絵本は「本」【下】2007/02/07 21:45:10

『あしたもともだち』
内田麟太郎 作  降矢なな 絵
偕成社(2000年)


某国営放送の某テレビ絵本云々という番組を否定するようなことを書いたけれど、我が家では、最近こそ落語ものしか見なくなったが、かつてはそれこそ欠かさず見ていたのである。とりわけ子どもが保育園にお世話になっていた頃は、番組を見るたびに
「これ知ってるぅー」
「今度これ読みたいぃー」
の、どちらかの台詞が子どもの口から出て、番組と競争するかのように絵本を選んで読み聞かせたものだった。

ところで、私は別に「読み聞かせ信奉者」ではない。本なんか、自分で読めよといいたい。よく読み聞かせ活動に熱心な方が居られるが、それ自体は称賛するし拍手を贈るが、私はエゴイストなのでよそさまのお子さまにまで本を読んでさし上げる気はない。本はウチの子のためだけに読むのだ。ウチの子が、私が読み聞かせる以外に本に触れようとしないから読み聞かせているだけである。

この本は、今人気爆発沸騰大流行中の『ともだちや』シリーズの3作め(だと思う)。第1作の『ともだちや』は本を読んでいないけれど、2作めの『ともだちくるかな』を本屋で見て一目惚れし、よし、今度買うぞ!と先送りしたまま買わずにいたら次々と続編が出て、今いったい何冊あるのか知らない。とにかく大好きな降矢さんの絵だからきっとそのうち買うぞ、とは思っていたけれど。
ずいぶん前のことだが、その本の話をしたら娘は「嫌いだ」という。読みもしていないのに何でだと訊くと、「テレビで見たもん。つまんない」
なんだってえ~。

たしかに、このシリーズを例のテレビ絵本で続けざまに放映していたのは知っている。人気が高いので、期間をおいて再放映を何度もしている。
その何度目かの放映を、見た。
なるほど。降矢さんの絵が、伝わってこない。色遣い、タッチ、細かな仕掛け。絵本のページに目を皿のようにして向かって初めて味わえる面白さが、ない。
この本に限っていえば、たしかに面白み半減だ。
だが私は諦めず、この本の愉快さを何とか子どもに味わわせたくて、図書館に行くたび探して(いつ行っても貸し出し中、予約がいっぱい入ってる人気絵本だからホント困った。だったら買えよってところだが)やっと読み聞かせることができた。
その結果、娘はこの本を気に入ってくれたのだ! やった! テレビ絵本に勝ったぞ!
娘は、不服そうな悲しそうなキツネの顔、優しいオオカミの眼をじっとじっと凝視した。落ちている栗の数を数えたりもした。一緒に栗拾いをしてクマのお見舞いに行く気になってくれたのだろうか。

ところで。
この本の第1作『ともだちや』をめぐって派手ではないが議論がある。『ともだちや』はキツネが「ともだち買いませんか~」と、何かくれたら友達やってあげるよ、というストーリーである。あれこれあって、本当の友達のようなものに出会うのだが。
何かと引き換えに友達になるなんて、そんな話は子どもには聞かせたくない。こんな本はよろしくない。
そうおっしゃる方々がいる。
「よろしくない」というのは正論かもしれない。純真な子どもの心に、何もわざわざ、大人の世界でやってるような時給500円で雇い雇われという仕組みを友達に当てはめて差し込むことは、ない。そりゃそうであろう。
内田さんならではの、少し社会風刺の入ったテキストは、ともすれば「何たること」として非難の的になることがある。
しかし、子どもはそんなに馬鹿ではない。
友達をお金で買う。そのことが是であると、この本が言っているわけではない。それを是だと解釈しそのまま疑いもせず大人になった子どもがいたとしたら、それは子どもではなくその周囲の大人の社会が病んでいるのであって、子どものせいではない。
何も知らない小さな頃にこの本を読み聞かされて、幼稚園で真似っこしているのを見て、先生方は目をつり上げて子どもを怒るんだろうか。保護者は出版社に苦情を言い立てるんだろうか。

子どもは、それも含めていろいろな遊びを通して成長する。絵本はそのきっかけを作るには絶好の材料だ。絵本で体験した世界を自分でもやってみる。実際、やってみるとおかしなことはいっぱい出てくる。それを学ぶ。

