わからないフォーエヴァー♪(2)2007/12/05 16:40:47

あっちで紅葉し、こっちで実をつける我が家のイチゴ。わからない♪


『「わからない」という方法』 (橋本治著)の続き。

わからないまま終わる、と書いたが、途中で「そうか、なるほど」的なくだりは多々ある。この本の冷たいところは、せっかく「なるほど」と思わせてくれたのに、その読者をほったらかして次の話題にとっとと行ってしまうことである。そうしたいくつもの「なるほど」は、その何倍も繰り返される「え?何?」「それで」「だから?」「ふんふん」「へ?」というような反応の中にまぎれてしまうので、けっきょく読後感は「わからないまま終わった」のようになっちゃうのだが、用心して読めば(どんな読み方だ)この本は腑に落ちることだらけ、おいしい話満載なのである。この本が有効だと思われる方々の例を先のエントリで挙げたら、はーい全部にあてはまるよーとコメントをくださった方がおられたが、一人で全部にあてはまる人も、一つしかあてはまらない人も、みんな合わせれば、たぶん日本人ほぼ全員だと思われる。

腑に落ちることすべてを書いていくと、本を丸写ししなくちゃならないから、少しだけ。

「母親の呪縛から逃れたい女性へ」と書いたけど。
私の母親の世代はだいたい現在70代であるが、これより上のお母さんたちって、のちに世間が「良妻賢母」を推奨する時代よりも先を生きているはずなんだが、どうだろうか。そのあたりの社会史風俗史的知識がないんだけど、この世代の母親たちは、明治大正生まれの立派な日本の母をモデルにしていればよくて、その生き方をなぞろうとしたと思う。でもそれより少しあとの世代の女性が母親になろうとしたとき、時代はどこかよその国から輸入したか、あるいはエライ人たちが声高に叫んだかの「良妻賢母」像をまつりあげていて、その女性たちはその像を追った。
橋本治にはお姉さんがいる。母親は自分(橋本)に編み物を教えるときは丁寧で優しい(でもわかりにくい)し、自分がテキトーなものを編んでもほうっておいたが、姉には完璧にマスターするまできっちりと教えようとした。なぜこんなことができないの、あなたは女のくせに、というようなノリで。それを嫌った姉は母親にはもう訊かず、編み物の通信教育を受けてマスターしたという。
母親が姉に、当時の女性のたしなみとしては当たり前の編み物を伝授するとき、そこには母親自身の「私の生き方」をも押しつけることになる。姉の世代は、女性としてそれがたまらなかった世代になるのだろう。あんたのやり方はもうけっこうよ、私はあんたみたいにはなりたくないのよ、私は私が納得する方法で編み物を習得してちゃんとした女になるわよっ……という感じだろうか。
世代が下がって、現在70代以上のお母さんたちの娘たちの代、つまり私たちになると、世間に流布する「良妻賢母」像にすら反発する。自分の母親はもとより、そこいらにいる良き母良き妻なんてまっぴら。私は私だけにしかできない生き方をするわっ……といって、猫も杓子も働き出したのが「私たち」だった。
その結果、どうなったか。

私たちは(というか、少なくとも私は)けっきょく母親の呪縛から逃れることはできていない。私は母親の生きかたをつぶさに見てきて、その苦労も見ているが、「生き下手」さも見てきた。あるいは怠慢も逃避も見てきた。総合的に見てとても彼女の生きかたを踏襲する気にはなれない。見習えない。こうはなりたくないと思うばかりである。しかしそれでも、ただ自分よりも二十数年よけいに生きているということだけで、かなわないと思う。彼女の持っているある種のものについては、彼女が生きた時間を生きた人間でなければ会得しようのないものであるからだ。それは言葉遣いや立ち居振る舞いのような生得的なことから、料理をはじめとする家事や近所(社会)とのかかわり方、距離のとり方など、さまざまな、彼女が方法として会得しているものどもである。
私の母は口癖のように「私のようになってはいけない」と私に言うし、それは至極もっともなのだが、それでも私は、いくつかについては中途半端であっても母から引き継がなければいけないと、そしてそれを母も望んでいるのだという考えにとらわれ続けている。これを呪縛と呼ばずしてなんという。
いきいきと活躍する女性が増える一方で、そうでなく閉塞感に苛まれる人も少なくないと思われるが、誰もに母がいる。たぶん、日本の女性のなかで、母親とのかかわりにまったく悩まなかった女性は皆無だろう。呪縛という言葉は大げさだしよくないかもしれないが、女性にとって母親に自分を照らしてみるということは、知らずに頻繁にやっている癖だったり、歯磨きのような日課であったりするわけで、見方によっては呪縛なのである。

