【負け犬譚(1)】成し遂げるって、こういうことさ2007/08/24 18:24:01

Abolition
par Robert Badinter
Editions Librairie Artheme Fayard, 2000

(邦訳:『そして死刑は廃止された』
 ロベール・バダンテール著、藤田真利子訳
 作品社、2002年)


オンライン書店で本を探す。面白いもん、ないかな。

あまり本の渉猟は上手くないと思っているが、友人たちは「原書探しの鼻が利く」と私を評してくれる。たしかに、出版社(の一担当者)が興味を示しそうな本は探すのだが、出版社というところは社内に障壁がいくつもあるので、いくつめかの障壁で私の翻訳企画は挫折するようだ。仮にすべての障壁を越えるのに成功したとしても、そのあとの原書出版社との交渉は「代理店」の手に委ねられる。そこではいろいろな物事がけっこう機械的に処理され進められる。
・膨大な書籍の中から「この本」を探し出し、「この本」を訳したい、と思った私の「この本」への熱意。
・私の熱意に共感し、ぜひ自分の手で「この本」の日本での出版にこぎつけたいと思った編集者の熱意。
こうした熱意の集合体は、日本の出版社から代理店経由で行われる翻訳権取得交渉というアクションの過程できわめて事務的な文面のやり取りに変身する。ウイかノンの二者択一を問うやり取り。やがて返事がくる。ノン。

どんな世界だってそうだ。わかってるさ。
私だけが、「ノン」ばかり突きつけられているわけじゃないさ。
わかってるさ。

「原書探しの鼻が利く」といわれて幾年月。門前払いを食らったり、ひとつしか山を越えられなかったり、代理店に投げ出されたりで、まだ一冊も訳書が出せないでいる。つまり、あたしが面白いと思っても、世の中は面白くねーよって思ってんだろーっ……ってやけっぱちになってみたくもなるんだが、お人好しのあたしはマジでやけっぱちになることなく、相変わらず、面白いもん、ないかなと書店サイトをスクロールし続ける。

企画提案した本の数、数知れず。【負け犬譚】と名づけて紹介するのは、素晴しい邦訳書となって世に出ている本たちである。タッチの差で(というのは嘘だけど)私の手には翻訳業務が落ちてこなかった本たちだ。悔しいーーーーーーーーーーい。いわば負け犬の遠吠えシリーズ。

というわけで、やっと本題に入る。

『Abolition』の書誌情報を読んで、著者のプロフィールも調べて、私はこりゃあ面白いぞと速攻で注文ボタンをクリックした。abolitionとは「廃止」の意味だが、ここでは死刑の廃止を意味する。バダンテールには『死刑執行』(藤田真利子訳、新潮社1996年)という前著があるので、彼がabolitionというとき、それは他でもない死刑制度の「廃止」なのだ。
ロベール・バダンテールは弁護士であり、ミッテラン政権では法務大臣を務めた。

70年代の初め、著者はある凶悪犯の弁護に立ったが、裁判所は被告二人に対し死刑判決を出した(二人のうち一人は殺人実行犯ではなかった)。大統領の恩赦もなく、二人の処刑が実行される。著者はその場に立会い、ギロチンが二人の首を落とすのを目撃した。
前著はこの裁判について、事件の勃発から判決までを詳述したもので、本書のほうは、この二人の処刑後から、ついにフランスが死刑を廃止するまでの長い闘いの道のりを書いたものである。

先述の処刑された二人のうち、実行犯でない若いほうは、主犯格の男の行動に巻き込まれただけだったようである。しかし陪審は二人を同罪とし、裁判長はそれを支持した。そして彼らは処刑された。共犯は20代半ばだった。その命を救えなかった。この思いが、これ以降のバダンテールの弁護士活動を支え、ひとつひとつの訴訟を闘うほかに、立ちはだかりびくともしない壁との闘いに挑ませるることになる。「死刑廃止実現への闘い」である。

