「アフリカに行きます」 ― 2007/03/03 16:59:03
カーレン・ブリクセン著 渡辺洋美訳
筑摩書房 1992年
アフリカはずっと憧れの大地だった。フランス語をなぜ学ぼうと思ったかといえば、それは西アフリカに行きたかったからに他ならない。当初私には、西欧列強の植民地主義、覇権主義、資本主義によってこの大地がいかに蝕まれてしまったかなどという知識はまったくなかった。
私たちの世代は、「ワールドミュージック」なる言葉に飽きるほど踊らされたものである。夕べはセネガル、今夜はベネズエラ、あしたの晩は北欧系。強い「円」を稼ぎに、世界中からミュージシャンが押し寄せ、私たちは節操もなくライブのハシゴをして各々が通ぶった。こうしたことを、大学または駆け出し時代がバブルに重なる世代の人間は、大なり小なり経験しているのではないか。
私にとって「恋人」はビリー・ジョエルであったし、「愛人」はエリック・カルメン、「しもべ」はデヴィッド・ボウイであった。「兄」はボズ・スキャッグス、「いつもつるんでる遊び仲間」はスタイル・カウンシル、「忘れられない幼馴染み」は戸川純だった。
誰でも知ってるメジャーなミュージシャンがアイドルだったのだが、何をきっかけにか忘れたが、ある時期から太鼓の音が気になるようになり、追いかけていくうちに、プリミティブな儀式や祝祭を記録した映像に行き着く。国立民族博物館で世界各地の楽器や演奏記録を見たり聴いたりしていると、当然ながら現地へ行ってみたくなるのであった。
「N社に決めます」
「そうか、それがいいだろう、君には。エディトリアルの求人がないのは残念だったがな。ものづくりという意味では、同じだからな」
「先生、それがいいだろう君にはってどういう意味ですか」
「N社のような大手のほうが、君は働きやすいはずだ」
「はあ」
「仕事は先輩の鉛筆削りだけ、なんて状態が3年も続いたり」
「はあ」
「寝袋が必携だったり。つまりいつでも徹夜、いつでも泊まり込み態勢」
「はあ」
「そんな経験をしてまで、デザイン事務所にこだわる気はないはずだ」
「ばれてましたか」
「福利厚生のしっかりしたところでしっかり勉強させてもらって、アフターファイブも楽しんだうえで、何か形にして世に出せたら、こんな素晴しいことはない」
「おっしゃるとおりです」
「三年くらい頑張れば貯金もできるさ。その後のことはその時また見えてくるだろう」
「アフリカに行きます」
「へ?」
「毎日定時にあがって、アフターファイブはフランス語学校へ行き、3年経ったら退職して西アフリカに渡ります」
「ほう。それで?」
「太鼓を持って帰ります。マラリアで死ななければ」
「君は死なんだろうな」
大学のゼミの教授は私の性格をよく把握し、適切なアドバイスをくれ、私は教授がいうとおりの社会人生活を送った。真面目に働き、早々と退社し、独りであるいは連れだって夜の街を楽しんだ。独りの時は、(少女時代からのアイドルたちをしばし忘れて)アフリカ系ミュージシャンの音を求めて、どんなに怪しげでも、ライブやイベントに足を運んだ。私の中にはアフリカの、原始の音から西欧の手の入った垢抜けた音まで、ごちゃ混ぜになって鳴り響いていた。
いっぽう、通っていたフランス語学校で、アフリカと西欧のかかわりについて書いた本を、読んだ。それは研究論集で、現地調査の結果と考察を淡々と書き連ねてあるものだったが、そうしたものを初めて読む者の目には実に新鮮に映った。その本で、私は、かの大地、アフリカはとうてい手に負えない場所なのだということを知る。今のアフリカ、西欧に切り刻まれた結果としてのアフリカを見るために、見て自分の中に何かを残すために、まず大陸発見以来の歴史について知識を蓄えなければならないと思った。
フランス語を多少マスターして、日常会話に困らないからとセネガルやマリに渡っても、物見遊山で終わってしまう。
それではだめだ。
私は、サリフ・ケイタに会わなくてはいけない。彼の後ろでジャンべを叩いてた男や、巨体をうねらせ踊っていた女たちに。
そのためにも彼らの背景を知らなければ。そのためにも西アフリカをかつて支配したフランスに、行かなければ。どのみち、フランス語学校だけでは全然フランス語上達しないし。
N社を退職し、フランスへ渡ったが、アフリカには渡らないまま、現在に至る。
懸命に勉強して、かの地に人類最大の不幸が、同じ人類の手によってもたらされたことをどうにかそれなりに知る。しかし、けっきょく研究者でもジャーナリストでもない私は、フィールドワークや現地取材のための時間と資金がなく、生来根性なしなので、安穏生活を手放すことができず、それなりの、実を伴わない知識があるだけだ。
ブリクセンの『アフリカ農場』は、もはや私たちがどう足掻いても決して体験することのできないアフリカ、失われたアフリカ、しかし植民地支配のただなかにあったアフリカを、英国植民地で農場を経営する北欧人の目で描き出す。それは私たち、つまり現代の日本人とは同じ目ではあり得ない。とはいっても、もしも同時代人であれば、同じようにかの大地に魅せられたはずだと思うのだ。動物たちと原住民をこの大地の構成要素として捉えて。
その場にいれば。
もしも私が支配する側の人間としてアフリカにいれば。
