わからないフォーエヴァー♪(3)2007/12/14 17:22:56

まぁずぅぅしさにぃまけたぁあああ♪ 私は負けませんよっ(by midi)


しつこく『「わからない」という方法』。

橋本治はイラストレーターだった。
彼が活躍していた頃、私はまだ子どもだったから、リアルタイムでそれと意識して見ていたわけではない。
彼の絵はポスター、雑誌や本の表紙、新聞広告用のイラストなどにもよく使われていた。実は大変器用な画家で、さまざまな技法を使い分けて表現している。切り絵にも長けていた。また、中原淳一ふうの少女画なんかも描いていた。彼のいろいろな絵と「橋本治」という名前が結びついたのは、少しあとである。記憶が朦朧としているけれど、ちょうど私が美大生の頃に重なって、原田治というイラストレーターが一世を風靡していた。特徴のあるキャラクターを創り、「OSAMU GOODS」などと称して商品化も盛んだった。私は「このオサムって、あのオサム?」と、橋本治と原田治を頭の中でごっちゃにしていた時期がある。私の中ではイラストレーターの二人のオサムが一人になっており、『桃尻娘』を書いた作家は別のオサムなのだった。
そして、バカな私は原田治の絵を見ながら、「オサムはもうこういう絵しか描かなくなったのかな」などと思いながら、横尾忠則がポスターデザイナーから画家に転身したように、橋本治もキャラクター商品を創るのをやめて、またどろどろコテコテした絵を描いてくれるはずだ、なんて、的外れにもほどがある期待をしていたのだ。

橋本治はイラストレーターだった……というよりも、今も私の中ではイラストレーターである。
このような「オサム」の取り違えから、私の中に作家や批評家の橋本治は存在のかけらもなかった。まったく、「作家・橋本治」はゼロだった。
いや、それは正確ではない。たぶん、私は知っていたのだ。イラストレーターのオサムが『桃尻娘』を書いたオサムその人だということを。そして、原田治と橋本治が別人だったということも何がきっかけだったかは覚えていないがいつのまにか知っていた。ただ、認めたくなかったのである、橋本治の正体を。「あ、これは、あれとは別のオサム」。書物のさまざまなところに橋本治の名を見つけるたびに、私の頭はそう思うように命じていたような気がする。

橋本治はよく引用される人である。橋本治の文章は、だからまったく知らないわけではなかった。ここ何年か読みふけってきた内田樹の本にもほんとによく出てくる。だが、引用者は、橋本を引いても彼にイラストレーターだった過去のあることには言及しない(当然だ)。私は、書物の中に彼の名を見るたび、かつていつも目につくところにあった彼の絵をおぼろげに思い浮かべながら、「あ、これは、あれとは別のオサム」と、半ば自分に言い聞かせるように、二つの「オサム」を結びつけようとはしなかった。

というわけで本書は、まったく初めて手にした橋本治の著書だった。
おくづけにある彼のプロフィールを見て、触れられたくない過去を暴かれたような(なんでだ)、そんな気分になった。
やっぱり、このオサムはあのオサムだった。
知っていたはずだけど、あらためて知って落ち込んだ。
だって「東大生ごとき」のくせに。(お、おい! いっていいのか「ごとき」だなんて!)
だって「たかが東大卒」のくせに。(お、おい! いっていいのか「たかが」だなんて!)
彼はイラストレーターとして成功したのである。のちに、やめちゃったにしても。
なんか、悔しい。

本書、『「わからない」という方法』を読んで、私がいちばん堪えたことは彼の「天才」を目の当たりにしたことだった。
「エコール・ド・パリをドラマにする」という章がある。
彼はドラマの脚本を書くための取材でパリへ行き、ルーブルはじめ美術館を見学して絵をあれこれ見る。エコール・ド・パリの画家たちの足跡をたどるため、そしてそこから何がしかのストーリーを編み出すためである。
彼はボッティチェルリの絵を見てモジリアニを想起し、ユトリロを見てその孤独を、その母シュザンヌの罪深さを思いやる。
私たち(三流)美大生は、退屈な講義に居眠りしながら作家論や美術史にしがみつき、どうにかこうにかやっとこさ、絵の鑑賞眼など養う余裕もないままに、理屈先行の知識を覚えこむ。レポートを書かなきゃいけないし、卒業するのに単位が必要だからだ。しかしそんな知識はレポートを終えたら捨てられる。卒業して美術から離れれば二度と呼び起こされることはない。
しかし、本物の絵の前に立った橋本治は、それらを見つめているうちに、かつて学んだ知識以上のものを体内から喚起し、パリ派の画家たちの作品と生涯について、「わかる」に近いところまで達するのである。

東大生ごとき、なんていったけれども、彼はその東大で美術史を学んでいる。おそらく三流美大生なんかより、ずっと美術には通じているのである、学識も、技巧も。そして生来のクリエイティヴィティ。おそらく「本物の絵」は、そのような天才性をもった鋭敏なひとには強い力で何かを示唆するものなのだ。

橋本治はなるべくしてイラストレーターになって、時代に呼応した絵を描きまくることができたのであり、小説家としてのデビューも、来るべくして来た転機であり、その後の作家としての成功も、必然だった。ご本人がどう思ってらっしゃるか知らないが。ご本人はただ「わからない」を追求されただけなのかもしれないが。
あのオサムはこのオサムだった。ほんとうに、オサムはひとりだった。
本書を読んで、いちばん書き留めておきたかったことは、実はこのことなのであった。
なんか、悔しい。

冒頭の画像は昭和49年発売のシングル盤レコード『昭和枯れすすき』(さくらと一郎)のジャケット。イラストは(たぶん題字も)橋本治。