず、わかってへん国やな」
「でも、どれもおいしそうやった」
「インタビューはうまくいった?」
「うん、みんないい人でちゃんと答えてくれはった」
「そういうとこは、ええ国や」
「うん」
とりあえずスーツケース全部広げて、全部かき出して、お土産と洗濯物を分けて(笑)、旅の余韻に浸る間もなく、今日は朝からレッスンに行きました。
La voici, elle est partie! Bon voyage!!! ― 2012/03/09 08:01:48
娘を見送ってきました。
旅行委員なので6時20分集合でしたの。あいにく雨がけっこう降っていましたので、傘をさしてやり校門まで送っていきました。
その後私はいったん戻って母と朝食を食べ、貸し切りバスに乗り込む頃合いを見計らって再び校門前へ。
7時40分。信号が青に変わっておもむろにバス3台が動き出し、窓の向こうから手を振る娘に私も手を振って。ついでに手を振る周囲の生徒たちにも手を振って。
行ってらっしゃい〜〜〜〜
腕時計を2個もって行った。両方ともアナログ。
ひとつは現地に着いたら現地時間に針を合わせ、もうひとつは日本時間のままにしておくために。
そしてあさって、3月11日日曜日の14時46分18秒になったら「黙祷しよっかなって、思て」。
その日、私たちのまちでは初のフルマラソン大会が行われる。
震災復興祈願の大会なのだ。
はっきりいうが、おかげで交通規制がたいへんだ。
長年ハーフマラソン大会や駅伝はしょっちゅう開催してきた京都だけど、フルマラソンは初めてだ。
しかも、基本は市民大会なので、やたら参加者が多いらしい。
私の知り合いだけで「出るよ」という人が片手以上いる(笑)。
みんなよくやるよ〜
ええことやけどー……
「お母さんの同級生も、キョーカのお父さんも出はるし、沿道の応援に行きたかったけどな。でもたぶん、アメリカで3月11日になったとき、京都マラソンのことは全然思い出さへんと思うわ、やっぱし」
そのとき、お母さんも祈るよ。
君の見上げる空が青いことも、祈ります。
Bon voyage!!!
もう一度、いくつかリンク貼ります。
http://dai.ly/ybsXau
http://youtu.be/_5NZDlJ2CBU
http://youtu.be/HpH4tNUsUSM
Elle va partir, demain matin. aux Etats-Unis! ― 2012/03/08 19:13:39

疾風に勁草を知る。娘の座右の銘である。彼女はなぜこれを座右の銘にしているのかというと、中学生のときの陸上部の顧問が、彼女を評してこの言葉を使ったのがきっかけである。疾風に見舞われようとも逆風しか吹きつけなくとも、娘はこうべを上げて前を向き、自身の不調にへこたれないどころかむしろそんなときこそチームメイトを励ましまたは開いた穴を埋め、時に先導し時に縁の下の力持ちであったりした。過分な褒め言葉をもらって嬉しいと同時に、自分の人生、ずっとこうで在りたいと肝に銘じたのである。疾風に遭っても倒れず勁草で在れ。
娘が幼いとき、フランスを中心にヨーロッパ旅行へ何度も連れていったので、海外旅行は初めてではないのだが、自分の意志で行き先を選び、自分たちで行動計画を立てて、自分でトランクに荷物を詰めるという経験は初めてだ。最後のフランス滞在からもう9年経っている。長時間のフライトの退屈なことなど「覚えてへん」。
「先生は飛行機の中では寝てろっていうけど、そんなに寝られへんと思うしなあ。何してよかなあ。ipodの中身も変わりばえしいひんし、ずっと聴いてても飽きるしなあ」
「お嬢さん、そんなときこそ読書です」
「うん。文庫もっていくっていう友達多い」
「アンタもやたら本もってるやん。睡眠薬やと思ってもっていき」
「なんかさーアメリカ旅行に携帯する本、って感じがしいひんやん」
「確かにアメリカムード高まる本なんぞはウチにない」
「……」
「……あ、お母さんがこないだ誕生日にあげたやつにしー」
「あ、そうや。そうしよ」
「うんうん。2冊とももっていき」
「よし、これで着陸まではなんとかなりそうや」
2冊のうちの1冊は、過日取り上げた:
『16歳 親と子のあいだには』
平田オリザ編著
岩波ジュニア新書567(2007年)