いくらアフリカについて学んでも、どうしても埋まらなかった空白が、この一点であった。現代人の私は、植民地を持つことの意味を、正確には測れない。
本書は、読み手の私にあった空白に、すっぽりと収まったのである。若い頃から私が憧れ続け、音と記録映像でしか体験できなかったアフリカは、ある女性の生活体験を通して、くっきりと体格のある立体物として私の中に出現した。
著者と私は、生まれも教養の程度も、生きざまも異なるけれども、ことアフリカを対象とした時に何を感じるかという点で、実際のところ、たいして変わらないだろうと思う。といったらブリクセンに失礼だが。なんせ彼女はデンマークのクローネ札に肖像が印刷されたくらいの人なのだ。いや、それは蛇足だけど。
ブリクセンについては今後もっと研究が進むであろう。それは専門家にお任せするが、私は彼女の「アフリカ」を何度も読み返し、自身のアフリカ観に厚みを持たせることからまず始めたいと考えている。アフリカ上陸を、まだ諦めてはいないから。
興味のある方は、こちらもどうぞ。
http://apied.srv7.biz/apiebook/index.html
(↑ URLを訂正しました。2008.2.28)
翠のえんどう ― 2007/03/04 18:42:35
尾崎翠著 稲垣眞美編
筑摩書房 1998年
仕事のための調べものをしに図書館へ行き、「豌豆」をキーワードに蔵書を検索していたら、結果の中に尾崎翠の全集が挙がった。へえ、と思って内容細目を見ると、『浜豌豆の咲く頃』という一篇のあることが、わかった。
『浜豌豆の咲く頃』は、尾崎翠の作品の中でも「少女小説」と呼び分けられている短編群のなかのひとつである。
あの浜には、浜ゑんどうの花が咲きました。
私がお優と知ったのは、その花の咲く頃でございます。
『浜豌豆の咲く頃』の冒頭である。「少女小説」の多くの作品が今は無き「美しく上品な丁寧語」で書かれている。また、『拾つたお金入れ』は少女二人が財布を拾い、交番へ届けて一年後、落とし主がわからないので財布はあなた方のものになりますよ、と巡査に渡された財布を、思案の末、孤児院の募金箱へ入れる話である。
「のり子さん。あのね、このお金を孤児院の函へいれてやりませうか。」
と、のり子さんに言ひました。
「あゝ好いわね。さうしませう。」
のり子さんも嬉しさうにおつしやいました。(『拾つたお金入れ』より)
物語の中心に小さな慈善行為が必ずある。年長の子が年少の子に、裕福な子が貧しい子に、できる範囲で少しだけ、親切にする。しかもけっして「つっけんどん」な態度などではなく、「ぶっきらぼう」な口調でもない。あくまでも丁寧で慎ましく奥ゆかしい。時代が要求する少女像が見えてくるようで、面白い。
『少女対話 土曜日の晩』は、宿題の作文に頭を悩ます小学校4年生の少女が、通りがかりの村娘に親切にしたことを作文に書き、6年生の姉から褒めてもらうという一篇。4年生の少女は姉に「どんな風に書いたら好いでせう。」と尋ね、また村娘には「あなた何処へいらっしゃるの。」と声をかけ、提灯を貸してやる。村娘は、ひとりで帰れるか案じる少女に「灯があれば、大丈夫でございますわ。」と答え、姉は妹に「話して御覧なさいな。」と作文を読むように促す……といった具合である。
実にほのぼのとしていて、滑稽なくらいに誰もがお行儀がよい。少女たちは無垢で純真で、勤勉で辛抱強い。
大正時代の、「少女たちにはこういうものを読ませなければいけない」的な視点で創られる少女雑誌に掲載という形でこれらは世に出た。本書の黒澤亜里子氏の解説によると、尾崎翠の「少女小説」が発表された時期は彼女がまだ作家修業中だった頃に重なるそうだ。寄稿先の意向に沿う形で書かれたものだけに、優しく慈愛に満ちた裕福で上品な少女の善行、というヒナ型に嵌ってはいる。しかし、いま、この現代において読むからかもしれないが、なんと瑞々しく輝いていることだろう。尾崎の作品が貴金属の輝きを帯びるのはもう少しのちの作品であろう。これら「少女小説」群に見えるのは、月並みな表現だが、若葉の上から人知れず転がり落ちんとする朝日を受けた露のきらめきである。
少女たちの台詞に、今どきあり得ないと笑いながら読むのも一興だが、試しに声を出して読んでみると、その言葉の美しさに、我が国語ながらうっとりしてしまうのである。ああ、嘘でもいいから、我が子やその級友たちの、そんな会話を聴いてみたいもんなんだが。
尾崎翠は明治29年生まれだが、40年生まれの私の祖母は尾崎の「少女小説」を読まなかっただろうか。……読まなかったんだろうなあ……。
件の、豌豆の原稿に挿画を描いてくれた私に友人が言った。
「新鮮な豌豆ってまるで春の真珠だね。久しぶりにこんなきれいな緑を見た気がするよ」
尾崎翠と豌豆には共通点もあったわけである。
ところで、検索画面で尾崎翠をヒットした時、仕事に役立つかどうかは二の次にして、なんとしても借りて読もうと思ったのは、あることを思い出したからだった。
思春期、私は詩を書くことに没頭していた。また、詩のアマチュア投稿誌を読みあさっていた。ある時、何度も入選していたある投稿者が、「翠」という字を用いた自身のペンネームについて述べていた。いわく尊敬する尾崎翠から一字もらった、いわく作家で映画評も書いている、グレタ・ガルボやジョゼフィン・べーカーについても述べている、といったことだった。その投稿者の名は忘れてしまったが、「映画評も書く尾崎翠」という形で記憶の片隅に残っていたのだった。
