君は僕より年上と♪ ― 2007/06/14 06:09:50
エドワード・アーディゾーニ作 あべきみこ訳
こぐま社(2001年)
「ダイアナ」は、ケンジさんの十八番だった。バイトが終わってから行きつけのカラオケバーで一杯飲ってくのが私たちの常だったが、マスターはケンジさんの顔を見ると「ダイアナ?」と訊いた。ケンジさんはウインクで肯定する。
「君ぃは僕より年上ぇとまわりのひとはいうけれどぉ♪」
ケンジさんの歌はなかなか達者だった。ほかにもレパートリーは数え切れないくらいあって、何でも歌えた。歌い慣れていた。その頃まだカラオケボックスなんていう無粋なものはこの世になく、客はマスターやママに100円玉を渡してリクエストし、歌詞カードに目を落として歌った。でもケンジさんは歌詞カードをまるで見なかった。この世の歌という歌の文句はすべて頭に入っているようだった。
たくさんのバイト仲間と飲みにいき、飽きもせず同じ店で歌ったが、ほかの誰が何を歌ったかまったく覚えていないのに、ケンジさんの「ダイアナ」だけは極端に鮮やかに音声映像両方で心に残っている。私は「ダイアナ」という歌をそれまで知らなかったし、今日に至るまで、ケンジさん以外の人が歌うのは聞いたことがない。
不幸にも若くして亡くなったダイアナ妃という女性がいたが、その「ダイアナ」は私にとっては二つめのダイアナという名前だった。ダイアナというのは少々古めかしい名前なのかな? 生身のダイアナにはなかなか会えない。
次に出会ったダイアナは、バレエ作品『エスメラルダ』にある『ダイアナとアクティオン』という場面に出てくる登場人物名だ。「ダイアナ」役と「アクティオン」役(こちらは男性)が踊るパ・ドゥ・ドゥらしい(実は見たことがない)が、「ダイアナ」のほうは振りが美しくて個性的なので、バレエ教室の発表会などでは人気のナンバーである。
ウチの娘がまだバレエを始めて間もない頃、教室の上級生のお姉さんがこの曲をとても上手に踊ったので、娘にとっては「ダイアナ」といえば「いつか踊りたいあの曲」になった。
そして『ダイアナと大きなサイ』。動物園から抜け出て迷子になり、人家に侵入してしまった大きなサイを、その家の利口な少女ダイアナは、追跡隊を退けて自分で世話をすると宣言する。サイが何やら鳴き声をたてたとき、ダイアナの耳には「トースト」と聞こえ、暖炉の火であぶったバタートーストをせっせと食べさせる。
赤ん坊だったダイアナの弟は結婚し、ダイアナの両親はリタイア生活に入り、ダイアナ自身も中年婦人となるけれど、相変わらず家とサイを守っている。サイは近所の子どもたちのアイドルで、ときどき散歩で庭から出るふたりを、町の人は温かく見守る。
ダイアナもサイもやがて年をとり、ダイアナの髪もサイの身体も白くなる。それでもふたりは寄り添いながら、とぼとぼと、散歩をする。
なぜ、サイなんだろう。
神話や伝説で、サイの登場する話があるのだろうか。
サイは英国で何かの象徴なんだろうか。
しなサイ、くだサイ、ごめんなサイ、日本ならそんな洒落にもならないダジャレのネタにしかなりそうにないのに。
サイの前足くらいの大きさだったダイアナは、やがてサイの肩に優しく手を置ける背丈になり、狭い舗道をサイを導きつつ、自身も杖をついて、歩く。
年下の夫に寄り添う姉さん女房。人生の黄昏を穏やかに過ごす夫婦みたいだ。
アーディゾーニの絵を見ながら、「君は僕より年上と♪」と、このサイも歌ったりして、なんて考えが頭をよぎり、にわかにサイの姿になったケンジさんが瞼の裏に現れた。