である。つまらんと書いたが、著名人が「僕の私の“16歳”」を語っているので、当の16歳自身にとっては読みようによっては興味深いはずなのである。昔の16歳は、今みたいに必殺ワード「学力低下」「理数離れ」「国際競争」に教育現場が翻弄されたりしない中でのびのび育っていたので、高校時代に自転車で全国縦断したとか、海外ひとり旅に出たとか、肉親の誰かが死んだのを機に覚醒したとか、今だったら「そんな暇があったら英単語覚えなさい」と親が言い募りそうな、そんな行動を、自分の意志で、好きなようにとっていた。現代との乖離が現代の16歳には若干理解しづらいであろうと思うし、また、収録されている「16歳バナシ」は破天荒なケースばかりではないので、また文体もさまざまなので、たまにイラッとくるのだ。ま、それは私の感じかた。むしろ私がイラつくケースのほうが娘にはフィットするかも知れぬ。
もう1冊は、角田光代の『くまちゃん』。新潮文庫である。恋愛小説短編集なのだが、すべての短編はリンクしていて、第1編の準主役が第2編の主役になり、第2編の相手役が第3編の中心人物……とこういうぐあいにリングチェーンのように話が絡み合い、第1編の主人公、20代の恋愛下手な女の子は最終編で存在感のある脇を固める中年女として登場する、という具合。
手の込んだストーリーや、複雑な人間関係を理解しないと物語がわからないような、そういう読み物が大の苦手な娘にはよい手引きになると思ったのである。まだほんものの恋を知らない彼女だが、今恋愛経験のないことはべつにどうってこと全然ないんだよということを(すでに彼女の母親が身をもって示しているとはいえ)わかってほしい気持ちもある。
とにもかくにも、『くまちゃん』、大人の皆さんにももちろんオススメ。わざわざ立ち向かうような本じゃないけど、暇なら読んでたも。
といってる間に、明日の出発時間は刻々と迫るのだわ。
うううーーーー
めっさ心配やめっさ寂しいわめっさついていきたいわー後ろからこっそりぃーーー
あたし、もうアメリカ25年も行ってへんーーー(行きたいんかいな)
さ、頑張って荷造りしよう。
思い出とお土産のスペースはしっかり空けて。
Oui, c'est chouette, finalement. ― 2012/02/29 22:51:48

『最終講義―生き延びるための六講』
内田 樹著
技術評論社 生きる技術!叢書(2011年)
本書が出版されたばかりの頃、私はとてもじゃないがそんな心の余裕がなかった。いや、本当のことをいえば、内田樹の講演録は、対談本よりはましだと思っているが、あまり好きではない。彼は話し上手でもあると思うけれど、いつかも書いたが話をしているウチダを「読む」よりは「聴く」ほうがずっと健康にいいと思っている。健康にいいというのはこの場合変な形容かもしれないが、講演の内容が政治であれ教育であれ、彼のお喋りにはオバサン的シンパシイを感じるからに尽きるのである。私はよく学術会議や外交がテーマのシンポの取材の機会があるのだが、お喋りの上手な人は、何をもってお喋りが上手といえるのかというと、(借りてきた言葉やよその学者の引用でなく)その人自身の言葉を使い、相手も語感と意味を共有してくれるに違いない言葉――それはかなりシビアなセレクションだと想像する――を選択しつつ、そのことじたいはなんでもないことのように、井戸端での噂話をするかのように、澱みなく流麗に、(そしてこれが重要である)美しい発声で、話をする。そんな人の話を聴いて、素人聴衆は「いやあ、この人の講演は聴き応えがあるなあ」とか「ものすごわかりやすかったわあ」といった感想をもてるのである。で、たぶん、ご本人はさほど特別な努力をせずにそのイカスお喋りテクを身につけている。素晴しい論文や著作本に代表される高い業績を残す学者が、必ずしも講演(とくに一般向け)が上手でないのはよくある話だが、その方は一生上手にはなれないと思う。努力しても詮ないと思う。そっちは彼の行く道ではない。彼はひたすら研究し書けばよいのである。
話を愛するウチダに戻すと、私は彼の「書いたもの」が極端に好きである。陶酔するほどに好きである。彼は間違いなく読者に向かって「書いて」いる。その本の中で彼が論ずるテーマへの、尽きることのない愛情がほとばしって見える、それが彼の著書である。ウチダの著書には、私はいつだって心を揺さぶられるし、覚醒させられる。気分がいいとき、共鳴するときばかりではない。しかしそれすら快感である。
しかし、彼の語りをそのまま文字に置き換えた対談本や講演録はその限りではない。本になる前に内田樹自身が校正しているし、大幅加筆もしているので純然たる記録でないのは明白だけれど、文章の持つそのライヴ感が、その本の読者でなく実は共著者である対談相手、あるいは当時の聴衆に向けられていることがわかってしまっているので、興ざめである。いくら書籍という体裁のために整えられても、やはり「喋った当時の臨場感」を誌面に残そうと努力するのが、対談や講演の企画者、出版社の編集者、そして著者自身の意向であるのは普通のことである。
