みんなが感動することに同じように素直に感動するのもいいけれど、みんなが素晴しいと言うものを同じように素晴しいとは到底思えないという感性も必要であるの巻 ― 2009/06/04 19:19:29

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『西の魔女が死んだ』
梨木香歩 著
新潮文庫(2001年)
「お母さん、みんなが『西の魔女が死んだ』はすごくいいっていうねん」
「ふうん」
「今度図書館行ったら借りてきて」
「止めとき。『オズの魔法使い』読むほうがええ。西の魔女、でてくるやん。最後死ぬやん」
「そやけど、違う話やん」
「あ、知ってた?」
「当たり前やろ」
「読んだ人から話聞いとき。わざわざ読まんでもいいって。ほかに読まなアカン本はいっぱいあるで」
「なんでぇ」
まさか『親指さがし』のほうがはまし、とまでは絶対いわないけれど(笑)、『西の魔女が死んだ』を読む時間があったらほかに読んでほしい物語はいっぱいある、というのは本音だ。私はずいぶん昔に『裏庭』を読んで以来申し訳ないけど梨木香歩の作品に先入観をもってしまって近寄れなかった。『西の魔女が死んだ』の評判は知っている。私の友人も、信頼できる筋も、読んだ人はたいていよかった、感動したという。だからたぶん私も、『裏庭』がどうあれ、それはそれとして、『西の魔女が死んだ』を読めば普通に感動するかもしれない。そう思うとなおさら読みたくない。……天邪鬼のようだが、こういうのがベストセラーやロングセラーに対する私の場合のごく普通の反応である。であるからして、ことさらに『西の魔女が死んだ』だけを毛嫌いしているわけではない。しかし、本書の場合はそういう私の性格に加えて、ネーミングや登場人物設定から『裏庭』と同じ、自分とは相容れないなんらかの匂いを感じて本能的に避けていたのである。
そうはいっていても、案の定、主人公と同じ年頃の中学生たちの間では、とくに女子生徒の間では絶大な人気があるらしい。本好きな子はすでに小学校時代に軽くクリアしている。中学1年生のとき、クラスメートのさくらちゃんから、さなぎは『西の魔女が死んだ』の単行本を借りてきた。イケズな母が図書館で借りてきてくれないから(笑)。
「読んだ?」
「うん、読んだ」
「どうやった?」
「さくらが、すっごぉくいいで、感動するで、絶対泣くで、てゆうてたけど」
「けど?」
「どこで泣くのかわからへん」
さすがは私の娘である(万歳三唱)。
以上の出来事は去年の夏頃だったと思う。
さくらちゃんは中学校に入ってから仲良くなった子で、四人きょうだいのいちばんお姉ちゃんであるせいか、ウチの子よりずっと小柄で丸い顔があどけないのに、とてもしっかり者で頼れる存在である。昨年度一年間はクラスのいろいろな活動でさくらと一緒に行動し、さなぎはずいぶん彼女の世話になり、また互いに信頼関係も築いたようである。2年生になってクラスが分かれたが、相変わらずよくくっついているみたいだ。
いつかも触れたが、娘はとても「昭和な」国語の先生を慕っているので、よく読書のアドバイスを受け、図書室で先生の言にしたがって本を借りてくる。先日も文庫を何冊か持って帰ってきた。そのなかにまたしても『西の魔女が死んだ』があった。
「あれ、また西の魔女」
「うん」
「読み直してみようという気になったのはなぜですか、お嬢さん」
「前は、さくらに早よ返さなあかんてゆうのもあったし、なんかさささっと読んで……何が面白いんかなー泣けるんかなーってわからへんかったし」
「じっくり読んだらまた違う感動を得るかもしれないというわけですか」
「映画になったって、聞いた」
「うん、西の魔女=おばあちゃん役した女優さん、きれいな人やで」
「え、観た?」
「ううん、雑誌のインタビューを読んだん」
「ふうん……映画になるくらいやし、やっぱし感動的なんちゃうかなあ……」
そんなもん、ヴィジュアル化しようと思ったらなんだってできちゃうんだよ君、『親指さがし』だって映画になるんだよ(ってもういいってか)。
という発言は控えたが、何にしろ、「私の読みが浅かったのか」と疑問を持ち、再読する気になったことじたいは悪くない。娘は『西の魔女が死んだ』を通学リュックのポケットに入れて持参し、読書タイムだけでなく休み時間にも読んでいた。
「みんな、ようそんなん学校に持ってくるなあ、ってゆうねん」
「なんで? そんなヤバイ読み物か?」
「その本は、ベッドの横にタオルと一緒に置いといて、夜寝るときに泣きながら読む本やって。机に向かってクールぅに読む本と、ちゃうねんて」
「ぎょえー」
「ぎょえー、やろ、ほんまに」
「で、さなぎは? 昨日の晩は寝る前読んでたやん」
「うん。そやけど、タオル要らんし」
さすがは私の娘である(万歳三唱の三乗)。
