ジャンは自転車通勤である。道路が碁盤の目をしたこの町に慣れた頃から、目的地までの道をジグザクに選んだり、大通りだけを走ったり逆に裏通りばかり走ったり、と通勤路を変えて楽しんでいたが、ここ一年ほど、行きの三分の一は固定されるようになった。毎朝、一つ目の交差点は必ず同じところを通ることにしている。信号待ちをしていると、通りの向こう側で同じように信号を待っている人がいて、その人とすれ違う一瞬が好きなのだった。その人はいつも何か考えごとをしているような、信号を見るでもなし、歩行者を確認するでもなし、青に変わるとおもむろにペダルを踏んで、少し諦めたような表情になる。きっとこの交差点を越えたら職場が近いのだ、ジャンはそう思っていた。やだなあ今日もまた一日仕事だわ、なんてきっと思っているのだ。声をかけたいけれど、ジャンのほうも十時から始まる朝一番の授業に遅刻するわけにはいかないので立ち止まってナンパしている場合ではないのだ。数年前から教師として登録していた語学スクールで、二年ほど前にレギュラー教師の枠をもらった。レギュラーになると時給も上がる。自分の好きな時限にレッスンを入れ、それを選ぶ生徒を相手にすればいい。そういう権利を得るまでは大変だった。あくまで生徒の希望日時が優先で、その日時に教師のほうが合わせる、あるいは空いている教師が担当する、そんなシステムだった。馬鹿馬鹿しい、と辞めていく同僚の外国人もいたが、ジャンは踏ん張った。自分で口コミで探した個人レッスンの生徒らを掛け持ちして生計を立てた。そうするうち、スクールにはジャン先生でないとダメという生徒が増えてきたのである。
毎日のリズムができて、余暇もでき、いろいろなことが捗るようになった。ようやくこの国、この町の人間になれた気がしている。毎朝すれ違う彼女が心なしかいい表情をしていると、ジャンもその日一日、調子がいい。
あなたとわたしの愛のように。