絵本は本である。楽しむための、本である。マナーや常識を学ぶために社会人予備軍が首っ引きになるようなハウツーものではない。試験合格必勝本でもない。絵本は、開いたひとだけに、そのひとだけが味わえる世界にいざなう扉を、提供してくれるものにすぎない。その扉の向こうには、そのひとだけの世界が待っている。
私の娘も、『あしたもともだち』に、彼女なりの世界を作ってくれたに違いないのだ。

余談。
内田さんの詩集『うみがわらっている』の中に、『いたこども』という詩がある。「うみたくないけど/うんだこども/かわいくないのに/いるこども」というふうに始まる。親をやっている者の心に突き刺さる詩だ。この人のテキストは、字面だけでなく、その行間のそのまた向こうを読み取りたいと思う。力がなくて、なかなかできないけれど。

コメント

_ マロ ― 2007/02/07 22:42:48

最近、急に絵本を買い始めました。
「ごろごろ にゃーん」(長新太)とか、「どろんこハリー」などのロングセラーを主に買ってます。さすがに長い間支持されているだけあって、味わい深いものばかり。

これからも、もっと買い集めていく予定ですが、そもそも絵本を買おうと思ったのは、子供が「これ読んで~」と持ってくるのが、しまじろうシリーズでおなじみの「こどもちゃれんじ」の絵本だったからです。

親戚からのお古としてわが家に回ってきたんだけれど、その内容がちょっといただけない。「しまじろうは上手に歯磨きするぞ~」「しまじろうは、お母さんのお手伝いをするぞ~」などなど、要するに、親が子供がやって欲しい行動を絵本を通じて促す仕掛けになっているのです。

おおげさですが、絵本を使った「洗脳」に思えました。
なので、しまじろうシリーズを読まなくていいように、他の絵本をたくさん買おうと思ったのです。

蝶子さんの言う通り、絵本はあくまでも純粋に楽しむためのもの、と僕も思ってます。絵本の向こうにある世界を、親子で一緒に探検する。僕にとって、読み聞かせとはそういうことです。

_ 蝶子 ― 2007/02/08 11:10:53

マロさん
しまじろう、ですか~……(黙ってしまう)。
マロさんに同感です。
我が家は、しまじろうに限らず、彼ら(←企業のこと)がこれでもかこれでもかと出してくるものを懸命に敬遠してきました。押しつけがましいんです、なにもかも。
いいんですか、お宅のお子さん、ほうっといて。もうすぐ幼稚園ですよ、もうすぐ一年生ですよ、3年生から難しくなりますよ、中学生になったら落ちこぼれますよ、ほら、ほら、ほら、手を打ちなさいよ今のうちに……って。
通信教育だけでなく、今、生活のどんな場面にも彼らの作る雑誌や付属品が押し寄せています(料理、手芸、ペット)。しっかり取捨選択しないと家中「彼ら」だらけになる。

「洗脳」とは、その通りです。トイレや歯磨きのしつけ目的のしまじろうビデオもあるらしい。それ見て子どもがちゃんとできるようになったと喜んで報告する親がいる。洗脳されているのは親ですね、きっと。

_ mukamuka72002 ― 2007/02/08 11:59:13

 テレビ絵本に限らず映像化されたものを先に見ると、確かにそのあと原
作を読んだ場合、イメージが植えつけられていますね。と、云いながら僕
は映像化されたものがあったらまず先に見てから原作を読むタイプなんで
す。だから本当の読書の醍醐味、無味乾燥な活字から想像の翼を広げると
云う作業をいつも省いています。
 「ともだちや」の発想はいいですね、まったく情操教育に問題なんかあ
りませんよね。まったく馬鹿な事を云う人はいつの時代にもいます。「あら
しのよるに」は全然知りませんでした。読んでみる価値がありそうですね、
近いうちに読んでみます。シンプルですが、すごく興味をもたせてしまう
タイトルです。
 ウチは塾に行かせずチャレンジだけで済ませてます。もちろん子どもら
は付録につられてやっているだけですが。