橋本治は何年か前にセーターの編み方の本を書いていて、本書でそのなりたちについて述べている。その過程で母親と姉の話が出てきたのである。私自身は、この「姉」が「通信教育で編み物を習得した」ことに、非常に共感したのであった。あ、私みたいな人、発見~という感じ。

橋本はこの編み物の話に関連して(というか、全編にわたって各トピック、互いが互いに関連しているのだが)、教育の崩壊に触れている。
《「学ぶ」とは、教える側の持つ「生き方」の強制なのである。「その生き方がいやだ」と思われてしまったら、その教育は崩壊する。》(130ページ)
先の話に当てはめれば、娘に「その生きかた、嫌」と思われてしまったら、母親による躾は成立しなくなる、というようなことである。ま、それだけで事は終わらないから母と娘は複雑なのだが。
それはさておき、我が最愛のウチダが口を酸っぱくして(実際に発声されているのを聞いたことはないのだけれど)繰り返し述べていることに「初等教育の教師たちに大切なことは元気でいることである、楽しく仕事をすることである」というのがある。
子どもの頃、不機嫌だったり、すぐ怒ったりする先生は嫌いだった。子どものうちはティーチングテクニックなんてわからない。いつも元気でニコニコしてて、はきはき話をしてくれて笑わせてくれる先生が好きなのである。先生を好きになるとその教科は好きになる。学ぼう、わかりたいという意欲が湧く。
高校生になると話は変わる。ニコニコ元気な先生に「へらへらしてんじゃねーよ」なんて逆らいたくなるからだ。たぶん、中学2年生後半あたりからこういうムズカシイ年頃へと突入する。もっと早い子もたぶんいる。ま、とりあえず、大多数の子どもたちは、まだ小学生のうち、そして中1くらいまでは、ゴキゲン満開の先生には好感を持つ。
しかしおそらく、先生方はゴキゲン満開でなんて、いられないのであろう。制度をいじくりまわす文部科学省、そこに媚びへつらうことしかできない教育委員会、実績を上げたい校長という「ろくでもない上司三段構え」の重圧のしたで、授業以外に消化すべき事務雑務課外業務てんこもり、いつもニコニコなんて無理というもんだ。
でも、そんな教師の「ユ・ウ・ウ・ツ」は確実に子どもたちに伝播するのである。子どもがじっとしていない「小1プロブレム」は親の躾の怠慢のせいかもしれないが、学年が上がっても落ち着かなかったり、学習が進みにくかったりするのは、教師のムードメイキング力に因することが多いはずだ。「教える技術・能力」ではない。教室が楽しい、学校が好きだと子どもが自然に思ってくれるように仕向けるムードメーカーとしての力。
それは別に、これこれの努力や修業を積み重ねて習得する力ではない。ただ、いつも心身ともに元気で楽しく仕事をしてもらえばいいのである。前にいる子どもの中には好かん奴もいるかもしれないが、とりあえず「先生は、みんなが大好きだ!」と嘘でもいいから声に出していってもらえばいいのである。先生がまず学校を好きになればいいのである。

このように、とかく現代人はろくでもない上司を持つものである。
《この日本に、「優秀な上司」というものはごく稀にしか存在しない。》(40ページ)
《企画書とは、上司に「わかった」といわせるためのものであり、次いでは、その上司がさらに上の上司に対して説明できるようなわかりやすさをもっていることが必要なものである》(42ページ)
《企画書に必要なものは、上司を驚かせる意外性と、上司を納得させる確実性である。意外性がなかったら(……)上司はその企画書を捨ててしまう。と同時に、上司というものは(……)幼児のようなものだから、驚かせた後には、「こわくない、こわくない」とあやすことも必要になる。その「こわくない、こわくない」が確実性なのである》(43ページ)
上司は自分の理解力不足を棚に上げ「俺にわかるように書け(言え)」といい、自分の説明の仕方の拙さを棚に上げ「お前はまったく頭が悪いな」というものである。理不尽である。理不尽なものは理不尽なものからしか生まれない。この日本にはびこる理不尽の代名詞のような「上司」たちも、理不尽な上司に苦しめられたあげくに生まれたのである。いったいいつからこの理不尽の連鎖は始まったのか。