本書、『定本 尾崎翠全集 下巻』には映画評も収録されている。それらは「映画漫想」と題されていて、彼女は「漫想」を「丁度幕の上の場景のやうに、浮かび、消え、移つてゆくそぞろな想ひ」であり、「一定の視点を持つた、透明な批評などからは遠いもの」と定義し、ゆえに自分のような「漫想家といふ人種は、画面に向かった時の心のはたらき方までも映画化されられてゐるのかも知れない」といい、映画に心臓を呑まれてしまったと言ってその心理を説明している。漫想家は脚本家や監督のことよりも役者に興味が向かう、視野が狭いからだ、と言っている。
尾崎は無声映画からトーキーへの移行時代にこの「映画漫想」を雑誌に連載の形で書いており、当初「声画」は「沈黙の領土を知らぬ泥靴」だと言って切り捨てているが、優れた映画に出会えば絶賛するのをためらってはいない。
なんと幸せなシネフィルだろう。とにかく自分の好きなように映画を観て書いている。それに、視野が狭いどころか、実に細かいところまで画面をよく観ていることが読み取れる。とくにリリアン・ギッシュについて言及した一文はため息が出る。私は『イントレランス』と『八月の鯨』でしかギッシュを観ていないが、「リリアン・ギツシユの特殊さは線と容貌の中に潜んでる」という尾崎のギッシュ評は、この女優を表現するのにこれ以外に適切な表現があろうかと思うほど、ギッシュを的確に言い表している。
「映画漫想」は、映画の古典名作に興味のある向きには、一読をお勧めする。タイムスリップする感覚で、楽しめる。
しかし、しかし。本書『定本 尾崎翠全集 下巻』の目玉作品は巻頭の『琉璃玉の耳輪』である。これを読まずして、尾崎翠を語ってはいけない。これは面白い。涙が出る。いろいろな意味で。
ところで「Apied」の次の号はこういうことになっているので興味のある方はぜひどうぞ。
http://apied.srv7.biz/apiebook/index.html
(↑ URLを訂正しました。2008.2.28)
滴り落ちるインテリジェンス ― 2007/03/15 18:10:38
平野啓一郎
文藝春秋 2004年
平野啓一郎の小説を読むのは、白状するとこの本が初めてである。
彼の書くものの字面だけを見ていると、強力に発信されるインテリ光線に射抜かれているような気になり、とてもこの人の小説に私は手が出ないだろうな、と思わせる。長編は絶対無理だ、読めない、私には。というような妙な自信がついてしまって、また興味もさほどわかなかったのだが、あるとき彼が連載していた新聞コラムで彼も短編を書くことを知った。本書は短編集である。
もし、このエントリーを読んでいるあなたが小説家志望で、文章磨きの初歩段階にいるのなら、この本の一読をお薦めする。お手本にしろとはいわないけれど、学ぶ要素の多い文章だ。ほんとに。
とくに、『白昼』『閉じ込められた少年』『瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟』。
日頃からあまり現代文学作品を読まないので、平野氏のこれら作品が卓越したものなのか、「実験的」「野心的」と表現するのがふさわしいのかどうか、皆目見当もつかないが、少なくとも、平野氏といえば綿密な時代考証の上に成立した小難しい文体のアレ、みたいに勝手に思っていた私には、その先入観を払拭することができて大変よかったな、という読後感であった。
これら3作(2003年初出らしい)は大変若々しく瑞々しく、新聞のコラムを読む限り無茶苦茶老練な印象のある平野啓一郎のことを、あ、やっぱ若手だったんだと認識させてくれる。いささか乱暴で強引な表現があるけれども、ストーリーそのものの骨格がしっかりしているのでぐいぐいと読ませるのである。
大変、儲けものであった。
なぜかというと、本書を図書館で探したのは、本書所収の『初七日』を読むためだったからだ。当初の目的は『初七日』さえ読めればそれでよかったのだが、その『初七日』があまり面白くなかった。読むつもりのなかった他の短編が意外と面白くて収穫だと思った次第。
さて。
彼は『初七日』で、老いた父を突然亡くす50代の男を主人公に、家族や親戚が集う通夜、葬儀、初七日のさまを描く。時間を経過させながら、主人公がごく幼かった頃復員した父親の、最期まで決して語られることのなかった戦争経験を、主人公が記憶として紡ぎだそうとする行為を挟み込む。
もう終了してしまったが、彼の執筆による新聞連載コラムを私はわりと楽しみにして読んでいた。内容は、社会情勢や政治の動向、世の中を騒がす事件や話題を手がかりに彼の持論を展開したり、物書きの視点から読み解きを試みたり、といったものである。それらを読んで、ユニークな見方だとかそれは目から鱗だとか、奇天烈なことをいうもんだとかそれは違うぞとか、そんなふうな感想を持ったことはない。感じるのはいつも、実にまっとうな考え方をもつ実に賢い人の手になる文章だ、ということだった。話題、問題の提起のしかた、例の挙げかた、語の用いかた、結論への導きかた。テクニシャンだなあと毎回感心した。ただ、うま過ぎるという印象もある。話の運びが巧み過ぎて、中身が読んだ者の中に残らない(それは私という読み手だけにいえるのかもしれないけどっ)。