でも、そのことは、私にとっては書物としての魅力を半減させてしまう要素なのである。
去年の5月か6月に書店に並んだらしきこの赤い派手な本を、私は一瞥した覚えはあるのだが、いかんせん、その頃、読む本ときたら地震と津波と原発と、放射能汚染と医療と食品の関連本ばかりであり、ときどきガス抜きに子ども向けの小説を読んで頭を休めるということを繰り返していたので、いちばん好みのジャンルであるエッセイ系、批評系の書物に全然目がいかなかったのである。
ふと思い出して図書館で検索すれば、お決まりの貸し出し予約殺到状態で、相変わらず人気はあるが、予約してまで借りようとも思わなかったのはこれがやはり講演録だからである。
でも、けっきょく私はこの本を読んだ。ある晩帰宅すると、食卓の上にばさりと、娘が高校から持ち帰った文書類が無造作に置かれていた。その中に高校の図書館便りがあり、新規購入図書紹介欄に本書の題名があった。さっそくさなぎに「この内田さんの本借りてきて」と頼んだ。研修旅行委員だからいろいろな調べもののためにしょっちゅう図書館に行くくせに、ヤツときたら「ア、すっかり忘れてた」「今日はちゃんとメモ持って行ったのに自分の借りる本見つけたら忘れた」「誰の何ていうどんな本やったっけ?」とのたまうこと数か月(笑)。ようやくつい最近、私のために『最終講義』を借りてきてくれた。
読んで思ったのだが、あ、なるほどこれは高校の図書室にあってしかるべき本である、ということだった。ウチダの喋りはわかりやすい、というのはさんざんゆってるが、確かに彼は好んで高校生に向けて講演をよく行っている。収録されている講演録は高校生向けのものはないけれども、彼のお喋りは、高校生くらいが読むのにちょうどいい重要語彙出現頻度で進むのである。実際に、収録されている講演を、娘の高校の生徒たちが聴講したら、たぶん全員舟を漕ぐ(笑)。言葉は発せられて瞬時に消える。ウチダの口から発せられる言葉をあらかじめ推測し発せられた瞬間それを捉えて咀嚼し音が消えた後にもその言葉の余韻を噛み締めながら続いて発せられ続ける言葉の洪水とつないでいく――そんな、「聴きかた」をもたないと、ウチダであろうと誰であろうと、澱みなく続く他人のお喋りにうつらうつらしてしまうのはいたしかたがない。ティーンエイジャーの仕事の半分は寝ることだからな。
しかし、それが文章になると、言葉は消えずに眼下に留まり続けてくれるので、反芻しながら読むことができる。内田の話は、講演録のかたちでなら、ウチの子でも読めるわと母は思ったのである。神戸女学院大学の学生たちにこれが最後の講義ですといいながら、ウチダは、実は日本全国の小中高生に語りかけていた。彼がこれまでの著作で、ブログで、ほいでたぶんツイッターで、さんざん繰り返し述べていたことをもう一度語ったに過ぎないのかもしれないが、彼は、教員としての最後の一年間に行った講演のほぼすべてを、日本の未来を担う子どもたちに向けて発信したのである。聴衆は、神戸女学院大学の学生に留まらず、その同窓会や保護者会、他大学の学生と教職員など、ええ歳した大人ばかりである。彼らをそれなりに楽しませながら、ウチダはこれ以上ないというほどの強い思いを込めて子どもたちに向けてメッセージを発していた。
バレエの発表会が無事終わったら、娘に薦めようかと思っている。300ページを全部読めとは言わん。彼女のツボにはまりそうなトピックスが部分的にあるので、ここと、ここと、ここ読んでみ、というふうに。それらは、子どもたちが考えるきっかけ、問題の所在に気づくきっかけになるような仕掛けのある場所だ。そこに引っ掛かれば次の思考へと階段をひとつ昇れる。
本書は、ウォールクライミングの、ほら、壁に埋め込まれたカラフルな石の断片、ああいうものが各ページにちりばめられているといっていい。どの石に足を引っ掛けて登るのかは読み手に任されているが、気まぐれに、あるいは突拍子もないしかたで、思わぬところに引っ掛けて進む、そんな読みかたを、ウチダは子どもたちに期待しているのではないか。とそんなふうに思ったのである。
*
ほったらかしのブログに毎日たくさんのアクセス、ありがとうございます。
ようやく、仕事の出口が見えてきました。これからほんのしばし、少しは眠れる夜が続くと思います。明日、あさってが踏ん張りどころ。
