弁当屋 ― 2007/07/02 06:00:55
このあたりを営業で回るようになってまだひと月程度だ。初めてのアポ先で打ち合わせを終えて帰るとき、ビルに入る前には何もなかった舗道に弁当屋の花が咲いているのにびっくりした。受付のきれいなお姉さんが「お弁当買うなら黄色いパラソルのとこがお勧めですよ」といったので、俺はその足で黄色いパラソルの店へ行った。
「らっしゃい」
パラソルの下では、この世にこんな無愛想な顔があるだろうかと思うほどの仏頂面と、たった一個残っていた弁当が待っていた。
たった一個。まだ12時前なのに、売り切れ寸前か。俺はその一個を買って、10分ほど歩いたところにある公園のベンチで食べた。
うまい。
すっげえ、うまい。
そりゃ、売れるわけだよ。お姉さんが勧めてくれるわけだよ。
俺は嬉しくなって、うんうんと独り言をいいながら、ついでに「よく噛みなさいよ」というおふくろの口癖まで思い出しながら、味わって、食べた。
翌日も、同じ界隈で顧客訪問が一本あった。用件を終え、俺は黄色いパラソルを迷わず目指した。
「らっしゃい」
昨日と同じ仏頂面。
「ひとつ、ください」
「はい、500円ね」
俺は財布を開けて思わずしまったと声をあげた。金が入ってない。
「すみません、すぐ向こうの銀行で金出して来るんで」
「いいっすよ、またこんどで。はい、どうぞ」
仏頂面はその表情をぴくりとも変えずに袋に入れた弁当を差し出した。悪いなと俺は思いながら、このあたりの顧客訪問スケジュールを頭の隅っこにはじき出した。
「明日かあさって、たぶん来ますんで」
弁当屋には次々客が来ていて、仏頂面は俺の相手どころでは、もうなかった。
しかし、翌日、黄色いパラソルはいなかった。その次の日も、またその次も。どうしたんだろう。
500円借りがあるのに。いや、あの弁当を、食いたいのに。
黄色いパラソルの姿が消えて、ひと月半が過ぎた。仕事をしていても張り合いのない日々が続いていた。
ある日、得意先への納品と商品の設置を終えて、思いのほか疲れてビルから出た俺の目に、とうとうあの黄色が飛び込んできた。
「あ、あ、あ、あああった!」
俺は心ならずも大声を出していた。まるではぐれた母ちゃんを見つけた幼子みたいに、飛びつかんばかりにパラソルに駆け寄った。
「らっしゃい」
「お、お、おひさしぶりです!」
「足、骨折しちまいましてね」
「そうだったんすか。ひとつください」
俺を千円札を差し出し、お釣、要らないっすよ、といった。
「前に、払ってなかったんで」
仏頂面は、ほんの一瞬考えたが、ああ、と俺の顔をまじまじ見ながらうなずいた。千円札を受け取りながらその表情は、崩れるジェンガのように、ほころんだ。