『西の魔女が死んだ』は、想像力を働かせ、深く読み込まないと味わえない物語だと思う。中学になじめず不登校になる少女、田舎で独り暮らす英国人の祖母、大好きだったのにその祖母と喧嘩別れしたまま永遠に別れてしまうことになる……という設定は、小中学生をジーンとさせるには十分である。しかしながら著者の本意はもちろん別のところにも、あっちにもこっちにもあるのだろう。主人公の少女が関わる、魔女こと祖母や母はじめ幾人かの大人たちの描かれかたは、かなり思考をめぐらし想像しないと読者に響いてこないし、思わせぶりなエピソードの多くは解決(あるいは終結)を見ないままほったらかしにされる。あとは読者に委ねられるわけである。
けっこう読解力のある大人でないと、物語として面白いと思うかどうかも、作品としていいも悪いも語れないのではないか。子ども目線で描いているような体裁をとりながら、大人が見下ろしながら書いたわね、というのが率直な感想である。
また、英国暮らしを少しかじっていないとある意味隅々まで堪能できないと思われる。著者は英国文化体験者らしいので、『裏庭』もそうだが「イギリスの香りをちょっぴりお届けします」的な、「隠し味の押しつけ」を感じ、それを味わえないと楽しめないんですよお客さんといわれているように感じてしまうのである。いや、天邪鬼なんですわかってますよ。
ま、早い話が、私が大の英国嫌いなので好かんのだ、というだけである(でもけっして英文学嫌いではないんだぞ、最近のは読まないけど)。これが、もっと別の文化のエッセンスが振りかけてあったなら異なる感想を持ったであろう。たとえば憧れの島マダガスカルとか、サリフ・ケイタの国マリとか、死ぬまでに絶対訪れたいブータンやネパールとか……の匂いがぷんとする物語だったら、単純短絡な私は手放しで絶賛したかもしれないのである(というか、絶対絶賛する)。
もとい。さくらちゃんはじめ、娘の周囲の中学生たちがどこまで本書を読み込み、どこにどのように深く感動し、胸を震わせたのかはわからない。しかし、この年頃の少年少女は人の意見になびきやすい。長いものに巻かれやすい。情報に翻弄されやすい。みんながよいというものをよいと思い込みやすい。
それが絶対ダメだとはいわない。周囲に素直に同意できるのも重要な「能力」だが、違和感を感じ異を唱えることができる「心意気」も必須。大人になっていく過程でしっかり培い、両刃の剣の如く使いこなしてほしいのである。
ところで、このさくらちゃんは私が絶賛した『トリツカレ男』に大感動したというのである! さくら、君はワンダフル!
ウチの娘はというと、私があまりに勧めるので読んだものの「うーん、なんかイマイチ」とかなんとかいって面白いといわなかったのである。
……ということは、さなぎの天邪鬼ぶりはちと極端、ということになるのか? いやそれより、やっぱし単に「読めてない」だけなんかい……?
コメント
_ 儚い預言者 ― 2009/06/07 00:58:50
_ midi ― 2009/06/08 13:57:15
もしも、といろいろ想像を巡らすことって素敵ですよね。ストーリーテリングは「もしも」が原点。
_ よっぱ ― 2009/06/11 19:19:11
_ midi ― 2009/06/11 20:15:09
確かろくこさんは素直に読んで素直に感動してましたよ。
たぶん、登場人物に肉親の誰かを重ねることができれば、味わい深さはぐんと違う。ま、これに限らずなんでもそうですが。
これでも私、かなり控えめに書いてます、この本について(笑)
想像力を働かせて深読みすれば面白いかも、みたいに書いたけど、私には無理だった(笑)ひっかからないんだもん、ぜんぜん。説教くさくって、やだ。はいはいそーですか、わかりましたーってかんじで終わっちゃった。
_ ukihaji-12 ― 2009/06/11 22:09:56
_ midi ― 2009/06/11 22:40:14
本当に、早いものですね。考えるともう中学校生活の半分近くを経過しているんです。小学校の六年間もひゅっと過ぎてしまいました。思えば最初の保育園の五年間がけっこう長かった……でも、その前の、生まれてから一歳までの一年間が、私には百年の重みがあります。はあ、ほんとにいやんなりますねえ。
とこんなことを言ってるうちに、ひゅっと、娘は免許の取れる年になり有権者となり飲酒可能な年になり、とっととどこか遠くへ行ってしまうんですねえ。
愛とは不思議だ。すべて知っていながら、明かさない。そして明かしていながら、語らない。語っていながら知らないふりをする。
この夢の世界で、淡くかつ強烈で、広くそして深い。夢見する旅の初めから終りまで、真実は寄り添い、事実の舞いを鼓舞しながら見守っている。
感じることの、触れることの奇跡。それがこの世界に生きることの特権だろう。
もしあなたがいなければ、世界はなく、わたしもいないだろう。愛と同じように。