「いいなあ、こんな恋してみたい」と素直に思えた若さよいずこへ2007/12/25 10:29:53

『恋文物語』
池内紀著
新潮社(1990年)


昨夜はクリスマスイヴであった。
したがって今日はクリスマスである。
そこで。



Joyeux Noel...
decembre 1989

この世でいちばん大切な慎吾様
80年代最後のX'masを
こうして慎吾と過ごせるなんてとってもとっても不思議
それから最高に最高に幸せです。
16歳から26歳までの(まだ25だけど)僕の80年代はまさしく青春そのもの
ではあったのですが、自分で云うと変だけど
自分が 生き生きと のびのびと 活動している、楽しんでいる、輝いている
という実感は20歳を過ぎてからやっとあったのです。それ以前は
心の中でいつもミケンにしわ寄せ 顔は世間に合わせてとりつくろう
という技を若いくせに持っていたのでした。20歳を過ぎて
やっと人間が大好きになりました。見ること、聞くこと、
歩くこと、食べることが大好きになりました。自分に似合うものが
わかるようになりました。僕の遅咲きの青春がここにあります。
慎吾も、僕の側に居ます。
そんな80年代を見送るのはとってもさびしい…
だから慎吾にも僕の80年代をおすそわけして
想い出にひたるのにつき合ってもらお!
と、上手におぜんだてしたところで 今年のプレゼントは
♪ガラクタ・バザール!!

1)えんぴつ 鉛筆に凝っていた僕のコレクションの中から1本。
2)絵本 絵本作家になりたかった頃買い集めた中の
いっとうお気に入りの“zebby”シリーズから1冊。
3)アロマキャンドル いつか煙草のにおい消しをあげたよね。
あれと似ているよ。森の香り。でも買ったのはだいぶ前だけどね。

何年も何年も持っていたものや、大切に大切にしまっておいたものたちです。僕だと思ってご存分に…

100年分のkissをこめて 蝶子

Je t'aime,
et toi?



なんと、これはラヴレターだっっっ(赤面)
しかし、何でここにあるんだ(苦悩)。
いきなり出てきたのである。だからって公開するなよ(アホォォッ)
差出人は僕だ。僕って、おい。何で一人称を「僕」にしてるんだ(謎謎謎)。

とにかく古いものが片づかない我が家。私はもう何年も、曽祖父の代からのガラクタの整理に追われている。何で私がやんなくちゃいけないんだよ、これ、どうすんだよ、こんなもん、置いとくのかよ、先行世代が責任持って処分しろよな、などとぶつくさいいながらおびただしい遺品廃品を両親の前にでんと置いたりしたけど、彼らはへえ、ほお、なんていいつつ懐かしがって作業が全然進まないから、ええいわかった、とにかくまとめとくからいつか必ず片づけてよっ……と私は言い放ったが、そうこうするうち父が亡くなり、また要処分品が増えたのだった。そんなモノどもも、どうにかこうにか、容積を減らしつつあり、昨今は自分の持ち物の処分にシフトしている。私は物を捨てない性質(たち)だ。何でも残っている。自分でも驚くが、えっこんなもの、うっそんなもの、みたいなモノまで残っている。70年代の生徒手帳とか(笑)。

それらの古いモノどもとは扱いが異なるが、人とやり取りした手紙の類も、とくに美しいカードだったりすると取っておくほうである。自分も素敵なカードで人に手紙を出したくて、少しずつ買いためて保管している。そういう新旧のカードを放り込んでいる引き出しがある。で、久しぶりに整理しようと底のほうから掘り出すようにしたら出てきた。それが上の手紙である。



