伯父 ― 2008/04/10 15:55:54
さほど遅い時間ではなかったが、そんな時間にそんな場所をぶらつく人ではない。同年代のオヤジたちと一緒というのならまだしも、たったひとりで、というのは考えにくい。ただ、そのときはその人がほんとうに伯父なのかどうかがわからなかった。あ、伯父さん、と思ったのに声をかけそびれたのは、目つきがなんとなく虚ろでとぼとぼ歩いている様子があまりに伯父らしくなかったからだった。背格好、服装、後頭部のはげ具合、すべて伯父を表して余りあるほどであったが、ただその覇気のなさが、まったく伯父ではなかった。
伯父夫婦は二十年以上、長男夫婦と同居していた。孫は三人を数え、それぞれ祖父母によくなついて、立派に成長した。長男とはつまり私の従兄だが、彼は、同居を続けるには使い勝手が悪くなった古い家を取り壊して三階建ての新居を建てよう、と父親に提案したそうだ。
だが伯父は反対した。
住んでいる家は、町なかでもとくに目を惹く立派な構えの日本家屋である。重要文化財に指定されてもいいくらいの重厚なつくりだと私などは思うのだが、指定なんぞされたらそれはそれで住みにくいわい、と伯父が笑っていたのはいつだったか。
文化的な値打ちなどではなく、先祖代々住み続けた家への愛着。伯父にとっては、柱も梁も、自分の代で壊すなどとうていできない相談であった。
けっきょく、父親から譲り受けた別の土地に、従兄は新居を建てて引っ越した。
これまでの家を改修するという選択肢もないではなかったが、従兄とその妻にとっては「中途半端な金の使い方」でしかなかったらしい。老夫婦との同居も可能なほど大きさも間取りも充分な新居をつくったが、伯父はもとの家を離れなかった。
私はこの春中学生になった娘を連れて、伯父と伯母を訪ねた。ふたりきりじゃ寂しいでしょう、と問う私には答えず、伯父は、真新しい制服に身を包んだ娘をまぶしそうに見つめて、そうかそうかそんな歳になったんか、そうかそうかと満面の笑みを浮かべて頷いた。こちとら耄碌するわけだと伯母と顔を見合わせては笑う伯父の表情に、あの夜の光景が私の脳裏をよぎった。やはりあれは伯父だった。確信めいたものが胸をつきあげたが、だからどうだというのだ、私にはこうしてたまに訪ねることしかできないのだし、と私もまた娘の制服姿をまぶしく感じながら、なす術がないのであった。
オサムのメグミ(4) ― 2008/04/10 20:38:47
巻頭
『あなたたちの恋愛は瀕死』川上未映子
まだしつこく「オサムのメグミ」とのたまうのですか、などとおっしゃらないでくださいまし。
わたくし、『文学界』という雑誌を生まれて初めて手にいたしましたの。
ほんとうに、触れたこともなかったんですの。
けれど、どこかで、広告かしら、
特集 小林秀雄 没後四半世紀
対談 「小林秀雄」とはなにものだったのか
橋本治
茂木健一郎
という文言を目にしまして、これは読まなくてはいけないわと、所用で足を運んだ図書館で、さっそく予約を入れましたわ。
まあ、そんな顔をなさらないでくださいまし。わたくし、雑誌だって図書館で借りることにしていますの。なぜって、わたくし、雑誌を捨てられないたちですから、でも雑誌は書架での座りが悪いので、つい平積みにしておきますもので、我が家の床という床の空いてる場所には古雑誌が積み上がってますの。ちょっと恥ずかしくて、よそさまに見せられませんわ。
ですから、もう買うまい、と決めたんですのよ、よほどお気に入りのものを除いては。
『文学界』にしても、同じような考えの方がいらっしゃるのか、けっこう順番待ちが長かったんですけど、ようやく借りてみて、あらためて思いましたけど、わたくしなどにはほんとうに読むところのない雑誌でしたわ、ほほほ。
橋本さんと茂木さんのお話は、『小林秀雄の恵み』を読んだ者にはべつに何も得るところのないお喋りで、読もうかどうか迷ってるかたには、はてさて、どう映ったのでしょうね、面白かったのでしょうか。わかりません。
ただ、ぷっと笑ってしまった箇所がありました。
それは、橋本さんがご自分の『窯変源氏物語』について話しているくだり。どなたかが『窯変―』を評して「(源氏物語って)ハーレクインだったのか、などと思った」というようなことを書いたそうなのです。
その書評を読んだ橋本さん、「じゃあ、アンタは今まで『源氏物語』がハーレクインじゃないとでも思っていたのか?」と思ったとか、そんなお話でした。
ごめんなさい、もう借りた本は返していますので、手許にないので正確な引用ができないのですけど。
奇しくも今、同志某おさっちブログで平成おばギャル版イケメン源氏とでも申し上げればよいかしら、面白い読み解きが展開していますけれど、実をいうと、なかなか、わたくしはついていけないんですの(笑)。
昔ハーレクインロマンスというシリーズが出たときに、流行に乗って何冊か読みましたけど、ナニをどう読めば面白く感じられるのかわからなくて、本を大切にいつまでも手許に置くわたくしですら、とっとと処分してしまったような記憶が。
『窯変―』よりも、本来は、原典のほうがよりハーレクインっぽいのですよね。それを気取りなくストレートに現代語に置き換えるために、橋本さんの施した工夫のおかげで、高尚な王朝絵巻にまつりあげられ手の届かない平安文学と化してしまった『源氏物語』は実はハーレクインだった、と気づいたかたが少しでもいらしてよかったわ、というふうに受け留めることにいたしましょう。
でも、このたび、「メグミ」はそれではありませんの。
巻頭に、芥川賞を受賞なさった川上さんの短編が掲載されておりました。
これが、くくくけけけと喉で笑っちゃう面白さ、なんですの。
初めて手にした『文学界』に、たぶんそこになければこれまた一生読むことのなかったであろう作家の珠玉の一編を読むことができました。これをメグミと呼ばずして何といいましょう。
文体は過去の自分を暴かれるようでなんだか好きになれないのですが、お話の展開のさせかたが、気に入りましたわ。
なんというか、とてもとても、イマの世の中、なんですわ、描かれているのが。
感心しましたの。
そうはいっても、だからって川上さんの本をこの先読むかと問われれば、まるで中学生のように「べつにい、どっちでもいいぃぃ」と、わたくしは答えるのです。