橋本治は、人間の体と脳の関係を「無能な部下とエリートの上司」といっている。
《人はあまりにも多くのことを脳味噌に決めさせている。脳は、身体の各部に命令を下し、身体はその命令に従う。(中略)脳は、「この部署を率いるのは俺で、その能力があるのも俺だけで、お前らに俺のような能力はない」と。》(106ページ)
《しかし、部下は部下なりに働いているのである。「この部署を率いる」のは脳かもしれないが、(中略)「わかる」は、その部下たちが、自分の仕事を自分なりに自覚し、働き始めることである。》(107ページ)
《脳というものは、「哀れな中間管理職」である。(中略)「世間」という上司に振り回されてばかりいる。》(107ページ)
《「部下を活用できない上司は上司として失格」ということを知らないでいるのが、脳という自分の昇進ばかり考えている最悪の上司なのである。》
そして、バカな部下を持て余した上司は、こんな部下要らない、俺ひとりで十分だと思い始める。それが仮想現実(ヴァーチャルリアリティ)への逃避だと橋本はいう。仮想現実とは「わかる」「わからない」とは別次元の「知っている(つもりだ)けどできない」状態である。ひとり遊びを始めた脳を、部下である身体は《「わかっちゃいねーな」と嗤(わら)うのである。》(109ページ)

つまり、人類が脳味噌で考え始めるようになってから、理不尽の連鎖は始まったわけだな。

けっきょく、本当に賢くあるべきは「身体」なのである。
あとがきに代えて橋本は「知性する身体」と題した一章を起こしその中でこう述べている。
《自分の頭がいいのかどうか、よくわからない。(……)その代わり、「自分の身体は頭がいい」と思っている。(……)すべての経験と記憶のストックは、私の身体にキープされているからである。(……)私に重要なものは、身体と経験と友人で、それがなければ脳味噌の出番なんかないのである。身体とは「思考の基盤」で、経験とは「たくわえられた思考のデータ」で、友人とは「思考の結果を検証するものである。》(250~251ページ)
「わからない」は身体に宿リ、それを呼び覚ますときこそ、脳の出番だ。そう橋本はいっている。部下がいなければ人は上司とは呼称されない。身体なき脳なんかホラーだ。要は身体を使え、身体の声を聴けということである。身体はあちこちから「わからない」を発しているはずなのである、生きている限り。


さて、付け足しになってしまうが。

「変なやつだなといわれる人へ」と書いたのは、著者自身「変なやつ」とよく言われる経験を下に、「へん」とはどういうことかを論じているくだりがあるので、あまりに「変なやつ」といわれて気に病んでいる人には慰めになるかもしれないと思ったのであった。逆に「自分のことを変だと思う」人たちにも有効だ。あなたはあなたが思うほど変じゃない。普通なのだ。

また、「古典とか歴史とか嫌いやねん」という人には、橋本が自身の著作『桃尻語訳枕草子』に触れて間接的に古典の面白さを紹介しているところが有効だ。彼によれば、『枕草子』は、思いっきり「話し言葉」で書かれているので、高尚な敷居の高いものと思わなくてもいいという話である。
私は彼の『桃尻娘』も読んでいないし清少納言の『枕草子』も冒頭しか知らないので何も言えた義理ではないが、古典は興味をもって読み進むと面白い。若い人たちが古文漢文に触れる機会が増えるならきっかけは何でもいい。古文漢文は自分の日本語を耕すのにとても役立つのである。(英語という苗を植えるのはその後なんだよっ)

さてさて。
本書の半ばあたりで、橋本治は志賀直哉の『城之崎にて』を例に挙げ、この徹底した「写生文」こそ作家の基礎たるものだといっている。『城之崎にて』は退屈だという印象を読み手に与えるが、こうした写生文を書けない者に作家の道はないと断言している。目の前の対象を文章で説明もできないのに心象風景が描けるかよ、という話である。
作家志望の皆さん、頑張りたまえ。


※書籍からの引用中、途中を省略するしるしに「(……)」と、「(中略)」の二種類用いたけど、どっちが読みやすいんだろう? とりあえずこのブログ上では?