_ おさか ― 2007/02/08 12:51:32

「あらしのよるに」も「ともだちや」シリーズも、実は全部持ってますう。私が買ったのではない、本好きの義母が誕生日に絵本を、といったら全巻贈ってくれたのです。
さすがにすごい値段なので「ここまでは・・・」と電話したら、「本はおもちゃとか他のものとは違うから、いいのよ」と断言されました(涙)いい義母です。
読み聞かせ、なら任してください。娘①が物心つくかつかないかのうちからずうううううううううっと読み続けております、毎日。
文章としては「ともだちや」のほうが読みやすい。せりふに緩急があって、笑わせどころとかわかりやすくて、子供も喜ぶ親も楽しい。
あらしのよるに、はちと大人向けですね。娘①は自分で時々読んでます。息子は自分で読めるけど、まだ読み聞かせてもらったほうが面白いらしい。娘②はまだまだ読み聞かせ世代。
教訓ぽいことが書いてある絵本って、やですね~
しまじろうは・・・・・まあいいんだけど、おかあさんが絶対に声を荒げないでしょ。感情的になったところを見たことがない。信用できない、あの母(笑

_ mukamuka72002 ― 2007/02/08 16:39:37

おさかさーーーーん、
〉あらしのよるに、ハチと大人向けですね
 そ、そーだったんですか~!? 長い事生きているのにハチが本を読んでいるのは未だにみた事がありません。今、「ハチ 読書」で画像検索したけど出てきませんでした。おさかさんって凄い!
 しまじろうから始まって今コラショ、ベ○ッセには丸めこまれているのは悔しいですが、しまじろうマペットには二人とも世話になったので、何かやめられないんですよ。しまじろうのおかあさん確か怒ってましたよビデオの中で、トラのくせに生意気でした。

_ おさか ― 2007/02/08 18:50:34

重箱muka隅男さま、
いつ「はちと」が「ハチと」になったんだあああ。
しまじろうのおかあさん、怒ってた?声を荒げて?
詳細希望。

_ ちょーこ ― 2007/02/08 18:59:32

おさかさん
えっ全部持ってるのっ うらやましいかも~。いい義母さま(つられ涙)。3人もお子さんいらっしゃると読み聞かせも大変ね。いったいいつまで続くのやら。でも、音読するのは楽しいでしょ? 脳にいいらしいしさ、ボケ防止にもええわいと思って、毎晩読んでます、あたし。
しまじろうの「母」の存在は知らなかったなー(笑)

mukaさん
ごめんね、気を悪くなさらないでくださいね。けっしてちゃれんじそのものが悪いわけじゃないから。なんでも使いよう、なんですよね。教材にしろなんにしろ、道具、消耗品と割り切るとか、単なるきっかけ作りと認識するとか、いろいろ形はあるけど、親が依存しないことが大切だと思うのさ、あーゆーもんは。
甥っ子は1~3年生のあいだチャレンジやってて、今は学習塾にいってます。ウチの子は体育会系の習い事が忙しくて塾どころじゃないのでためしに別の通信教育やってみたが、もうやめようと思っています。ムダだと判明した。

_ 儚い預言者 ― 2007/02/09 05:18:56

 怖れながら、私はいつも神の視点とは何かを問います。世の中が平和で楽しい、どこまでも豊かな世界。誰もがそして周りの事物すべてが、いのちの光彩を放っている世界。
 この世に生れて、何が楽しいかと問います。これがこれであり、あれがあれである、その概念化と関係性の無限の組み合わせを喜ぶのです。もともと宇宙というひとつから、万物の森羅万象を創ったのは、この楽しみというか悦楽というか、神の戯れであったかもしれない。
 その慈しまれた手の中で人は、学んでいるのでしょう。

 イエスは高貴である、ということはどういう事でしょうか。
 革新の平等性を、説いたからではないかと思うのです。
 あなたと私は同じである、しかしあなたと私は自由をそれぞれ持っている。この矛盾することを「愛する」ということで、分かち合おうとした。
 この世界では、二極化は避けられません。光があれば、闇があり、善があれば、悪もある。本当は幻であるけれども、実際はそのようにしか見えない。それを見ることを、そして打破できる技が愛だと言ったのだと思います。
 それを応用するとすれば、こういう風になると思います。子供は子供であるけれども、大人であることでもある。子供は大人に学ばなければいけないが、同じように大人も子供に学ばなくてはいけない。親が子を作り、子が親を作っているのかもしれない、ということです。

