墓標に立つと詩になる2008/07/15 17:51:31


『詩人の墓』
谷川俊太郎 詩
太田大八 絵
集英社(2006年)


「詩人の墓」という108行の長い物語詩が一冊の本になっている。ひと見開き(つまり2ページ)に4行ずつ。見開きごとに、太田大八の水彩や油絵やコラージュ作品。
贅沢な本である。
一編の詩で一冊の単行本というのも贅沢だが、一編の詩のために齢九十を数える老匠の絵を惜しむことなくふんだんに使いまくり。約30点。なんと。

太田さんの絵はピカソもマティスもクレーもカンディンスキーもイヴ・クラインも髣髴させ、私の目は、温泉地に保養に行きスペシャルインドエステサロンでリラクゼーションマッサージなど堪能しとれとれイキイキの地産名物をたらふく食ったかのように、うるうるうるると元気になるのである。

しかし、詩は悲しいのであった。
詩は、詩人の在りさまを少ない言葉で述べる。
宙を見つめる。浮かぶ言葉を書き連ねる。その詩を贈る。
詩人の書く詩は人々を感動させ、喜ばせた。
しかし詩人は、およそ詩を書くことしかできなくて、過去も未来もなく今日の今しか生きられなくて、恋人と記憶に浸ることも将来を夢見ることもできないのであった。
詩人とはかくも悲しい在りさまであることを意味すると、詩は述べている。
谷川俊太郎の、音のない慟哭か。

目に心にビタミンいっぱい、とかなんとか、つい軽薄なキャッチコピーをつけたくなる悲しいサガですけど、それとは別に、ああ、つくりたいなあ、こんな本。



墓標に立つと、そこに刻まれた文字を読む。在りし日のその人を思う。何も記されないただ石を積み上げただけの墓碑ならば、その石を積み上げた人が念じたであろう言葉、描いたであろう亡き人の姿を追想する。
文字や言葉をたどっても、脳裏に描いても口の中でもぐもぐつぶやいても、墓の下で眠る人に届いたような気がしたとしても、墓標のそばで、わたしはひとりだ。

墓標をみつめ、去来する事どもを、たとえ不器用であれ、言葉にしていく。
それはおそらく詩になる。
墓標はいうかもしれない、「そこにわたしはいません」と。
しかし問題はそんなことではなく、そこに碑があれば墓になるのであって、その下になにがあろうと墓は墓であり、墓標はかつてあった命の象徴なのである。かつてあってもう今はないものを思うとき、それを象徴するもののそばに佇むと、思いは詩になる。思う者は詩人になる。


きこえるか
ノブナガ
きいてくれ
イエヤス
ごめんな
なにもしらなくて
ごめんな
しんどかったな
くるしかったろ
ほんとにごめん
ヒデヨシのこと だいじにするよ
ふたりのぶんまで長生きさせるよ


昔、ギンコってのがいてさ
お前と同じように
浮いては沈み、浮いては沈み
もがきながら泳いでいたけど
ある日突然死んじまったよ
ギンコは
公園の鉄棒のそばに埋めたんだ
あの頃毎日のように娘がさか上がりをしに行ってたからね
ギンコは長生きしたからなあ
あの子はとても悲しんだ
ギンコがいなくなった水槽はやけに広くて
残ったふたりはのびのびしていたが
眺めるほうには寂しかったよ

お前は、ここだ
枇杷の木のねもと
ウチの枇杷は毎年、小さいけれどたくさん実をつけるんだよ
来年はきっと、いっそう艶やかな実が生るだろう
お前のからだが
しなやかさ きめ細かさ いろあざやかさを
枇杷の表皮に与えてくれる


ひとつめは飼っていたイモリ3匹のうち2匹が死んで、近所の路地に埋めたとき、石ころを積み上げながら娘がぽつ、ぽつ、つぶやいた言葉をつないだもの。
ふたつめは、つい先日、7月9日に他界した可愛い金魚のタマちゃんを葬ったときに思ったこと。ギンコというのは昔いた金魚の名。ギンコの同期生はまだ元気である。