たったひとつ覚えているのが、『初七日』という短編に言及した回である。彼は、大岡昇平の『俘虜記』に触発されて(あるいは「昔読んだ『俘虜記』を思い出して」あるいは「最近の戦後報道に『俘虜記』を照らして」だったかもしれないけど、もう忘れた)『初七日』を書いた、と書いていたように思う。コラムの内容は、戦争で若くして亡くなった人、特攻隊員や最前線で憤死した人を追悼することばかりが戦後を語ることになっていないか、というようなものだったと思う。つまり、生き残った人、復員兵の心の傷、戦後の生き様、傷の癒しかたのそれぞれのありようなどを置き去りにしていないかというようなことをいっていた内容だったと思う。平野氏の言葉の使い方を真似できるわけないのでわかっていただけないかもしれないが、まあそういうことだったと思う。(と思う、ばかりで恐縮だ)
『初七日』の主人公は、自分の父は前線で地獄を見たのだろうと、想像する。主人公にとっては復員間もない父の存在そのものが地獄であった。
「戦場は正確に地獄だった。そして(……)あらゆる激昂が、あらゆる怒号が、あらゆる暴力が、その地獄に直結し、彼を恐懼せしめた」(69ページ)
主人公は、父が「地獄」について沈黙を通し、通すことで戦場での自身を葬り去った、つまり一度死んだのだと思う。死んだ父の「余生」は、「死そのものが開始した絶対の沈黙ではなかったか」(70ページ)と自問する。
もはや、戦争体験のない世代を親に持つ我々は、復員兵が心に持ち帰った「地獄」、帰郷ののち生きた「沈黙」を想像することも理解することもできない。それでいいのか、我々は死者を美化するだけに終始していていいのか、死者の祀られている場所がどこだという問題ばかりに気をとられていていいのか。……というような思いを読み手に喚起するために、彼は自身の『初七日』、大岡昇平の『俘虜記』に言及したのだ。私はそれにほいほいと乗せられ、『俘虜記』は太刀打ちできなかったよなという若い日の記憶を理由に『初七日』を手に取ったのであった。
いささか修辞に過ぎるので読みづらい。それと、『俘虜記』という下敷きを持っていないと、読者は戸惑うであろう。主人公が想像を試みる父の地獄は、私たちには「地獄」という「文字」でしかなく内容を伴わない。だから、煙幕をつかむような行為に似ている、主人公の心の動きを追うことは。
(ということで、やはり『俘虜記』を再読しようと決意はしたのだが。それはまた今度)
別の見方をすれば、『初七日』は、人の突然の死に悲しみつつ慌てつつ、極めて事務的流れ作業的に弔いの儀式が執り行われるさまを、風刺もちらつかせながら書かれているところを笑うこともできる作品である。そうした情景描写は、本エントリー冒頭で挙げた3作に並んで、学ぶところが多い。うまいこと書くよなあ、と思う。
この作家は本当に頭がいいんだなと思う。いや、そんな表現すら失礼か。この人の書くものには膨大な知識の裏づけが感じられる。付焼刃ではない、血肉となった知識だ。幼少時からきっちりと学習を積み重ね、それによってどんどん脳という土壌が耕された結果、柔軟に理解、発想、創作ができ、つねに豊作の見込める豊饒な大地となり、種を蒔くことをやめさえしなければ半永久的に収穫することが可能だと思わせる、そういう頭のよさ。
今、世の中には、「そういう頭のよさ」をもたない人の、「なんとなく文章」があふれかえっている。そこそこの見聞を下敷きにした、そこそこの知識による、そこそこの理解のうえに、そこそこの筆力でまとめられた文章(自分で書いていても耳が痛い……あ、目かな、この場合)。インターネット上はもちろん、新聞・出版界もそういったシロモノの大洪水だ。現代人はそういったシロモノに目と頭が慣れてしまっている。
私も例外ではない。だから、この作家の書くものを読むときは結構骨が折れるし、その圧倒的に優位にあるインテリジェンスについていけない(本音)し、この先、本書以外の著作に手を伸ばす気があるかといえば、ない(ないのかよ)。
とはいえ、彼のような耕された豊饒な脳はやっぱうらやましい。私は平野啓一郎よりずっとずっと年長だけれども、今からでも耕して「そこそこ以上」の作物が獲れるようにしたいもんだ。
今度の日曜日 ― 2007/03/20 11:11:45
なんということだろう。こんな大切な日に。
その日は、あるスポーツ(屋外競技)の試合の日で、市内のあちこちから大小さまざまなチームが参加する。娘の小学校ではその競技を部活動で奨励、少ないメンバーながら市にチーム登録している。2年前から参加した娘はその面白さにハマって、一年に1回のこの試合の日をとても楽しみにしていた。この競技は、だんだん広まってはいるものの、まだ子どものスポーツとしてはあまりポピュラーではない。だから競技会はほとんどない。強いチームは大人の競技会に参加しているようだが、娘の小学校のような活動そのものの規模が小さいチームは、この年度末の試合しか力に見合う大会がないのだ。
雨天だと中止。順延はない。だから絶対に晴れてほしい!
