ひとは幸せな記憶を長くはとどめておけないものだからせめて辛い記憶は埋もれたままにしておくれ2008/12/15 20:04:35

やめてほしいイベントが二つある。
「流行語大賞」と「今年の漢字」。



流行語大賞を云々するシーズンになると、流行り言葉っていったい何だ?と、まずそこから定義をし直さなきゃという面倒くさい(実に面倒くさい)気持ちになるのが、まず嫌である。
流行語って、その語の意味を共有する人々が集う場所もしくは住む地域もしくは所属共同体のなかで、その人たち誰もがつい口にして情報共有感または連帯感を確認できて、なおかつ、楽しくウキウキした気分になるとか、その語をやたらと用いることで人とかモノとか事象を揶揄したりリスペクトしたりするという気分で盛り上がれるとか、そういう類のものだと思うんだけど。
ひとつの国で「流行語大賞」というからには、【その語の意味を共有する人々が集う場所もしくは住む地域もしくは所属共同体】イコールその国、ということになる。

歴代流行語大賞については何も知らないが、毎年候補語がメディアで取り沙汰されているのを見ていると、何が面白いんだかさっぱりわからない芸人のギャグだとか、有名人がたまたま口走ったのをマスコミがやたら書き立て皆の耳に馴染んでいるというだけのフレーズだとか、そんなものばかり並んでいて、それを「流行した言葉」と位置づけてええんかい?と首をかしげてしまうのだ。

ちなみに2008年、私と娘の口にやたらのぼったのは、「いみがわからへん」。
小学校のときはやたら「いみふめー!」と叫ぶ娘(とその周囲の小学生たち)の真似をして私も「いみふめー!」を連発していたが、「いみふめー!」は、子どもの中学校入学とほぼ同時に「いみがわからへん」に変化した。

「いみがわからへん」は、娘がいうには、数学科担当教諭で部活の副顧問でもあるサブロッチ先生の口癖らしくて学校でも話題らしいんだけど、私が思うに、娘はサブロッチに会う前から「いみがわからへん」といっていたはずなのである。むしろサブロッチのほうが生徒の口真似をしていて、いつのまにか口癖と指摘されるほど頻繁に用いるようになったんだ。

実はあるとき私は、子どもみたいに「いみふめー!」というのをやめて、意味がわからないときはちゃんと「そんなの、意味がわからへんよ」、と意思表示するようにしようと心がけ始めた。それは昨年末頃のことだ。それから、しばらくして娘は「いみふめー」のかわりに「いみがわからへん」というようになった。そして、自分でも気づかないうちに、連発するようになった。

たぶん、子どもをもつ各家庭で同じようなことが起きていて、中学生になった子どもたちは「いみふめー」をやめて「いみがわからへん」というようになり、サブロッチにも波及した……のである。

どうでもいいことである(笑)。
が、私たちは、それぞれが「いみがわからへん」というとき、あるいは相手がいうのを聞いたとき、サブロッチを思ったり、数学のテストの悲惨な結果を思ったり、部活のきつさを思ったり、漢字では書けないくせに「いみふめー」といっていた頃の可愛らしさを思ったり、この言葉ですべてを片づけて逃げようとしている自分を思ったり、するのである。
なかなかこれで、いろいろな事どもを含むのである。そしてやがて使わなくなるのである。流行語ってこういうもんじゃない?



もうひとつの「今年の漢字」。
「流行語大賞」とは違ってこちらはローカルイベントである。
ご存じない方のほうが多いに決まっている。
説明するのも腹立たしいが説明すると、「その年の世相を表す漢字一字」を決めるイベントである。

この国がちっともよくならないのは、関西に元気がないことが理由のひとつだと思っている。首都圏に次ぐ経済規模のこの地域に元気がないと、例えば地方分権の議論も盛り上がらない。首都機能分散とか道州制とかにしても、関西の発言に説得力がないと進まないであろう(私は道州制なんか反対だけど)。
関西が元気かどうかは、ひとつは阪神タイガースの動向がものをいう。
もちろん、ほかにもいろいろある。ガンバ大阪も寄与してるんだろう。よく知らないけど。こういうスポーツや文化面の振興は、それを嗜好する人以外にはあまり波及しないものである。

比して、件のイベントが年中行事としてあるって、どやねん。
毎年その年を振り返って「今年の日本社会はああだったこうだった」と話すとき、「いいこと」を思い浮かべる人っている?
個人の一年間の生活を回顧するのとは違う。合格した、結婚した、子どもが、孫が生まれた、卒寿を迎えた……自分としては慶事あふれた年だったけど、世の中、社会は……。
世相を思うと、自分とは直接関係がなくても大きなニュースが頭をよぎる。そして大きなニュースとは悪いニュースのほうが圧倒的に多いのだ。

このイベントをワイドショーやラジオでやんややんやと取り上げるのは関西、あるいは京阪神だけだろうと想像する。ここの住民は、暮れになると毎年、いやでも一年を回顧し、「あれはひどかったわねえ」「お気の毒なことやったなあ」「あんな悲惨なこともう嫌やで」などとけしからん出来事や悲しい事件をいっぱい思い出す。
ああ、なんてひどい年だったんだろう……いったいいつまでこんな世の中が続くんだろう……。どんなに幸せいっぱいで過ごした人でも、そのような思いでいっぱいになってしまって、暗澹たる気持ちで一年を終えるのである。

やめてよ。まったく余計なことをしてくれる。そう思いませんか。
こんなイベントが十年以上も続いているから、われわれはいつも閉塞感に苛まれ、気持ちが晴れないまま、憂鬱なまま生かされてしまうのである。

ある年を漢字一字で表す。その試みは悪くない。各人がそれぞれの思いで一字を思い浮かべる。日本人ならではの知的遊戯だ。著名な方々がテレビなんかで「私の一年を漢字一字で書くとこれでーす」なんて遊んでいるのは罪がない。
しかしそれを人に押しつけないでほしい。考えさせないでほしい。
一年を振り返る必要のある者だけがやればいいだろ。
何もかも忘れたい人間だっているんだ。
投票なんかさせるな。学校とか公共施設とかに投票箱なんか置かせるな。
結果に影響を受け易い人間だっているんだ。

私は、このイベントが全国区になる前に消滅することを心から願う者のひとりである。
なんといっても、投票数はまだ11万程度だ。最多獲得票数は6000票ちょっと。
そんな票数で世相を表す一字と騒ぎ立てるのはとても滑稽。
日本のほとんどの人が「今年の漢字」なんか知らないし、結果に振り回されたりもしていないけれど、たぶん、私たちの地域にはつい振り回されている人々がいる。
そのせいで、関西は元気がないのだ。
「いやな一年でしたね」を合言葉に年を終わるなんて、まっぴらだ。

愛するウチダさんも言っている。
《……お正月番組の打ち合わせ。タイトルはどうしましょうかと訊かれたので、「変わるな!日本」というのをご提案する。「いいじゃん、このままで」というのが私の最近の万象についての基本姿勢なのである。》

来る歳も相変わらず幸せでありますように。