もうちょっと真面目に「書く」ことに向かって本づくりのこと考えようって思ったの巻 ― 2009/01/28 16:15:21

『ゴールデンボールサポーター』
長原秋夫 詩
ラブユー出版(2008年)
《他人なら面と向かうところだが/女は知り合いで/ギターのような体形をしている》(「うしろだけを」6ページ)
《他人の問題なら/気持ちの問題として/蔵からだすのもやぶさかではない》(「かげ」15ページ)
自分の命より大事なものは、と訊かれたら「私の娘」と答えるに決まっている。その答えにいくらかの矛盾があるとしても、ナルシストでありかつ自虐的な、すなわち簡単にいえばジコチューの私が自分より優位に置くものといえば娘しかないのである。親も兄弟も大切だし、甥っ子はいつだって抱きしめたいくらい可愛いし、いざというときに頼りになる伯父伯母たちはじめ親戚の面々もとても重要な人々である。けれど、その「娘」と「親も……(以下の面々)」との間には大きな距離があり、なおかつ、幅の広い河のように横たわる、大きなものがあるのである。
友情である。
友達は、たくさんいる。隣近所に住み、幼少時から今もつきあいのある幼馴染み、学生時代の仲間、かつての仕事仲間。そして不思議な縁で結びついた、この歳になったからこそできた友達。
友情は、かけがえがない。しかし人は、恋人ができたり子どもができたりするといったん友情を見えないところに片づけてしまいがちだ。私も例外ではなく、命より大事な娘のために、娘以外のあらゆる人々に対し「知らん顔」と「聞かなかったふり」をきめこんで、不義理を続けてきた。
にもかかわらず友情はそこに在り、私が気づくのを待っている。
友情という得体の知れない、変幻自在の、軽重不明の、両性具有の精神性に、今は感謝をするしかない。私が生きている理由は、100%中99%はやはり娘にあるが、のこり1%のうちのさらに99.999%は友情にある。親兄弟親戚縁者一同、ゴメンナサイ。
他人とは誰なのだろう。
いまうんぬんした子どもだの親だの、友達だのとは一線を引かれる「他人」とは。
他人は他人であるからこそ、「私」に重い、あるいは強い働きかけをすることがある。
(ここでの「他人」は哲学でいうときの「他者」とは含有する意味が異なります)
他人だからその言葉の上っ面だけをいいように解釈して悦に入る、ときもある。
他人だからその視線に容赦ないものを感じて逃げ場を失くして立ちすくむ、ことがある。
詩人・長原秋夫は「他人」への視線が卓越して優しい人である。「視線が優しい」を強調するのに「卓越して」はおかしいかもしれない。「視線が優しい」のは性格であって能力ではないのだから。それでもそう形容したいほど、彼の他人へのまなざしは愛に満ち、対象の(普段は見えない)美点をあぶりだして余りある。なのにそのまなざしは強くはない。長くもない。たぶん、こっそりチラ見するだけである。それでもその視線は「他人」の美しさや賢者ぶりを捉えて離さない。これを視線が卓越して優しい人であるといわずしてなんという。
冒頭に抜き出した数行は、直接「他人」を表象してはいないが、いつものまなざしの優しさあってこその「他人」への愛が表出している。
他人だから許せる。他人だからオッケーなのよ(身内ならそうはいかないのよ)。
別の詩篇では「他人」を「ひと」と書いている。
《ふくらみに/手をちかづけるのは/知らないひと》(「親戚」74ページ)
《夜とはいえ/灯のもと/ひとの言葉が/こんなにもやすやすと/浸透する》(「朝」99~100ページ)
「他人」や「ひと」に対する、その良さだけをピックアップしつつ内面に立ち入り過ぎない長原秋夫の姿勢は、彼自身の生き方そのものでもあるのだろうか。日々すれ違う通りの人々や店のカウンター越しに見る笑顔をこよなく愛する彼のその愛情のありようは、意地悪い見方をすれば、彼自身の最も大切な人である家族への愛情と、その大きさや深さ、温もりにおいてほぼ同等ではないかと思えるほどだ。すなわち、周囲にそんなふうに思わせる筆力が長原秋夫の魅力であり、言葉のマジックなのである。
俗っぽい、使い古された語を用いれば人間愛である。彼のように、「他人」や「ひと」への遠望視的で水平な視線を誰もが持っていたら、無差別的、通り魔的な各種の犯罪は起きないだろうに。
本詩集に好きなフレーズはたくさんあるが、とりわけジンときた箇所を抜き書きする。もちろん、詩篇のすべてを読まなければこれらの詩のよさをわかってはいただけまいが……。
《女の子は
マイクをきれいにしたあとも
私のそばに控えて
男をなぐさめたこともないような膝小僧を
そろえている
私は君くらいのとしごろに
犬を死なせた》
(「帰郷」13ページ)