フランスでは死刑囚の処刑は大統領の手に委ねられている。つまり、大統領には恩赦権があるが、「恩赦します?」と問われた大統領が「ウイ」の署名をすればその死刑囚は処刑を免れ無期刑となる。はっきりいって大統領の気分次第だ。フランスの大統領たちは、けっして「処刑だーい好き」なわけはなかったが(大好きだったかもしれないが)、「犯罪の抑止として」「国民感情に照らして」死刑存置を支持していた。だから大統領たちは自分の支持率を下げないためにも、「ときたまなら恩赦してもいいけどやっぱ凶悪犯はギロチン送りにしなくっちゃ」という考え方だった。死刑を廃止するためには、大統領になる人間が、他者の顔色を窺って死刑の存置・廃止を検討するのではなく、心の底から、信念に基づいて死刑を廃止するという人物でなくてはならない。バダンテールにとってその人物はフランソワ・ミッテランだった。

そのミッテランが大統領選に立ち、その演説で「良心から死刑制度に反対する」と述べた。そして国民はミッテランを選んだ(フランスの大統領選は国民投票)。弁護士活動のかたわらミッテランの選挙運動に奔走していたバダンテールはミッテラン内閣で法務大臣に就き、死刑廃止法案を提出。そして、1981年9月30日、死刑は廃止された。

ヴィクトール・ユーゴが「死刑は蛮行である」と論じた時代からずっとフランスはこの問題を先送りしてきた。本書が執筆された時点で、フランスは西ヨーロッパ最後の死刑存置国になっていた。欧州各国から非難の声を浴びても浴びても、ギロチンはその刃で罪人の首を落とし続けていたのだ。

***

難解な箇所はさておき、私はこの壮大な物語に感動した。
バダンテールは、もちろんたった一人でというわけではないけれども、死刑廃止という難業を成し遂げたのだ。死刑確実と見られた殺人犯たちを無期懲役にとどめながら、フランソワ・ミッテランの支援に尽力し、自ら法案を作成して。フランスが何世紀も先送りしてきたこの問題に終止符を打ったのだ。

かっこええ。
信念で法律を変えた。歴史を変えたのだ。かっこええ、文句なしに。

ロベール・バダンテールに心酔し、「あたしが訳さずに誰が訳すんだ」の心意気で、私は本書を手に、アムネスティ・インターナショナルに関わっていたある友人に相談した。どう思う? うん、面白いよ、さわりだけでも試訳してみて、持ち掛けてみるよ。
私は第一章を訳出し、企画書に仕立てて彼女に託した。だが、彼女がアムネスティから得た返答は「あ、その本ね、もう藤田さんに決まっているそうよ」だったそうだ。

主題を同じくする前著があるなら普通はその訳者に引き続き話が行く。常識だ。とくに、こういったある種の専門性を求められる仕事の場合は。他の誰かならともかく、藤田真利子さんに決まっているなら勝ち目はない。
こうして私は闘わずして負けたのだった(号泣)。

二年後に刊行された邦訳書『そして死刑は廃止された』、私は悔しくて手に取ることができなかった。
何年かのちのある日図書館で目に留まり、ようやく読んだ。やはり面白かった。訳者の腕が冴えているからなおさらだが、バダンテールの揺るぎない信念が貫かれ、壮快である。
それに、読み違いは、していなかった。私は自分の仏語読解力にとりあえずほっとした。
そして、かっこ悪いけど、かつて試訳した第一章のテキストを出力して訳書を比較してみた。
ぐぐ。さすがに本のほうがキレがいい(当たり前!)。
しかし。
自分の訳文だって悪くないぞ。イイ線いってるぞ。むうう、よっしゃあ(とガッツポーズ)。
……て、マジかっこ悪いぞ。そのガッツポーズ以降進歩していないという事実にも、自己嫌悪。

でも……この邦訳書、装訂はバツ。赤い薔薇には意味がある、それは事実だが、こういう使い方は少々下品に感じるんじゃないかな、日本人は。