一年に1回しか試合がないのでは張り合いがないし、もっと多くの小学校でもこのスポーツに取り組んでほしいし、小規模活動チームであろうと試合の機会は多いほうがいいし、と考えてくださったかどうかは知らないが、昨年、夏に一度試合があったのである。娘のチームでボランティアでコーチをしてくださっている地域のおじさんは、このスポーツの町の協会(そんなものがあるくらいシニアではポピュラーなのだ、このスポーツ)の理事らしいが、他チームや競技場とも調整して、多くの子どもたちに参加できるよう手筈が整えられていたのだ。
それなのに、この部活動の小学校側の担当教諭のSが、参加申込みをするのを忘れていやがったのである。試合の日程は年度始め、つまり4月、つまり3か月も前からわかっていたのに、である。
私たち母娘は、7月のこの試合の日を優先順位ランキングの最上位に置いて、万障繰り合わせベストコンディションで臨めるようにスケジュールを調整していた(←かなり大げさなもの言いをしているが、気持ちの上ではこれでも抑えているくらいだ)。
「Mくんは、家族旅行と重なって、試合出られないんだって」
「そう、残念だね。戦力的にも、痛手じゃない?」
「うん。でも大丈夫。ほかの子も腕上げてるし。今度は負けないもんねっ」
「3月の雪辱戦だなっ」
(二人でガッツポーズ)
連日のようにこんな会話をしていたのだが。
夏休み前のある日、娘は廊下でS先生とすれ違った。S先生は娘を見て思い出したように「あ、そうそう」と立ち止まり、娘を呼び止めてこういったそうだ。
「今度の試合、申込みが間に合わなかったから出られないの~。ほかの子にもゆっといてくれる? じゃ、よろしく」
私は激怒した。
落胆した娘の、この世の終わりのような顔。娘は、その日の出来事をよく話してくれるが、あまり大げさな表現をすることはない。見聞きしたことと感じたことも区別して言える。だから母の私はふだんから娘の言には非常に信頼を置いている。このとき、娘の口からは「S先生、ひどい」の類の言葉は聞かれなかった。そこまで頭が回っていないのだ。ただ試合がなくなったことだけがショックで、廊下では先生に言葉を返せなかったらしいが、ほぼその状態のまま家でもただうなだれていた。
しかし私は瞬時に状況を理解した。S教諭は6年担任、次年度から本格稼動する小中一貫教育制度準備の渦中にあって、連日それ関連の事務雑事に奔走しているようだった。部活動の日はたいてい会議で練習に顔を出したことはほとんどないという。中堅というにはまだ若いS教諭の立ち位置から察すれば山積みのノルマを日々こなすのが精一杯だっただろう(それでなくても小学校教諭の雑務は気の毒なくらい多いらしいし。不要な雑務がほとんどだとは思うが)。
だからって、同情の余地はない。
おそらくS教諭にとって部活動の試合申込みという事務作業は優先順位ランキングの最下位だったのである。
私たち母娘にとってランキング最上位(いや、最上位にランクしていたのは私たち母娘の勝手だけれどもっ)の試合がである。
おさまらない私は翌日、学校にFAXを送りつけた。
3か月も前から決まっていた試合の申込みができなかったってどういうことですか云々。
この日をまず第一目標に練習していた子どもたちの気持ちがわかりますか、先生にはわからないでしょうね、ほとんど練習は見に来てらっしゃらなかったそうですから云々。
制度改変のさなかでお立場上ご多忙はお察ししますが、そんなこと理由にはなりませんよ云々。
全部こなせないなら部活顧問なんて降りられたらどうですか云々。
しかもそんな重要なことを廊下で思い出したように言うなんて云々。
メンバー召集してちゃんと詫びを入れるのが筋と違うんですかい云々。
そして最終段落にはこう書いた。
済んだことはしかたありませんから今後このことをあげつらうつもりはありません、私はこのFAXで言いたいことはすべて言わせていただきました。先生と議論をするつもりはありません。先生の弁解をお聞きする寛容さは持ち合わせておりません。この書面はお目通し後どうぞご随意にご処分ください。
帰宅してFAXのことを娘に言うと、彼女は気絶寸前という顔をして、
「なんでそんなことするんだよー! S先生、普通のお姉さんだよ、お母さんがそんなこと言ったら泣いちゃうよ、寝込んじゃうよ」
「普通のお姉さんだろうと変態のお兄さんだろうと関係ないよ。今回の事務上の不注意、それに事の大きさをわかっていない鈍感さ、態度。S先生には大いに反省してもらわないと」
「S先生に口利いてもらえなくなったらどうしよう」
「親に文句言われたからその子に冷たく当たるとしたら、そんな教師はサイテーだから、そんなのはあんたから無視してやんな、あたしが許す」
「もうっ、お母さんはいつも極端!」
S教諭と、娘の学級担任のT教諭が、私の帰宅時間に合わせて二人で我が家にやってきた。事前のT教諭からの電話に「もう、ほんとにいいんですよ」を繰り返したが、粘られて根負け。言い訳になるのはわかっているけれど、お目にかかっておわびしないと気が済まないというS教諭に、「私に謝ってもらう必要はないので子どもたちに今の話をしてやってくださいね」と私はもうこの話を終わりにした。
S教諭は着任以来、地味だが子どもたちや保護者の人望はあると聞いていた。誠実な教師が凡ミスをしたり軽率な言動をしてしまうほど、学校現場は繁忙で教師の負担が大きく、当の子どもたちがないがしろにされがちだということだ。指導要領をいじくりまわすという愚行を繰り返す前に、中高一貫とか小中一貫とか4・3・2制とか5・4制とか器の形にこだわる前に、教育という領域に携わるエライ人には、もっともっとやることがあるんじゃないのか。教育されるべきはひょっとしてテメエラじゃないのか。
いろいろなことを一気に考えて、非常に肩の凝った夏だった。
と、長くなったが。
貴重な夏の試合に参加できなかったので、恒例年度末の試合への意気込みは、ただならぬものがあるのである。
今度の日曜日。
雨よ、降るな!