《アナウンスを終え
車掌室にもどった車掌は
肩からカバンをおろすと
線路をたしかめ
死んだ同僚のことを思い
くちぶえを吹きそうになる
ふるさとはこの先 まだ
時間がかかる》
(「まり子さんのこと」34ページ)
最後になったが、「撮影許可」(62ページ)と題された一篇を読んで私は私の前に横たわる友情の篤さに覚醒したということを、白状しておこう。
友達は、かけがえがない。実感です。ありがとうございました。
ほんとにこんなにつまみ食いされまくる男っているんだろうか一度会ってみたいもんだと感心したの巻 ― 2009/01/31 20:52:52

『潤一』
井上荒野 著
新潮文庫(2006年)
新潮文庫の Yondaマークを集めてもらえる腕時計を目標に読書、がんばるぞー!と娘と誓い合った夏(ヤツは即刻忘れたようだが)。まず、我が家にある新潮文庫を総点検(笑)。マーク付きのカバー、けっこうあるではないか。Yondaマークっていつからあるのか知らないけれど、ずいぶん前に買った文庫にも付いている。とはいっても、腕時計をもらうための目標数にはまだまだ。というわけで、ウチには一冊もない作家のもので、300〜400円台の薄い本(まかりまちがって娘も読むかもしれないから)をどさどさと買った。
『潤一』はそのうちの一冊。
井上荒野は新聞に連載していたコラムを読んで以来好感を持っていたので、いつかその小説を読みたいと思っていた。思いながら、きっと私はこの人の小説をつまんねーと思うだろうな、という予感があった。それで、二の足を踏んでいて、なかなか読まずにいたのだが、最近の文庫って普通に500円とか600円するんだなあまったく生意気な、と本屋でぶつくさいう私の目に飛び込んできた本書は400円であった。
「潤一」という茶髪の華奢な若者とかかわりをもつ年齢も境遇もさまざまな女たちの話がそれぞれ一人称で語られる短編集といった体裁だ。女たちはふとそこに現れた潤一につい手を出してしまう。女たちは主婦であったり職業人であったり未亡人であったり中学生であったりする。潤一とのかかわり方が、読み手に「あ、やっぱりね」と思わせる通り一遍なものといえなくもないぶん、女たちの人生は波乱含みで表情豊かに見えるように思えなくもない。ややこしい書き方をしてしまったが、ひとつひとつの話は、ヴァリエーションをもたせてはいても、恋愛小説によくありそうなシチュエーションと展開で、女たちはそこらじゅうにいそうで、その女の伴侶や恋人や情夫たちもやたらいそうである。
それらの話が潤一という青年の存在で妙な鎖、錆びてはおらずむしろ光沢があるけれども実は脆い鎖、に繋がれていく。潤一は女ひとりひとりの、あるいは話ひとつひとつの強靭な絆の役割を果たすわけでも共通のフィルターやパイプの役を果たすわけでもなんでもない。そういった脆さと危うさ、なんだかわからないけれどありそうな話をありそうにないつながりでまとめあげたところに、この本の魅力があるのだろう。
あるのだろう、といってしまったがそれは、実はけっこう面白く読んでいたのに、最後の「潤一」の章で興醒めしてしまったからだ。潤一という中心人物をそのまま蜃気楼のようにしたままでは、小説を締めくくることはできなかったのだろうか。
うんうんと共感できたのは「環」「美雪」「香子」。
肩透かしを食わされた感じは「あゆ子」「瑠依」。
ほんとにいるんだろうか会ってみたいもんだ、などとタイトルに書いたけど、今ふと、私の記憶のなかの「潤一」がよみがえった。私の「潤一」は、別れ際に確かこういった。「またきっと、会えるからさ。……会えねえか。な」
《記憶には油断できない。記憶は、ときに人を謀ることさえあるような気がする。》(「あゆ子」61ページ)
私はきっと、未練がましい顔で彼を見つめていたのだろう。元カノへの思いをふりきれないという彼を軽くあしらうつもりだったのに。私の「潤一」は小説の潤一とは違って茶髪でもなかったし浮いた感じもなく実直な印象だったけど、たぶん、芯のところでは潤一に似ている。最終章の「潤一」を読んでそう強く思った。
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早いもので2009年になってもうひと月が過ぎようとしています。
新年の休暇はどのように過ごされましたか。
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なぜかというとPCを新調したのですが、旧PCのデータを全然取り込めないので、ブックマークをゼロから構築しているんです……。こういうのを私たちの土地ではどんくさいしんきくさいめんどくさいといいます。