絵本は「本」【上】2007/02/07 19:27:14

『あらしのよるに』
木村裕一 作  あべ弘士 絵
講談社(1994年)


アニメ映画にまでなってしまったシリーズ絵本の第1作。ガブとメイの友情物語の序章に当たる。子どももその親も若者たちをもその渦に巻き込んだ感動巨編。しかしである。関係者にも感動した人々にもうらみはまったくないけれど、私は、『あらしのよるに』はこの一冊だけで完結していて欲しかった、とその後のヒットを好ましく思っていない一人である。『あらしのよるに』はこの一冊だけで十分にスリリングであるし、想像をかきたててくれる。オオカミは、ヤギは、あのあとどうしたと思う? 仲良く一緒にご飯食べたかな? 『おおかみと七匹の子やぎ』のお話を知っている子どもなら、「ヤギさんは食べられてしまう」と残酷な結末を想像するかもしれない。もっと幼い子どもなら「一緒におむすび食べたかな」なんて可愛いことをいうかもしれない。いずれにしても、続編を次々とこしらえてくださったので、このお話には「続き」が存在してしまった。ある意味、親子の楽しみが奪われたといえなくもない。残念である。それほど『あらしのよるに』は、この一冊の完成度が高い。続く巻を大きく凌いで優れた絵本であると断言する。

といっても、私は「2巻め」以降をまったく読んでいないので、それらについて述べることができないだけでなく、結果的に「1巻め」になるこの『あらしのよるに』が「続く巻を大きく凌いで優れた絵本であると断言する」なんてもってのほかなんだけど、本当は。

同じ書き手と画家によるのなら、おそらく一冊一冊はどれも素晴しい絵本に違いない。あべさんの絵はとても素敵だ。動物園で飼育係をされていたこともあるというこの人の絵は、観る者に媚を売らない。動物たちとじかに接してきた人ならではの動物の描き方。なんといえばよいのかな、動物への本物の愛という陳腐な表現では足りないな、心の深い深いところから自然に生まれている動物たちへの寛容、厳しくも温かい飼育者の眼(これは、そうした職業経験のあることを知っているから受ける印象ではあるけれど)が、押しつけがましくなくにじみ出ている絵。

完結まで6巻。
その内容はひとつなぎになって、メディアを通じて広く流布された。そしてそのおかげで、初めて絵本『あらしのよるに』を母娘で読んだときの楽しさは、おそらく娘の記憶からは失われてしまった。彼女にとって『あらしのよるに』とは、幼児期に私が読み聞かせた絵本ではなく、オオカミとヤギの切ない友情と恋慕を描いたアニメ映画になってしまったのだ。
(おまけに『小説・あらしのよるに』なんてものがあるらしい。それを立ち読みして感動して泣いたという同僚からその内容を聞くかぎりでは、たしかにわかりやすくて、誰もが泣ける展開だ。でもな、だからって、立ち読みして泣くなよ、同僚)
幸い、その映画をウチの子は一度は観たいといったが、「お母さんは観たくない」というとあっさり引き下がってくれた。

さて。
子どもを膝に乗せ、絵本を広げて読み聞かせる。子どもにとって今ここは、暗い小屋の中。すぐそばにいる見知らぬ相手、でも顔は見えない。外は暴風、豪雨。子どもはどきどきしながら、どうなるの、どうなるの、とわくわくしながら絵本のページを凝視する。目は絵を見ているが、頭の中は、経験したことのない嵐のものすごさを自分が知っている限りの音で感じようと懸命だ。オオカミの声、ヤギの声を、読む親の声を通して恐ろしげにあるいは不安げに解釈している。その子どもの体を打つ鼓動は、親にも、ずんずんと、伝わる。
嵐の夜とはどんな夜なのか。幸いにも大きな自然災害を体験していない私たち。だからこそ、子どもはそれを全身で想像しようとする。本を読む楽しさはそこにある。絵本だろうと、一般書だろうと。まだ見ぬもの、知りえないものの疑似体験をするのだ。読みながら、音声と映像を頭の中で作り出すのは自分自身だ。

『あらしのよるに』大ヒット(というか、大騒ぎ)のきっかけになったのは、某国営放送の某テレビ絵本とかいう番組である。
できるだけ「絵本を読む」感じを損なわないように、動画化せずクローズアップや絵を揺らす程度の動かし方にとどめている。絵本の読み手には、テーマにイメージが合うような(?)有名人を配している。製作者サイドの工夫、苦労がよく感じられる番組だ。
しかし、この番組は、日本中の親子から絵本を読む楽しみを奪っているといっていい。
いや、たしかに、この番組がきっかけで絵本を求めた親子もいるには違いない。
しかし、本は高い。充実した図書館が地域にないこともある。
しかし、家にはテレビがある。テレビで絵本?まあ、ちょうどいいわ。じゃちょっとテレビ見ててくれる、お母さんそのあいだに台所片づけるから。
テレビ絵本の読み手は朗読者としてなかなか優れているし、効果音もあったりで、子どもはすぐ夢中になる。話題のイケメン俳優が読んでいたりすると母親も聞き耳を立てたり。

テレビ絵本で見た本を入手して読み聞かせたら、子どもがよりいっそう喜んだ、だからよかった、よいことだ、といえるだろうか。
たぶん、製作者サイドは「それを狙っている」というだろう。
しかし、テレビ画像化した絵、魅力的な玄人の声、効果音声等を織りなして作られた、完成した5分間の番組として子どもが経験した後では、それによってできあがったイメージを崩す、あるいは凌駕するほどの感動を、親の読み聞かせで提供できるかといったら、疑問だ。親の声を聞きながら、ページをめくりながら、子どもの頭の中では番組が再生されているに過ぎない。

番組がよくできているほど、番組への反響も大きく、たぶん絵本自体もよく売れる。だからって、それでいいのか。

番組を見てから絵本を読んだ子どもの場合、その絵本に初めて出会ったとはもはやいえないし、親の声を通して語られる物語を聞いてもそれで脳裏に甦るのはテレビ音声だとすれば、豊かな想像力を育てる絵本の読み聞かせ、なんてもう戯言になってしまう。
絵本をたっぷり読んだ後で番組を見た場合、違和感を覚えてなじめない子とその逆の反応をする子とでは、どちらが多いのだろう。おそらく、日頃、より親しんでいるのが本なのかテレビなのかで子どもの反応は変わるのだろう。だとしたら、きっと後者が多数派だ。

「この絵本、テレビで見たほうが面白かった」
この子どもの台詞は悲しくないか。テレビ絵本製作者たちにとっても不本意じゃないのか。絵本は「本」であって、テレビ番組の素材でも脚本でもない。絵本を読む楽しみを奪う(つもりはなくても結果として奪う)番組なんか、やめてしまえ、と言いたくなる。

数日前図書館で、ちっちゃな子を膝に乗せて『あらしのよるに』を読んでいる若いお母さんを見た。子どもの真剣な目。その耳元で、お母さんの唇が横に縦に大きく動く。今あの子の中に沸き起こっている世界が成長の糧になればいい、と思う。

コメント

トラックバック