外道どもの昼下がり ― 2007/03/22 17:28:16
「そやけど、向こうに気づかれんのちゃいまっか」
「どうもおへん。この板硝子、細工がしたあるさかい、外から中は見えんのどす」
辰吉は硝子に鼻がぶつかるほどに、窓に身を寄せ、通りを挟んだ向かいの家を凝視した。
向かいは釜を商う老舗、凝った意匠の虫籠窓は元禄の頃の匠によるとかで、代々の自慢の種である。先々代までは羽振りがよかったが、先代に商才がなかったのか一度は使用人がみな暇をもらうほど落ちぶれた。しかし、厳しい修業を経て戻った今の当主が暖簾を継いでから何とか体勢を立て直し、徐々に勢いを盛り返しつつある。当主はもう中年といっていい年頃だが、妻はなかった。
蘇芳の襦袢はかろうじて腰紐にひっかかり、肩や太腿が顕に白く光る。両の手と足首は縛られて、口には閉じた扇を銜えさせられている。
ぴしっ。ばしっ。
あうっ。ひいっ。
鞭、呻き。
かさかさ。するする。
はあ、はあ。はう、はう。
衣擦れ、喘ぎ。
辰吉の耳に実際の音は届かないが、頭の中にはいくつもの効果音が鳴り響き、眼前の見世物に迫力を添えていた。
「どうどす。なかなか貴重でっしゃろ」
「御寮人(ごりょん)はん、いったいこれは……」
「釜庄の若、商いが具合よういくまでは、いうて何年も女断ちしゃはったらしいんどす」
「女断ち、でっか」
「お向かいは、女好きの家系でっしゃろ。無茶どすわ。案の定、けったいなことになって、なあご隠居はん」
辰吉がふと顔を上げると、帯問屋の隠居が慣れた態度で腰を下ろしたところだった。
「木内ぁんの若。あんたも修業のためやいうて女断ちなんぞせんといとくれやっしゃ」
「いやあ、わては……。向かいの旦さん、どんなけったいなことにならはったんどすか」
「商いが持ち直して、晴れて女断ちから解放されて嫁をとったんやが、今度は肝腎のモノが立たん、ちゅうこっちゃ」
「あらま」
「ほんで嫁に逃げられて、頭おかしなってしもて、折檻癖がついてしもたらしいで」
「ご隠居はん、順番逆どすえ、立たへんさかいに嫁がきつう拗ねたら、それが可愛(かえ)らし過ぎるやないか、いうて、折檻したんどす。変態どすがな、そんなん、なあ。そら、嫁も逃げますわな」
「いま叩かれてんのは誰ですねん」
「寂しいさかいいうて、養女とらはってな、その娘が年頃になったらこの有様どすわ」
話しながらも辰吉の目は、例の光景に釘づけであった。娘の姿は蘇芳の襤褸を巻きつけた白蛇のごとく、男の腕がひと振りされるたびに、くねくねと、妖しく身もだえした。
「木内ぁんの若がよってくれはんにゃったら、ここへ通うの楽しみになりますな。わしのほかには、ほれ、紋の杉下の隠居と今の旦さん、ほんでここの旦さんだけやさかいにな。お宅の先代が元気でいてくれはったら先に誘てたんやが」
「御寮人はん、ここの旦さんは、いつこれを……」
「もう、二、三年前どっしゃろか。びっくりしましてなあ、ほんで、あんた、すぐにこっちの虫籠窓の内側の硝子、替えましたんや」
「ほんまに、ここの旦さんは機転が利く。商売が繁盛するわけや」
帯問屋の隠居が、くっくっくと喉で笑った。
「ああっご隠居、あれ」
「若、見ものは今からでっせ」
鞭を離した男が白蛇に覆いかぶさった。男の口から長い舌が伸び、娘のうなじから細かく丁寧に舐め始める。
ぺろぺろ。ぺろぺろ。
辰吉は背筋に悪寒とも快感とも区別しがたい痺れが走るのを感じた。
肩、二の腕、脇、背中。
ぺろぺろ。ぺろぺろ。
ひっくり返して喉元、乳房、腹、
ぺろぺろ。ぺろぺろ。
また返して尻、太腿、脛、足の裏
ぺろぺろ。ぺろぺろ。
今度は男が大蛇のようである。
「あの舌戯はたいしたもんや。見習いたいもんやが、もうちっと若うで見せてもろとったらなあ」
隠居の言を待つまでもなく、辰吉は男の舌の這うさまを一心に凝視し脳裏に刻み込んでいた。鞭で打たれていたときとは違って、娘の体はぴくりとも動かなかった。まるで死体のようであった。先ほどから長い髪が顔にばさりとかかっていて、娘の顔はよく見えないままだった。
ふと、気になって、辰吉は、やはり窓の向こうの光景から目を離さずに問うた。
「釜庄の先代はご存命やなかったですか」
「聞いた話では、今見えてるあの間のもひとつ奥の間で、寝たきりになったはるそうや」
「先代は、特等席いうわけどすなあ。うちの主人がいっぺん見舞いにいったろか、いうてましたわ」
舐めつくし終えたと見える大蛇が、白蛇の腰紐を引っ張る。娘は半ば引きずられるように、男とともに奥のほうへと消えた。
「終わりでっか」
「もうちっと、待ちなはれ」
しばらくすると、釜庄の勝手口が開いて、当主が書生らしき若者を連れて出て来た。通りがかりの婦人連れに、愛想のよい挨拶をしている様子が窺える。
