美和 ― 2008/06/16 20:20:53
よしえ叔母さんはいつも美味しいお菓子を携えて訪ねてくれる。美和はそれが楽しみだった。よしえ叔母さんの上の娘のあかりちゃんは、美和よりも十二も上だったからほとんど話が合わなかったけど、甘いものの好みはよく似ていた。よしえ叔母さんもあかりちゃんも美和もなんてったって洋菓子派だった。よしえ叔母さんは、美味しいケーキ屋さんを見つけるのが上手だったが、よしえ叔母さんちのある北の界隈はお洒落なケーキ屋さんが最初から点在していたので、美和はよしえ叔母さんに会うたびに「叔母さんの家の近くにある《パリジェンヌ》のチーズケーキ、美味しかったなあ」とか、「叔母さんちの斜交いの《シェ・モニク》の苺ショートが忘れられなーい」などとつぶやいてみせる。するとよしえ叔母さんは、「そうだろう、そうだろう、美和はなかなかグルメだね。《パリジェンヌ》はチーズケーキよりモンブランのほうが美味しいからこの次はそれを買ってくるよ」とか、「《シェ・モニク》はもうパッとしないんだよ、新しくできた《シェ・ピエール》のタルトフレーズを楽しみにしておいで」なんて言ってくれて、美和の楽しみはエンドレスなのだった。
すっかり大人のお姉さんになったあかりちゃんとよしえ叔母さんが、例によってケーキ持参でウチへ来て、新しい店の話をする。最近のイチ押しはイワイヤよねー。ロールケーキがたまらないわよねー。イワイヤ? 岩井屋だろうか、祝い家だろうか、それともIWAIYAか。けれど、ふたりは美和の母親のみずえが訊ねた田舎の大伯父さん、大伯母さんの噂話に花を咲かせて、イワイヤについての詳細なインフォメーションを探る隙を美和に与えてくれなかった。でもきっと、この次はイワイヤのロールケーキを味わえる。美和はそう信じていた。
ある日、雨にもかかわらずよしえ叔母さんが訪ねてくれた。
よしえ叔母さんが頻繁に来るのは美和にケーキを食べさせるためではなくて、みずえの腕をマッサージするためである。みずえは叔母さんの姉で、左腕が麻痺している。美和を産んでから少しずつ進行したらしい。麻痺しているほうもだが、酷使する右腕もマッサージしてくれる。家の中のかたづけも、少し手伝ってくれている。以前はあかりちゃんもきていたが、お勤めを始めてほとんど来なくなった。美和も大きくなって、たいていの家事をこなせるようになっていた。よしえ叔母さんは相変わらず美和を子ども扱いだが、可愛いケーキを持ってきてくれるのは大歓迎だから、子ども扱いに異を唱えるつもりはなかった。
今日は前に言ってた《イワイヤ》のロールケーキかな。
包みを開けて、出てきたのは和菓子の水無月だった。
「みずえ姉さんの大好物だよね」
美和はアイタタタッ、と思った。年に数回、洋菓子の苦手なみずえのために手土産を和菓子にするときがある。心の中でイワイヤイワイヤと唱えていたから、今が梅雨だと忘れていたのだ。
水無月を皿にとり、煎茶を淹れてよしえ叔母さんは、あかりちゃんが結婚することになったといった。準備で何かと忙しいからしばらく来られないのよ。みずえは大喜びでおめでとうを繰り返した。そりゃあ、めでたいけどなあ。美和はボーッとした顔で母親と叔母の会話を聞いていた。叔母さん、しばらく来ないのか……。
月日が流れ、高校受験を終えた美和のもとに、あかりちゃん夫婦と赤ちゃんと、よしえ叔母さんがお祝いを持ってきてくれた。もちろん、菓子折りも。このロールケーキ美味しいのよ、というあかりちゃんの言葉に、美和の脳裏に電撃が走った。ロールケーキッ。イッ……イワイヤッ! イワイヤのロールケーキ? 思わず口走った美和の顔を、よしえ叔母さんとあかりちゃんは不思議そうな表情で見つめた。
「イワイヤ?」
「イワイヤのロールケーキ、美味しいって……」
しばらく考え込むふたり。横からあかりちゃんの旦那さんが口を挟んだ。
「イワイヤって、茶問屋の岩居屋じゃないのか、抹茶ロールケーキで行列つくってた」
あかりちゃんが、ああと大きな口を開けてうなずいた。
「ずいぶん古いお店のこと知ってるのねえ、美和ちゃん。もう何年も前につぶれたわよ」
「ま、本業に専念したってことだけどな。ケーキは止めたんだよ」
……。ずるい。
あんなに、よしえ叔母ちゃんとあかりちゃん、絶賛してたケーキ、食べたかったのに。
もう、イワイヤのロールケーキには二度と会えないんだ。
悔しい。
お祝いいただいたのに、なんて顔してるの。みずえが怪訝な顔で美和にいう。
美和はみずえを睨みつけ、「母さんが水無月なんか好きだから、ロールケーキ食べ損なったのよっ」ともはや誰にも理解してもらえないことを言い募った。
「美和ちゃん、今日持ってきたのは《パティシエール・サラ》のフルーツロールよ、きっと気に入るわよ」
よしえ叔母さんのひと言で、美和の機嫌は直ったのだった。