子どもが小さいころ一緒に見ていたテレビ人形劇で、ある星を征服しつくしたあげく滅亡へとまっしぐらに進み最後の一人になったキノコ(!)を訪ねた少年が、そのキノコの墓標を立てるシーンがあったが、しっとりしたとてもよい場面であった。彼はそのとき詩人になっていたのだ。
(人間の墓標をネタにできなくて、ごめんなさい。)

コメント

_ 儚い預言者 ― 2008/07/15 22:41:50

 想いは今という永遠に
 故郷に還るように往く

 愛の懐は淋しい永遠の沈黙
 墓標に涙する肉体は陽炎になる

 もうすぐと時間が呼ぶ
 もう一度と魂が叫ぶ

 なぜならもう来ないから
 どうしても一回きりだから

 無限にあなたを愛したら
 何回も愛せなくなる

 一度きりの愛なら
 あなたは永遠にいない

 ふたたびという夢
 涙という光

 あなたの息
 あなたの肌

 私の命
 私の祈り

 あなたへの夢
 あなたへの愛

 わたしは生きて
 あなたが生きて

 わたしが生きて
 あなたは生きて

_ おさか ― 2008/07/16 15:19:18

詩の講義
ためになりまするー
そうか、挽歌ですね
もともとそういうところから始まったのかもしれない
かつて確かに生きていたものへの思い

詩はストレートでかつ深いですね
小説なんて無駄なことばっかり言ってるかもしんない(笑
その無駄がいいっちゃいいんだけど

_ mukamuka72002 ― 2008/07/16 17:44:53

墓かあ、
親の分だけじゃなく、
自分の分まで考える歳になって来たなあ、
適当にそのへんに埋めてくれてもいいんですけど、しかも焼かないで、
大嫌いなアイツの家の庭にコッソリ埋めてもらって、
僕が生前書いた手紙を一年後にソイツに送ってもらう、
「アーッハハハハ、お前の自慢の家庭菜園、真ん中あたり掘ってみろ。なーにが出てくるかな? イッヒヒヒヒヒ」
って遊ぶのもいいなあ。
墓のない人生は、はかない、なんて石屋のコピーがあったなあ、
お手々のシワとシワを重ねて、しあわせ、
なんてのもあったなあ、シワとシワ重ねたら、しあわせ、じゃなくて、しわよせ、だよ、迷惑なんだ石屋は! ハハハハ。
なんか暑くてだらけてますけど、
素晴らしい詩でした♪

_ midi ― 2008/07/17 05:43:59

預言者さま
うーん、なんだか演歌の歌詞みたいに思えるのは私だけでしょうか?

おさかさん
講義なんかしてないぞ(笑)
詩はストレートでもあるし、まわりくどくもあるんでしょうね。どっちでもたぶん成立する、伝わる読み手にとってはね。余分な遊びしろ(この「しろ」は糊しろとか縫いしろとかの「しろ」)が言葉にも行間にも余白にもあるのが詩。
文章にもあるんだろうけど、わかる・わからないでまず二分されちゃうのが文章の悲しいところだ。

mukaさん
ごぶさたです。きてくださってありがとう。mukaさんのお墓にはお酒をかけてあげましょう。

_ 儚い預言者 ― 2008/07/17 05:54:24

 あっひー、そ、そ、そうか。永遠の愛への一派、いえ一歩は、ちゃちゃちゃちゃーーん、ではなく、ちゅらるー、うい、じゅれるー、なんだーー、あーーゆるせーー、おひめちゃまーー、ばっしーー。

_ 鹿王院知子 ― 2008/07/17 07:31:39

自然なことばが
ちょうこさんらしくって
詩という形態も
ちょうこさん
ありありだなぁーと
思いました

素朴な心のつぶやきっていうのが
人間らしいって言うか
どなたでしたっけ
何もかも、朝起きてから寝るまですべてが詩みたいに
おっしゃってた
生活と密着していて、すべての人の心が
詩なのかなーって思いました

_ midi ― 2008/07/17 19:12:17

預言者さま
なになになに?

鹿王院知子さん
そうかもしれないですね、だれでも心は詩人なんですよね、きっと。

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