「賢そうなボンやけど、雇い人でっか、別の養子でっか」
「あれはさっきの娘どす。虫がついたらいかんさかい、外へ出る時は男装させたはるんどすわ。きっちりしたはるこっちゃ。若旦さん、娘にけったいな気ぃ起こしても、あきまへんえ」」
「御寮人はん……」
心を見透かされたような気持ちになって、辰吉は赤面した。
人は見かけ、じゃなくて文章によらぬもの? ― 2007/03/28 19:47:15
※注 紹介順は男性のみ年功序列。
【【儚い預言者さま】】寛仁大度
最も待ち合わせ場所に近いところに住む身でありながら、いちばん最後に到着した私に、mukamuka72002さんがぱぱぱっと手早くこちら○○さんですこちら○○さんで○○さんで……と紹介してくださった。が、えっえっえっっ?と状況および人物を把握しないうちに店内へ。座席をあみだくじで決めましょうという鹿王院知子さんの提案。ある紳士が「僕はここ」とおっしゃった位置に鹿王院さんが「な」と書き込まれたので、その紳士を儚い預言者さまだとはっきり確認できた。できたが確信できなかった。もしかしてドッキリかもしれないし(んなわけねーって)。
だって、到着してからmukamuka72002さんが私を振り向くまでのほんの0.05秒くらいの間、私は「あれ?こないだあった町内会の会合の続きだったっけ?」と思ったほど、儚い預言者さまは我が町の前年度町内会長さんと雰囲気が同じだったのである。前年度町内会長にそっくりな紳士がこの場におられても不思議はないのだけれど、前年度町内会長にそっくりな紳士=儚い預言者さま、という事実はにわかに受け容れがたい事実であった。ひそかに「ひらがなの紡ぎ手、ことばの組み紐職人」とお呼びしお慕いしている儚い預言者さまである。実は我が町には組み紐職一家が住んでいて、ご当主は(中身はそんなことないんだけど)髪と髭の短い仙人、という風貌で、勝手ながら私は、儚い預言者さまのイメージをどちらかというとその組み紐仙人に重ねていたんだけれど、違ったのだった。組み紐家の向かいに住む前年度町内会長だった。
儚い預言者さまの席は、私の真向かいだった。食事と酒が進むにつれて座が和み、各々の舌が滑らかになってくる。儚い預言者さまは、誰の言葉にも耳を傾け相槌を打ち、寒い冗談も豪快に笑い飛ばす寛容を見せてくださったうえ、息子さんのスポーツマンぶりをいとおしくてたまらないといった様子で語られる「人間らしさ」もご披露くださった。
儚い預言者さま、あなたの創作への思いをもっともっと聞きたいです。口説き文句は次回にとっておいてくださいね。
【【コマンタさん】】円転滑脱
mukamuka72002さんが到着した私に「こちらがマロさんです」とおっしゃったほうを向き、ああ、このかたがつねづね私の文章に鋭い指摘をくださるマロさんねと思うと同時に、娘の通う小学校の(フェミニンでソフトな風貌ゆえにイケズな女性校長からイジメられていると評判の)PTA会長さんとビジュアルイメージが重なったこともあって、思わず「いつもお世話になっております」とお辞儀をしたらそのかたは、「いえ、僕はコマンタです」とおっしゃった。そしてやはりドッキリではなく(あたりめーだろ)本当にそのかたはコマンタさんだった。
文章塾やブログを通しての、コマンタさんの発言にはいつもいつも励まされている。ご本人はどの程度意識されているかはわからないけど、コマンタさんのひと言というのは、核心を突くこともあるし、外から薄皮を一枚めくるだけでありながらそこはいちばんめくられたくないところだったりもするのだが、目から鱗の思いをさせられたり、がーんと脳天に響く一撃だったり、心の深奥に直接届く花束だったりと、もはや私はコマンタさんという刺激なしでは生きていけない。
コマンタさんのことを「文節のソロヴァイオリニスト」と呼んだら異を唱える向きはおられるだろうか。あるいは『セロ弾きのゴーシュ』になぞらえて「文節のソロチェリスト」? 私は、彼の文章からいつも弦楽器の音を感じる。しかも重奏ではなく独奏の。
刺激をくださるお礼と文章への憧憬の気持ちを伝えたかったのに、私はどきどきしたまま、ベタな発言に終始して、何もいえなかった。
ところで、PTA会長さんは端的にいって「やさ男」に過ぎないのだが(会長、ゴメン!)、コマンタさんはやさ男などではない。知的な眼差しの奥に底知れぬ優しさが潜んでいるのはいうまでもないけれど、とても行動派で頼もしい。仕事においてもその処理能力の優れてらっしゃることは容易に察しがつく。正直、喉から出掛かっていたのである。「コマンタさん、私あなたにどこまでもついていきます」
コマンタさん、もしもう一度会えたら、たくさん本の話をしたいです。でも哲学の話は、パスね。
【【mukamuka72002さん】】当意即妙
