ノートに漢字を書く私にゾランは「君、それは絵だよ」と言ったことを思い出したの巻2009/06/10 17:52:25

カフェ・アピエにあった骨董ミシン。垂涎もんである。骨董品に興味はないが、ミシン、大好きなの……。


『ぶらんこ乗り』
いしいしんじ 著
新潮文庫(2004年)


お気づきの方もおいでかもしれないが、本日のわたくしはほとんど仕事になっていない(笑)。
明日しめきりの企画書と原稿が私の頭の中で形をなさないまま山になっている。最初の1行、とっかかりのひと言をつかめたらあとはすすすすすっと行くんだけど、それがつかまらなくて、外は雨だし、まったくもう、掃除してないドブみたいに溜まったまま吐き出せないんである。

気晴らしにちょこちょこよそ見をしにいってはなんのかんの書き散らしたりして、たちが悪いのである(笑)。

だからというわけではないが、やっぱ読まなきゃよかったよ、という感想をもった本について書き殴ることにする。

本書はいしいしんじのデビュー作だそうである。
私は前に、彼の『トリツカレ男』を大いに楽しんだ。ブログにも綴ったけど、この『ぶらんこ乗り』はずっとずっと前に一度図書館で借りて、読めないでいるうちに期限が来て返してしまったのであった。思えば、あのとき『ぶらんこ乗り』を読んでいれば、私は二度といしいしんじに近寄らなかったかもしれなかった。不思議なもんである、本との縁も、人との縁も。
先に結論からいってしまうと、『ぶらんこ乗り』は疲れる。押しつけがましいところがちっともないせいか、よけいに疲れる。いろいろ見せられて読まされて、「で、どこへいけってゆーんだよ」という気分にさせられるのである。

なぜそんなに疲れるのか。
複雑な話ではない。こみいった構成でもない。
語り手「私」には天才の弟がいるが、この弟が幼いくせにいっぱい「お話」を書くんである。それはいいとして、そのお話がことごとく平仮名ばっかりで紹介されているのである。弟が書いたままを表現しているということだろうが、たいへん読むのがしんどい文面なのである。

平仮名ばかりだと読むのに疲れるのか、というと必ずしもそうではない。ひらがなで、やまとことばばかりで、書いてあるのであればべつにどうってことはないはずである。谷川俊太郎の詩の例を引かなくても、子どもの絵本やお話の本はひらがなばかりである。それを大人が読んで読みにくいとは思わないであろう(モノにもよるけど)。
『ぶらんこ乗り』の作中物語として登場する天才の弟が書くお話には、かなり漢語が混じっていて、それを平仮名にしているもんだから読みにくいのである。
漢語の中には、幼少時から、つまり言葉を覚えたての最初から、慣れ親しむ熟語もある。ほかに言い換えのきかないような言葉がそうである。
んーと、たとえば……せんせい、かぞく、せかい、ないしょ、ひみつ……

《ぎょそんのみんなはふねをくいにしばり、やねをしゅうぜんし、とぐちやかべにいたをうちつけました。》(15ページ)

《「くうちゅうぶらんこのげんり」
 (……)さいしょはたいしてへんかはでません。けれどそのうち、ふとしたひょうしにてあしがさかさにまがってる。(……)》(20~21ページ)

ひとつめの例は、引用箇所の前に「みなと」という言葉が出ているので、「ぎょそん」でなく「むら」でよいと思う。また、「しゅうぜんし」より「なおし」のほうがいいと思わない?

二つめの例では、「げんり」「さいしょ」「へんか」「ひょうし」。すべて和語で表現すればもっと見やすい。言葉を言い換えることで前後の表現は当然変わってくるが、物語の流れからしてその点はあまり重要ではないはずだ。「げんり」の和語はなんなのよといわれると困ってしまうが、「くうちゅうぶらんこのげんり」と題されたこのお話が「原理」について語っているとは思えないので「くうちゅうぶらんこのしくみ」とか「ひみつ」とかならもっと可愛いのに、と思ったのである。「はじめはあまりかわりません。けれどそのうち、ふとしたはずみに……」でもいっこうに問題ないと思われる。
また、弟のお話は言い回しや文章構造もいささか大人びているので、ひらがなを覚えたての幼児なんぞが本書の「弟のお話」の部分だけを読んでも絶対ちんぷんかんぷんのはずである。

弟の天才性を強調するために、漢語を多用したのかもしれない(だとしても納得しないけど)。もちろん、熟語が平仮名になっているからといってまったく意味がわからなくなることはないし、多少の読みにくさはクリアできるさという人には苦でもなんでもないだろう。
若干イラつきながら何とか読み終え、物語『ぶらんこ乗り』そのものはけっして悪くないのにもったいない、と思ったのだった。だけどそれでももう読みたくないし、読まなきゃよかったと正直思った(これじゃなくて他の本にすればよかった)。
思えば、前に読まずに返却してしまったのも、ぱらぱらと開いて「うっ」ときて閉じちゃったような、そんな気がしてきた。

私は、ひらがなが好きである。ひらがなで意味が通るところはひらがなで書くのを好む。けれど故事成語や維新後に渡来した西欧語からの翻訳語、たとえば法律とか、議会とか、鉄道とかの類だけど、そういうのは幼児向け絵本でも1年生の教科書でも「漢字表記でルビを振る」方針でいくべきだと考えるほうである。
ひらがなは文字で、漢字は絵として認識するのが、日本の子どもたちの正しいはじめの一歩だもんね。

初めてヨーロッパを旅したとき、日本のことを全然知らない欧州人ばかりに会ってたいへん愉快だった。ブラチスラヴァで会ったゾランとスコピエで再会した。私が旅ノートを取り出してメモしているとおそるおそる「……それ、字?」と訊いた。字でなかったらなんだと思うんだよ(怒。笑)という私に絵じゃないのかなってさ、と彼は真顔で言った。ハウスはどう書くのと聞かれて家と書いたらすごく感動された(笑)。いうまでもなく私は心の中で野蛮人めと舌打ちしたのである。若かった。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2009/06/11 23:07:18

 おっ ハニー

 日本語の包容力は、日本人の特性そのもの。しかしその特性が仇になって特徴がないというか、個性が乏しいということか。 意識して日本語を表記すると、逆に宙に浮くみたいな。

 なんか面白いコメントできなくてごめん。

 宇宙の愛にいつも包まれていますように。私の愛がいつもあなたに届いていますように。

_ midi ― 2009/06/12 10:01:35

日本語って、外国の人から見て「マスターしとくと便利だよね」とは絶対いわれない言語ですよね。私たちにとってたぶん英語はそういう認識のもと、必修科目になってるんだと思うけど、日本語はそうはならない。もちろん、日本にきたら「マスターしとくと便利」のレベルを超えて役立ちますがね、じゃ、どの程度できるようになったら「マスターした」っていえるんだろう。
『ぶらんこ乗り』の弟のお話は、日本語習いたてのガイジンには絶対理解できない。ウチのジャンにも無理よ。

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