時はめぐりー♪また夏が来てー♪あの日と同じ流れの岸ー♪瀬音ゆかしき 杜の都~♪あの人は もういない…… ― 2009/07/17 17:37:46
年中行事というものは、いいものです。めぐる季節は気候の変化で嫌でも体が知りますが、寒暖の訪れと前後して、あちこちで何とか祭りやホニャララまいりとか、なにがし祭、ぺけぺけの儀などと、なにかしら節目があります。この時期になれば決まって聞こえてくる音やざわめきがあり、誰に言われるまでもなくいそいそと準備する。申し合わせたように雨が降り、梅雨が明け、葉が色づき、雪が降る。
去年は宵山の夜を、お稽古帰りの娘と歩きました。中学生になってレッスンが長いので、9時半以降にしか帰宅できない娘は、友達と出かけるのもままなりませんが、人一倍祭り好きですから、とりあえず贔屓にしている山鉾めぐりと屋台の冷やかしをしないことには夏が始まらないといった感じです。
昨年暮れ、草間時彦のこの句に胸が震えました。
息子が押す正月二日の車椅子
私の母の、十五も歳の離れた姉である伯母は、孫たちの世話をさんざんして、長女ののぶちゃん(私の従姉)と気ままな二人暮しをしていました。けれどここ二、三年、めっきり体力も衰えて、軽い脳梗塞を起こしたこともあり、部分的に体の自由が利かなくなって、車椅子を利用するようになっていました。ピアノ教師ののぶちゃんはレッスンの合間を縫って伯母の車椅子を押し、きょうだいや親戚や友達の家を訪ね歩きました。
伯母はいつも朗らかで、たとえば入学や卒業や合格など、自分の孫ばかりでなく甥や姪の子どもたちの節目にも必ず祝いを届けてくれました。私の父が亡くなったときは、末妹である母を頻繁に訪ねて(まだ自分の足で歩けていましたので)、自身も早くに夫を亡くしていたこともあり、残された者の寂しさを慰めてくれたものです。
しかし昨年暮れに、急に容態が悪くなりました。そのひと月ほど前にまた小さな脳梗塞が起きて、言葉がうまく話せなくなっていました。しかし体全体は心配するほどのことはないと聞いていたので皆楽観していたのでしたが、危ないとの報が入り、母は息子(私の弟)を伴って駆けつけました。
命は取りとめ、峠も越えたとやらで、一同安堵したものの、やはりまったく会話はできなくなり、自分の力でものを噛んだりできなくなりました。点滴や管で流し込む食事になるとけっきょく寝たきり、ということになります。長男のカズちゃんは穏やかに最期を迎えられる施設を、といったそうですが、長女ののぶちゃんは在宅介護にこだわりました。車椅子になってからもずっと一緒に暮らしていましたから、多少のことなら私が面倒見てみせる。そんな気持ちだったようです。カズちゃんの奥さんのゆみこさんも、のぶちゃんに賛成して手伝ったそうです。遠くへ嫁いだ次女のふみちゃんも時間の許す限り旦那さんと一緒に会いに帰りました。一番下で次男のユウちゃん夫婦もなんとか時間を作ってのぶちゃんに協力しました。
こうして、伯母の介護はのぶちゃんを中心にうまく回転し、半年を経過していたのです。
でも、7月12日の日曜日の朝。美術展を観にいこうとだらだら着替えやら化粧やらしている私と娘に、母が「ちゃっちゃと行って昼までに帰っといで、冷麺しといたげるし」などと言ってますと、突然電話が鳴りました。
受話器を取った母の顔色が変わります。「えっ……わかった、すぐ行くわ」
電話の主は、母の一番上の兄嫁でした。母にはきょうだいがたくさんいるのでややこしいのですが、実家の跡を継いだのは二番目の兄で、一番上の兄はよその町で教職を全うした人です。姉は、今話題にしている一番上の姉を筆頭に三人います。二番目の姉は認知症のためグループホームの世話になっており、私の従姉たちが交替で様子を見てくれています。母といちばん歳の近い姉はとても元気で、夫を亡くしたあと、息子も遅まきながら結婚したので一人暮らしを謳歌しています。そのすぐ上の姉に、母は電話しました。
「さよ姉ちゃん、いよいよあかんらしいて、今あや子姉さんから電話あったんや」
すぐ上の姉・じゅん子伯母のところにもすでに連絡はあったらしく、二人で待ち合わせて運び込まれたという病院に行くことに決めました。
私と娘はとりあえず予定どおり美術展へ出かけ、予定どおり昼頃帰宅しました。すると待っていたように家の電話が鳴りました。母でした。伯母は亡くなりました。
六曜の関係で火曜日に通夜を営みました。
火曜日は祇園祭の宵宵宵山。私の娘はお稽古を終えたあと「教室の友達と歩いて見物してくる」予定でしたが、お稽古も休み、約束もキャンセルすると自分で決めました。
娘には、さよ伯母について大きな思い出も会話の記憶もありません。ただ、やたらたくさんいる大伯父大伯母大叔父大叔母のなかで、さよ伯母は、自分の祖母にいちばん顔立ちが似た人だったので、姿はよく覚えていたのです。
そうなのでした。きょうだいの中で一番上のさよ伯母と、末っ子の私の母は、瓜二つといっていいほど似ていたのでした。
さよ伯母は親戚の間でもたいへん慕われていたので皆悲しみましたが、誰もが口にしたのが次のようなフレーズでした。「まあ、しゃあないわ、歳も歳やったし。それにみっちゃんおるがな。同じ顔やがな」
みっちゃんは私の母です(笑)。
たくさんのきょうだいと、その息子、娘、またその子どもたちが大勢集まった通夜となり、賑やかさに伯母も喜んでいたに違いありません。
伯母を見送った日の夜、私と娘は、ほんの小一時間ほどですが祭りの夜を歩きました。
天寿を全うした伯母は、もうとうに極楽の、雲のじゅうたんの上か蓮の葉の上にでも寝そべって、下界の祇園囃子の音に耳を傾けていることでしょう。
伯母ちゃん、バイバイ。
コメント
_ 儚い預言者 ― 2009/07/17 18:46:08
_ midi ― 2009/07/17 20:49:25
初めて脳梗塞を起こしたときに、たまたま私の勤務先近くの病院に入院したので、そのときは飛んで見舞いにいったんですが、結局、じかに会って会話をしたのはそれが最後になりました。もう2年くらい前かな。いつでも会えると思っていて、やっと仏さまになってから会うなんてね。会いたい人には会いたいと思っているうちに会っておかないと、後悔しますね。
思い出せばいつも笑顔だったというような人は、必ず慈しみという愛の宇宙に包まれているでしょう。合掌。