誰も、ご本人も何もいわないのに、このかたがmukamuka72002さんだということは即わかった。名前を忘れたが高校のときのクラスメート二人の顔がすぐに思い浮かび、彼らを足して2で割ったような感じだなと、そして不思議なことにそう思うとmukamuka72002さんとの会話がとても懐かしさを帯びてくる。じっさい、mukamuka72002さんと私は同年生まれ。初対面なのに、同窓会のような雰囲気を味わった。考えてみれば、初対面だけど知らない仲じゃないのだ、この日お目にかかった男性陣とは。しかし、ほかのかたの印象がその文章とのギャップを多少楽しめたのに対し、mukamuka72002さんはそのまんまだった。私はこっそりと、「時代を間違えたクラーク・ケント」風を期待していたのだが、mukamuka72002さんは変身して空を飛んだりはしなかった。今まで彼が書いたものすべてかき集めてこねて粘土にして人形つくって命吹き込んだらこんなんできた、という形容は決して間違っていないと思う。投稿文もコメントも、彼の語り口は絶妙で的を得ていて、余計な遠慮や装飾がないのに機知に富んでいる。そしてオフ会での彼は、彼の書くものそのまんまなのだった。
mukamuka72002さん、今度会ったら結婚しようねー、てゆーか、こないだの結婚式に便乗して鐘鳴らしちゃえばよかったねー。あのカップルより私たちのほうが見栄えするよねー(と無関係な人までこき下ろす)。
【【マロさん】】温厚篤実
背の高いマロさんは、即座に私の視界には入らなくて、案内された個室に入ってジャケットをハンガーにかけたりしているとき、ようやく私は彼を見て思った。「あ、クボ君がいる」。
クボ君は大学のときの同級生で、男前で寡黙、手先が器用でいいものを造る学生だった。その時代の彼がそのままタイムスリップしてここを訪れてくれたような、マロさんはそういう若々しさにあふれた、なおかつ真面目で勤勉そうな印象の好青年という言葉は彼のためにあるような男性だった。クボ君はいい加減で頼りなかったが、一児のパパでもあるマロさんは、お父さんの頼もしさにあふれておられた。
マロさんが書かれるものはいつも痛快だ。それは決して付焼刃ではない、周到になされた取材の跡、広い視野と見聞によって積まれてきた知識の層が透けて見えるもので、毎度毎度舌を巻く。正直なところ、自分と同じか少し年長と想像していたのでその若さにちょっぴりびっくり。けれども、私などよりもずっとずっとその文章修業は長く深いはず。そういう、文章に向かう心構え、そんなことをマロさんは声高にはおっしゃらなかったが、文章についての自信、確信、信念をしっかりもっていらっしゃる。
こういうふうにいうと、お堅い人物を想起させるが、マロさんはとてもユーモリスト。mukamuka機関銃にぽつっとボケたりツッこんだりと、かなり縦横無尽。私は「ストーリーテラー・坂上田村マロ」とこっそりあだ名し、このさい坂上田村麻呂はまったく関係ないのだけど、その巧みな物語さばきとペンネームから、おっとりした公家イメージの入ったインテリ風を予想していたのだ。マロさんという名の由来は本名の一字を英訳して「マロン」、そこから「マロ」だそうだ。キャー♪なんて可愛いんでしょう、マロンちゃーん。ほおずりしたくなる自分を抑えるのはかなり大変だったのである。
マロさん、この次は仕事の愚痴もこぼしあえる仲になりたいものですわ。でもお手柔らかに。
【【鹿王院知子さん】】純情可憐
最後になったが、オフ会紅一点のろくこさん。いや、私も女性だけどかなりボーイズ入ってますから……。鹿王院知子さんはお着物だったけれど、堅苦しさや過剰な華美さがなくて、しっとりと、それでいておきゃんで、優しくて気配りができてと、がさつで粗雑な私とは対極の、可憐な立ち居振る舞いとおしゃべりで、座を和ませてくださった。抜群の書き手ながら、世のインテリさんが持ちがちな棘がないばかりか、花嫁修業中のお嬢さんといっても通るくらい可愛らしいのである。才能とは、こういう形で人に潜むものかもしれないな、と、正直彼女にはジェラシーを覚えるのである。今回の前に、彼女には一度お会いしている。二人でランチにカレーを食べたのだ。そのとき、現在携わっている仕事の辛い点を話されていた。そんなものやめてしまって執筆に専念すれば、と思わなくもないけれど、たぶんそうした、仕事を通じての理不尽な思いが、創作への起爆剤になっている。もっと大きな爆発を呼ぶためにも、もっともっと仕事で苦労しなくちゃならないかもよ。
鹿王院知子さん、創作という点では私はまだまだですから、お教えを乞いにまた参上しますから付き合ってね。
※冒頭につけた四字熟語は印象です。不本意に思われたかたも、ご容赦ください。