木枯らしや懐に友の詩集抱き――俳句こそ優劣はどこで決まるのだろうと考えた2008/12/23 17:37:40

『池畔』
草間時彦句集
ふらんす堂(2003年)


とある連載原稿を書くときに、内容に厚みを持たせるために古典も含め名のある文学から引用をすることがよくある。自分の記憶を頼りに引くが、必ず出典の証明を要求されるので、うろ覚えをただすためにも念入りに書籍を探し出す。この過程はけっこう楽しい。

そんな作業のプロセスで、私自身は不勉強でまったく知らないにもかかわらずその世界では大変に高名である、といった人の作品に出くわすことがある。俳人・草間時彦もそんなひとりである。

インターネットなんぞで彼の名で検索をかけても、食に関するエッセイ集や、近現代俳句集の編者としてしかかかってこない。彼自身の句集もあるのだが、刊行当時のものはなく、ようやっと、半世紀余の間に出された《八冊の句集から、三七九を選んで一集とした》本書を図書館で見つけた。
このほかにも、昭和46年に出された『淡酒』を所収した『現代100名句集』(四季出版)があったが、本書のほうが百倍くらい粋である。というのは、この本がとても小さいからなのだ。葉書よりちょっと大きいくらい。

百貨店めぐる着ぶくれ一家族(2ページ)
秋鯖や上司罵るために酔ふ(4ページ)
夕ざくら墓地を買はねば死ねざるを(11ページ)
日だまりは婆が占めをり大根焚(同)

俳句はそこでみたまま、聞いたままを五七五に詠めばよいのだ、と誰かから何年も前に聞いた。季語の知識は要るけどな、と付け加えられたが。

句を吟ずる人は世に多い。
外国語話者にまでいる。私はずっと前、日本のある大企業が主催する俳句大賞の国際部門で首席を獲ったフランス人の受賞挨拶を翻訳したことがある。俳句がすごく好きで、この表現方法に出会ってからはとにかく四六時中何を見ても句に仕立てたくなる――というような内容だった。またフランスにも句会はそこかしこにあって、みな楽しみつつしのぎを削っているという。それもこれも、俳句というすばらしい文化を育んできた日本人のおかげ、そして今回このような大きな賞を授かり光栄のいたり云々。
へーえ。
受賞作を何度も発音してみたが、これが五七五として認められるんかーへーえ。としか言いようがなかった。

私には俳句は、詩よりももっとわからない。
ルールがあるだけに、よほど研ぎ澄まされた感性をもってしないとよい句はできないであろうと思う。だがその「よい句」がわからない。
上に挙げた草間時彦の句は、けっこうどれも面白いと思った。わかりやすい。
でも次のようなのは、わからない。

甚平や一誌持たねば仰がれず(25ページ)
カザルスが逝きて部厚き露の闇(同)
南天の花の向うの庭木かな(30ページ)
立食ひの蕎麦の湯気より死者の声(31ページ)
すさまじく人を愛せし昔かな(39ページ)

一つめ、二つめは何のことかわからない。
三つめは、そのまんまやん。あ、でもそれでいいのか?
四つめは、なんかわけありっぽいけど、よくわからない。
五つめは、みんなそうやん、という気持ちと、この句の季語は何?

友だちが恋人語る白い息
夕暮のイルミネーションイヴは明日
安堵した陛下が御手をかざされて

以上、midiの本日の句であります(笑)
でも昨夜、伯母の容態の悪化したことなどは、とても詠めない。

息子が押す正月二日の車椅子(77ページ)

従兄弟が押す車椅子で微笑む伯母にもう一度会いたい。