 長々と申し訳ありません。
 うっさいなーーと、いつも子供に嗜まれているわたちでちゅ。

 あなたに愛を込めて。

_ mukamuka72002 ― 2007/02/09 15:33:50

全然気にしてませんよ。おそらくちょーこさんと僕は同じ感覚ですよ。勉強を商売にしている所謂教育屋さん、正直胡散臭いです。
(これは偏見だと重々承知しています、立派な人、業者はいっぱいいるはず)
 体育会系の習い事が忙しい、と云う事は夢中になっている、と云う事ですね。羨ましい。羨ましい、ウチのは遊びだけです、夢中になるのは。親の顔がみたい。




_ ちょーこ ― 2007/02/09 15:40:24

預言者様
子が親を作っているとはまさしくその通り。
子がなければ誰も親にはなれないので。
お子様のおかげで親業やらせていただいているわけであります。親業を通じてオトナは大人になるのであります。私など、親にならなければきっと今頃路上にしゃがんで煙草ふかして「兄ちゃん安うしとくで」「ただでも買うかい」「可愛げないのうボケ」なんつう会話をするような壊れた慰安人形に成り果てていたかもしれませんのですよね。そのように危うい私を頼りつき従い当てにする子どもがいたから私は普通の人間になれたと心底思うのですのよ。

_ ちょーこ ― 2007/02/09 15:42:36

mukaさん
遊びに夢中になるのは素晴しいことですよ。時を忘れて遊びに夢中になるのは子どもにしか許されませんもの。きっと親御さんに似たんですよ! ねっ。

_ マロ ― 2007/02/12 22:15:05

さっそく、「ともだちや」と「ひきとりや」を買いましたよ。
完成度高いですね、このシリーズは。
ストーリーも、なるほどと思わせるし。また、それ以上に絵がすばらしい。
絵を描く時の視点(カメラの位置)も凝ってるし、キャラクターの表情や衣装も楽しい。
3歳の息子にはストーリーは難解だったようですが、絵は楽しんでました。

さぁ、もっと絵本を買うぞ~。

_ ちょーこ ― 2007/02/13 19:10:15

おおおっ マロ父さん、はりきってらっしゃいますね!
なんか楽しそうな様子が伝わってきますよ。親がまず、楽しまないとね!

降矢さんの絵は、いいんですよ、ほんと!
今、タイトルが思い出せないんですけど、何年も前に、やまんばとその娘・まゆってのが出てくるシリーズの絵本を見たのが、降矢さんの絵との出会いでして、そのお話はいまいちだったけど、絵に惚れちゃったのです。
以来ずっと気になる画家さん。
いずれにしろ、『ともだちや』はいい絵本です、ハイ。
おさか家みたいに、全巻揃えることになるのかな、マロ家も?

_ トゥーサ・ヴァッキーノ ― 2007/02/13 22:04:36

匂う本、いま読んでます。
フランスの小説って、よく番号ふりますよね。
あと、あんまり改行がないような気がするんですけど…
「香水」を読みながら、コクトーの「恐るべき子供たち」も読んでます。
昔、ラディゲの「肉体の悪魔」を読んで、すごくブルブルブルーになったので、いつかコクトーも読んでみたいと思っていたら、古典新訳があったので買いました。
コクトーの挿絵がオシャレです!

_ mukamuka72002 ― 2007/02/15 19:04:53

マロさん、もしかしたらお母さんかも知れない、実はみんなを騙しているのかもしれないと疑っていました。ですが、蝶子さんがマロお父さんと書いたのでやっと長年の疑いが晴れました。
以前、ぎんなんさんをずーっと男性だと思っていて、あれ? となって変な質問しました。
http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2006/06/16/407214#c414018
蝶子さんも、男性でかなり高齢な方だと思っていました。本当に読む力が乏しいと嘆いています。さ、化粧落として寝よ。

_ トゥーサ・ヴァッキーノ ― 2007/02/15 20:11:59

え?!
mukamukaさんってオカマだったんですか?!
意外です。

さ、胸のシリコン取り替えよ。

_ ちょーこ ― 2007/02/16 10:12:14

mukaさん
え? マロさんが「お母さん」? かもしれない? そうね、「僕」とおっしゃっているけど、正体は不明。ぎんなんさんへの誤解は仕方ないと思うよ(ぎんちゃん、ごめん! ぎんちゃんの文章や書き込み読んでると自分との共通点をときたま、感じるのであった)。私が高齢の男性というのも、実はそうなのかもしれないと思うこと多々アリなので、当たっているかもよ。知らないのは自分だけだったり。

ヴァッキーさん
あ、やっぱし。君もそっちか。思ったとおりよ。

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