本書、『恋文物語』は、ここにある慎吾(仮名)との関係を「これからどうしようかな……」と考えあぐねていたときに買って読んだような気がする。洋の東西、架空も含めて著名な人物のラヴレターを取り上げて、著者が「推論」している。
本書を読んで、さまざまな人のさまざまな恋文のありようにいたく感動し、我がことのように胸ときめかせその奥を熱くしたものだった。だが、今読むとなんとつまらないことだろう(笑)。文学的素養のない人間には、作家や文人の書簡の重要性というものがまずピンと来ないのだが、何よりも、恋愛をしていない状態というものはこれほどに人間を、他人の色恋沙汰に対して無関心にするものかと、我ながら感心した。

買った当時は「神父ガリアーニ」や「プラハの殺人者」などがしたためた恋文とやらを、おおおふむふむじーん……とわかりもしないくせに、とはいえどこかで恋する者たちの気持ちが腑に落ちたのであろう、そうよねそうよねと感動しながら読んだ覚えが微かにある。

今、あらためて読み返してみて、唯一関心を惹くのが「岡倉天心」の項である。池内紀が取り上げている人物の中で日本人はこの岡倉天心だけで、しかも相手はインドの詩人。天心は亡くなる最後の一年足らずの期間、詩人と長い手紙をやり取りしている。恋情がどの程度だったかはわからない。だが、どれほど熱に浮かされても、母語でならこの時代の日本人男性がけっして書かないであろう文章が、遠く海を越えた異国の女には向けられた。たとえば書き出しに「水の中の月なる人へ」。ロマンチックだなあ。天心は余命あとわずかというときになって幾通も書いており、そして詩人からは彼が亡くなった後も幾通も届いたという。
天心と詩人の間には、男女の愛情がかよっていたのだろうか。



さて。
慎吾には申し訳ない(ことは別にないと思う)が、この手紙をしたためたときの自分の心情はもう思い出せない。私は91年の夏に渡仏したが、それを機会に慎吾とは切れた。というよりも、切れるために渡仏を決めたのだったと思う。もう、そろそろやめちゃおう。だけど慎吾には切り出せない。切り出せないけど自分の中では感情が収束に向かう。留学先の選定、留学資金の見積り、仏語習得レベルの現状確認などなど、準備しなくてはならないことはいっぱいあった。だから、たぶん、私は89年後半から身辺整理も心の整理も始めていた。渡仏を口実に。そしてそんなわけで、89年の慎吾へのクリスマスプレゼントは、新たに買い求めたりせずにウチにあるガラクタを処分しちゃえということにしたのであろう。なんとまあ。我ながら、●▽■!!。

手紙の中で言及している絵本「Zebby」のシリーズは、洋書絵本展で3冊セットで買ったものだ。シマウマが主人公の、言葉のない絵だけの幼児向け絵本。何年ものちに娘が生まれて、私はこの本を見せようと家中探したが2冊しか出てこないのだ。そりゃそうである。残る1冊を慎吾にあげたんだった……と思い出したとき、どれほど大きな後悔が私を襲ったか、ご想像いただけるであろうか。乳幼児が小さな絵本からどれほど無限のストーリーや空想世界を広げることができるか、その可能性の大きさに鑑みて、あのキュートな絵本を、そうしたものの鑑賞ゴコロなどとっくに失ったおっさんに与えてしまったことの罪深さ。あがががが……と本気で数日悔しがったことを思い出す。アホだけど。

さらに最初の問いに戻るが、なぜ、この手紙がここにあるのだ?
下書きではない。けっこう高そうなカードにちゃんと書いている。ガラクタプレゼントに添付されるはずの手紙。
ラッピングし忘れて……当日相手が包みを開けてから気がついて……私は上記の内容を口頭で説明したのであろうか。マヌケだ……。で、入れ忘れた手紙を後生大事に捨てずにとっておいたってか。アホだ……。
そしてなぜ、一人称が「僕」なのだ? なぜっ???

それにしても、なんと、ときめかない手紙であろうか。だからなんなんだよ、何がいいてえんだよ、と、受取人が自分なら毒づいたことであろう。慎吾は優しかった(ほんとだよ)。
あ、でもこれ、受け取ってないのか。ああ、もう、バカッ。