ウチダに首ったけ!2007/08/31 12:24:28

内田樹が第6回小林秀雄賞を受賞した。
やばい。
これで内田さんが有名人になってしまう。あの茂木さんのように。
やだ。それはぜったいにやだ。
私だけのウチダだったのに……!

ウチダとの出会いは、いつだったかもう忘れた。
どこかで新聞への寄稿を読んだ。
ほどなくして、我が家で購読している2紙にも寄稿を始めたことがわかった。
まっとうなことを切れ味よくわかりやすく書いていた。
奇特な意見の持ち主ではなく、誰もが同意しそうなことを、しかしウチダでなければ思いつかないような例の挙げ方で、解説していく。
ひと目惚れではなかったけれど、ウチダの文章がわが心を侵食していくのにさほど時間はかからなかった。私が範としたいのはこういう文章なのだ、とウチダに触れて初めて気がついたかもしれない。
多くの人の文章を読み、感動し、お手本にもしていたけれど、所詮書く人間が違うのだから書かれる文章が異質なものになるのは当たり前、もとより文章は「真似る」ものではないし……と真面目な考えでいた。が、ウチダに出会ってからの私は次第に彼に同化してしまいたい、いっそウチダになりたい、と考え始めていた。
もとより内田さんとは知の蓄積の質量が異なるので逆立ちしたって私はウチダになれない。わかっているけれど。

ウチダに惚れてからあまり時を置かずに、彼の顔写真を見る機会があった。これも新聞か雑誌の紙上で。
うわ、おとこまえ……。

お察しのとおり、これで本格的に私はウチダに恋をしてしまった。
あとからいろいろ見聞して、私がたまたま見たその写真はかなり写りのいいものだったと判明する(内田さん、すみません、笑)が、彼が「ええおとこ」であるという私の確信は天変地異が連日ほぼ恒久的に訪れようとも揺るがないものになっていたのである。

ウチダのブログは時に抱腹絶倒、時に感涙、時に怒りを読者にもたらす。たしかに勢いに任せて書き殴っている感は否めない。だからこそ、更新時点でのウチダの脳内が透けて見えるようで、私は大好きである。アクセス数の桁がすごいんだけど、たぶん私はかなりそのカウントに貢献している。更新されてなくても毎日読むし、一日に何回も読む。読んでうっとりしている。

ウチダの著作は、図書館では常に「予約が満杯」でなかなか手にすることができない。『下流志向』なんか200人待ちになっていた。それでも201人目として予約を入れたが、読めるのはいつのことやら。
少ないものでも10人以上の予約待ちを経て、ほとんどを読み終えたけれども、なかでも私がいちばん好きだったのが『私家版ユダヤ文化論』であった。最終章のほうでは涙が出てくるのだ、ほんとうに。
今回の受賞対象になった著作である。
よかった、『下流志向』や『東京キッズリターンズ』とかじゃなくて。

『私家版ユダヤ文化論』については、日を改めてきちんとエントリしようと思っている。
今、私の手元には『知に働けば蔵が建つ』(文藝春秋、2005年)がある。
ブログに書きためたものを編集し加筆したものだが、どの章も面白い。でも著者自身が言及しているように、日頃ブログを愛読しているとあまり新鮮味は感じられないのも事実だ(笑)。
私のようにどっぷりと入れ込んでいると、それでも幸せなんだが。ああ、恋は盲目。

今日の新聞に、小学校の授業時間数を増やすことが決定したと書かれてあった。同じ記事中に、高学年で週に一度オーラル中心の英語の授業も始めるとあった。
でも、そんなのやってもしかたない。
それはわが娘が実証している。
娘の小学校では先駆的に低学年から「英語で遊ぼう」という授業を実施しており、外国人講師を招いて歌やゲームをして遊ぶ時間を設けている。
講師陣の国籍や民族出自はさまざまで、語学習得云々より、世界にはいろいろな人がいるということを肌で感じるのはいいことだと思う。しかし。
で、英語のほうだが、6年生になった娘は、今でもたぶん「私は日本人です」「私の名前は○○です」「あなたの好きな果物はなんですか」(以上、5年生までに習ったとされているセンテンスの一部)を、自発的に英語で述べることはけっしてできない。「りんご」を英語で綴ることもできない。
ほらみろ、である。低学年でよその国の人と触れ合ったら、次はよその国の文学に触れよう、というほうへ行くならまだしも、高学年になっても相変わらずずっと「遊んで」いるのである。

『知に働けば蔵が建つ』には、内田さんがつねづね述べている「外国語教育の基本はまず『読むこと』である」ことを取り上げた章もある。
国際化、というが、私たちはそんなに「外国人」と実際に会って話す機会があるだろうか? インターネットの普及で、私たちはタイムズ誌やルモンド紙のサイトにいける。各国のブロガーたちの日記にも行ける。しかし、日常的に海外諸紙の論考を読んだり、ブログにコメントを残したりしている人がどれほどいるだろうか。そんなにはいないと思う。なぜか。
《外国語が「読めない」からである。もったいない話である。》(275ページ)
数年前から中学高校における英語教育もオーラル中心になっているそうだ。その結果、決まり文句を少々よい発音で発声できる人は増えたが、英文を読み書きできる若者は少なくなった。ましてや英米文学を読もうと大学で専攻する学生は希少種になった。
身についた「ちょっとばかしいい発音」で世界を渡り歩いていけるかといえば、ノンである。

……と、もうこの話はやめるが、何がいいたかったかというと、私とウチダの思考は相似形である。そのことを私はひそかに愉しみ、こっそりとウチダへの愛を胸のうちで育んでいたのであるが、彼がこんな賞を獲ってしまったら、彼も茂木さんみたいにメディアに引っ張りだこになってしまうのではないか。

ここに宣言しておくが(なんて狭小範囲な宣言だろうか)、ウチダは私のものだ。誰にも渡さない。ちょっと、そこの女子学生! 近づきすぎだよっ
……笑うやつは笑えっ。(泣)

内田樹さんに愛を込めて。