気がつけば2月も終わり。今年はうるう年なんですね。この、2月のプラス1日が、世の中の仕事ニンゲンたちをどれほど救い、あるいはどれほど苦しめているか(笑)、これ考えた人は想像したんかい、おい、こら。
せっかくの2月29日なので、なんか書いとこうと思いました。
Bon anniversaire ma chère!!! ― 2012/02/13 23:53:08


C'est pas facile, les histoires des ados...!!! ― 2012/01/05 19:48:04

『きみが見つける物語 ティーンエイジ・レボリューション』
アンソロジー(椰月美智子、あさのあつこ、魚住直子、角田光代、笹生陽子、森絵都 著)
角川書店(2010年)
仕事始めだった……。
ぜんぜんアタマが仕事モードにならないのなんのって……。
こんな新年は初めてだぞ。毎年、雑煮やらカルタ取りやらDVD鑑賞やら深夜映画やらでどろどろぬーぼーぐでんぐでんになったアタマも、しゃきっとするのにさ。歳かあ。ちきしょー。
若さがうらやましいなっ。
あの頃にはもう戻れないのだ。
なかなかの秀作を集めた「きみが見つける物語」シリーズ、紹介する本書は文庫じゃなくて単行本。売れっ子さんたちがずらり。きりきりきゅんきゅんの10代マインドを描いてみせる。私は魚住直子に惹かれて借りたんだけど、んー、本書への収録作品はそれほど好きではなかったな。月並みな評価かもしれないが、角田さんと森さんが突き出ているかな。で、この中でいちばん冴えないのはあさのさんだ。あさの作品はもともとあまり好きではない。何だったか超ブレイクした長編を手にとって、書き出しが違和感あってすぐ閉じたのを覚えている。もちろん、読了したのもあるが、いずれも、じゃ次行ってみよー、みたいな勢いを保てない。当分読みたくない感じ。本書収録作品はどれも短編だが、それぞれ著者の個性はよく出ている。本音を言うと森さんの作品もあまり好きではない。面白くて一気に読んでしまうのだが、的を射すぎているというと変な表現だけど、青春のツボをつかみすぎているというのか、もう少し外してくれたほうが(笑)オバサンは読みやすい。だーーーーっと読んじゃうわりに、読後感がよろしくない。そっか?そんなもんか?そう終わっていいのか?みたいな。「17レボリューション」も大変面白い。切り口も展開もさすがだ。だが最後はちんまりまとまってしまったな感が否めないのだが、それは過剰要求かもしれぬ。
「世界の果ての先」角田光代(初出:『野性時代』2005年7月号)
「薄桃色の一瞬に」あさのあつこ(初出:『野性時代』2005年7月号)
「電話かかってこないかな」笹生陽子(初出:『野性時代』2005年7月号)
「赤土を爆走」魚住直子(初出:『野性時代』2006年10月号)
「十九の頃」椰月美智子(初出:『Feel Love』2007年vol.1、「19、はたち」を改題)
「17レボリューション」森絵都(初出:『野性時代』2006年4月号)
で、何が好きだったかというと「十九の頃」なのだ。
ヒロインが十九の頃を思い出して語る。突飛なストーリーではない。物語の展開や結末も見える。だが、ヒロインの語りがどことなく舌足らずで、読み手はよそ見せずに聞き耳を立てなくてはならない。そのあたりが、タンタンターン!と展開していく森作品とちょっと(かなり)違う。
私はこういう、行間がしっとり湿っている物語が好きだ。たとえば、岩瀬成子さんの筆致がそうなのだけど、じんわりと、読み手の指先から心にかけて物語の色が染みていくような、そういう湿り気を含んだエクリチュール。
YAというジャンルに入る文学はおしなべて、本書収録の「電話かかってこないかな」「赤土を爆走」「17レボリューション」のように鋭さとテンポよさと意外性を持ち合わせていることが多く、それゆえに若者に受けているのが事実なのだろう。
本書の中では、角田さんの「世界の果ての先」が、少しだけしっとり感を醸し出している。だが、この作品のよさはそうしたしっとり感とは別のところにある。したがって、私が好きな岩瀬さん作品との共通点、といった言い草をするのは角田さんに失礼だろうな。それは椰月さんに対してもだが、この方の作品を本書で初めて読んで、他作品をまだ知らない。本作だけであれこれいえないが、本書の中では好感が持てた。
早いもので、娘の高校生活も10か月めに突入。親ばかりがあたふたしている間に気がつけば卒業、なんだろうな。高校時代、私は突然エリック・カルメンが好きだったが(そして卒業すると聴かなくなった)彼女が陶酔するのはなんだろう。何でもいいからそういう対象を持つがよろし、なんだが。