たとえば、幸せな人に会うということ ― 2008/08/21 17:30:43
三木 清 著
新潮文庫(1999年)
品川から乗り換えて三田で降りた。目指す建物は超現代的な摩天楼の姿で目に飛び込んできた。そこへたどり着くためには歩道橋をひとつ渡らなければならない。朝からすでに重い足を、引き摺るようにして歩道橋の階段をのぼる。のぼった私の目に、東京タワーが飛び込んだ。目的地のビルと比べてなんて麗しい姿か。実は東京タワーをこんなに間近に見るのは初めてだった。たしか都庁のてっぺんか、または別のクライアントのビルの最上階とかいうところから、遠目に遠目に眺めた記憶はあるけれど。
不意に現れた東京タワーは、とても華奢で愛嬌にあふれて見えた。もっとごつごつした鉄塔の武骨さにあふれた無愛想なしろものと思っていたが、どんよりした薄墨色の空に、その赤と白のツートンカラーはたいへん美しく映え、私はほんの数秒だがうっとりとみとれていた。
その日の仕事場は、とある講演会の取材だった。カリスマ性のある講師を慕って集まった聴講者たちは一様に皆、講演の当初から陶酔しきったような表情だ。笑い、どよめき、歓声、拍手が、講師が何かを発するたびに会場に波打ち、非常に盛り上がった講演会であった。聴講者たちは誰もが満面の笑顔だ。しかし、そのどれもが、心の奥から、あるいはお腹の底からわきあがった笑みではなくて、どことなく、魔法にかかってつくられたような笑顔、マジシャンのような講師の話術に乗せられ否応なく出たような上滑りした表情のように感じたのは、私だけでなく、同行のカメラマンや営業担当もしかりだった。
そんな笑顔を見せられても、私たちは感動できないし、幸福も感じない。
本書はまだ駒田眼科院長であられたときのコマンタさんに勧められて購入したもので、新渡戸稲造の『自警録―心のもちかた』(講談社学術文庫)と並んで、「一気には読めない本なんだけど、ときどき開いてピンポイントで読んで、よしよしアタシは大丈夫だ、と確認するための本」としていつもそばに積んでいる本である。
本書の読み方は、簡単である。目次はすべて「○○について」となっていて、「○○」について考えたいときにその項目のページを開けばいい。死について、幸福について、懐疑について、習慣について……成功について、瞑想について、噂について……娯楽について、希望について、旅について、個性について。『人生論ノート』の初版は昭和29年というから、著述には時代を感じる箇所があるのは当たり前ながら、著者の意図の核をなす部分は現代に通じて余りある。現代人への警鐘として読むべきところも、見受けられる。
とあるところで「幸せ」について語られていたのでそれに便乗し、今エントリでは本書の2項め「幸福について」をとりあげる。
《今日の人間は幸福について殆ど考えないようである。(……)幸福について考えないことは今日の人間の特徴である。現代における倫理の混乱は種々に論じられているが、倫理の本から幸福論が喪失したということはこの混乱を代表する事実である。(……)
幸福について考えることはすでに一つの、おそらく最大の、不幸の兆しであるといわれるかも知れない。健全な胃をもっている者が胃の存在を感じないように、幸福である者は幸福について考えないといわれるであろう。しかしながら今日の人間は果して幸福であるために幸福について考えないのであるか。むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。》(15~16ページ)
なんだか、今の世のお話のようじゃない?
《愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのでなく、反対に、彼等は幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。》(19ページ)
ううううう(涙)。深いじゃない?
《幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。》
《機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。(……)幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。》(22ページ)
「波長ねえ、……合ってるんでしょうね、外してるな、と感じたことないですからね、うん、合ってるんですねえ」
結婚を控えた友人が、頬を紅潮させて、少しはにかみながらしかし確かな口調で言った。私の中に、熱くて温かくて甘い、ほどよい重さのあるなにものかが広がる。この友人は今こんなにも私を幸福にしているということに自覚があるだろうか。たぶんないだろう。その無頓着さが、私をいっそう幸せな気持ちにさせる。私のこの幸せな気分は、日常の小さな出来事で一時的なものに過ぎない。過ぎないが、この友人に思いを馳せただけで幾度も味わえるという意味で限りなく真の幸福に近い、とも思う。そしてまさしく、「鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にする」今の友人は、真の幸福の只中にいるのだ。