なんでこんなもの「本」にするのよっ(怒)2010/05/27 18:15:24

『冷たい雨』
北川悦吏子著(※ノベライズ:河野恵子)
角川書店(角川文庫/1999年)


冷たい雨、という言葉で私が思いだすのはシンガーソングライターのイルカが歌った『いつか冷たい雨が』という歌である。中学生の頃、下手なギターをジャカジャカ弾いて友達と夢中になって歌った。イルカは『なごり雪』が売れてから大人の恋の歌をよく歌ったが、それ以前は『とんがらし』『サラダの国から来た娘』など片思いをする少女の心を表現したものが多く、でなければ草花や動物を愛でる歌をよく歌った。『いつか冷たい雨が』もその精神は『てのひらを太陽に』と一緒である。僕らはみな同じように生きているんだ、という。歌詞は今読むと若干ナイーヴだけれど、ストレートで邪心がない。私はこの歌がほんとうに好きだった。

♪雪が降る駅の片隅で
 誰にもいたずらされないように
 うずくまっている年老いた犬 (……)

 広い道路の真ん中で轢かれてしまった三毛猫
 その上を何台もの車が通りすぎてゆく
 思わず目を閉じてしまった私を許してください (……)

 (……)
 人間以外のものたちにももっと優しくしてください
 同じ時を生きているのだから
 朝がくれば夜もくるし
 生まれてそして死んでゆく
 私が土になったらお花たちよそこから咲いてください ♪

(©2001~2009 Interrise Inc. All Rights Reserved)



新学期早々、娘が学校から文庫本を持ち帰ってきた。近頃よく本の貸し借り(というか、一方的に借りているというか……我が家にはさなぎの友達に貸すような頃合いの本がない)をしているのでてっきり借りてきたのだと思ったら、
「お母さん、本、もらってきた」
「もらった? なんで? 誰に?」
「○○がもう要らんからっていっぱい持ってきたのを、みんなで取り合いっこして、ウチはこんだけもらった」

○○というのはクラスメートだが、私の知らない子の知らない呼び名で、しかもそれっきりさなぎの話題に出てこないので忘れてしまったんだが。こんだけもらった、といって彼女のリュックから出てきたのは文庫3冊。

「よしもとばなながあったから、それ欲しい!ってゆーて、その近くにあったのもついでにもらった。よしもとばななのほかは、そやからぜんぜん知らん本やけど」

ゲットしたよしもとばななの本は、カバーが色褪せてしまった『ハチ公の最後の恋人』だった。
そのほかについでにもらったという本2冊がいったい何か、ご想像いただけるであろうか。
うち1冊はなんと『陰影礼賛』by谷崎潤一郎(爆)

「あのさあ、なんでこれ選んだん?」(笑いを抑え切れない私)
「選んだんと違て、適当に取ったんやってば」
「題名とか、著者名とか、聞いたことあるやろ、これ」
「ない」(きっぱり)
「で、いずれはこれも読むつもりやろ?」
「ぜんぜん。漢字多そうやん題名も四字熟語やし。お母さんにプレゼント、と思て」
「それはそれは、ほんまに、ありがとう(笑)で、こっちは? これも適当に取ってきたん?」
「うん。表紙が可愛いのもあって」
「なるほど」



そう、表紙が可愛いのである。赤いクレヨンで塗りつぶされた空間にうなだれる白い犬。ヘタウマ線画といったノリだけど。なんとなく犬の表情もユーモラスかつ切ない。塗り残されて白く浮き上がる「冷たい雨」という手描き文字のようなタイトル。上手にできた表紙カバーである。
開くと、そのカバー袖にはべっぴんさんの写真。著者の北川さんである。シナリオライター。
ふうん。

軽めの恋愛コントみたいな読み物が続く。
どこかで聞いたような話、よくありがちな展開、誰にでもいそうな友達のような登場人物、どこででもしてそうな恋バナ。
ちゃっちゃっちゃと読めてしまうので難癖つけるのも面倒なんだが、いくらありきたりの素材でも、もう少し描きようがありそうなもんだ、とは誰も思わなかったのだろうか、編集者とか出版社とか。
恋愛物語が突飛な設定である必要はない。そこら辺にいる男女。にわか雨のようにふと訪れる恋。実を結ぶこともあれば悲恋に終わることもある。たいていの恋物語がそうなのだからあとは情景描写とか会話の妙とかエピソードの挿しかたとか、そういうもんが物語に厚みをつけていくのだと思うけど。
よく見れば、すでに短篇ドラマ化された北川さんの脚本を河野さんという人が小説化したという注意書きが。
「小説化」というならもう少し小説らしくしてくれませんかね。
脚本の会話部分とト書き部分をつないでなだらかにし、放送されたドラマのビジュアルを文字化して補填した。以上。
という感じである。
北川さんは90年代、脚本家として一世を風靡した売れっ子だったそうだ。しかも、本書の土台になった脚本は、ユーミンの楽曲が発想源だそうだ。ドラマも見なければユーミンも聴かない私は、その90年代を代表するヒット作品を何ひとつ知らない。しかしドラマとしてヒットしたということは脚本は優れていたのだろう。松任谷由実の歌が時代と世代を超えて支持されているのは周知のとおりで、短い歌詞でも彼女がメロディーに載せてあの声で歌うと、歌詞が描く世界は無限大に広がるかに思える(からあんなにファンが多いのだろうと思う)。
だから、それで、いいではないか。
歌は歌のまま、置いとけば。
百歩譲って、ユーミンの歌をネタにしたドラマで話題をさらおうという魂胆みえみえ企画も有りだろう。しっかりした脚本にトレンディな俳優が演じて視聴率を稼げたら、それも、それでいいのである。
そこでやめておけば。
なんでまた「ノベライズ」なんて(わざわざカタカナ語化して)作業をするんでしょうか。
これ、要りません。

小説を原作にして脚本におこし、映画やドラマをつくることは、たいへんな仕事であると思う。小説世界を見事に映像化できている、という評判を受けたときには、携わった人たちはどんなにか幸福で、苦労の報われる思いがすることだろう。逆に不評に終わることもあるが、それはやはりこうした仕事がいかに難しいものか、ということである。

たとえば話はそれるが、『ダイブ!』だったっけ、森絵都の小説が原作だけど、映像的によかったのは最初のほうだけで、役者陣の若干の力不足と台詞の作りかた、出しかたにつっかえ感があって作品全体としては少々イラつく展開だった。そのせいで物語もつまらなかった。なにより、飛び込みというあまり見る機会のないスポーツだから、小説を読んで想像を膨らますほうが、選手の体躯や跳躍の美しさを堪能できる。そういう類いの小説である。したがって、難しい作業を重ねて無理して映像化する必要があったとは思えないのである。果たして映画館はがらがらであった。

で、である。脚本やドラマや映像からの小説化(ノベライズ)である。
やめようよ。
小説の映画化には好評・不評があるけれど、その逆をやった本の好評・不評なんて聞いたことない。つまり、どうでもいいのである。問題外。関心外。世の中になくてもよいもんなのだ。

本書に収められた中の、『冷たい雨』というタイトルのついた一編からは、「雨の冷たさ」は微塵も感じられなかった。小道具として雨は出てくる。このストーリーの鍵なのに、読後、そのことを忘れさせられる。ここまで何も印象に残らないような文章を書くのもたいがいではない、と思う。

このノベライズ作業だって大変なお仕事だったであろう。河野さんはそれで何がしかの報酬を得られたのであろうから、そんな仕事もあるんだよね、チャンチャン、で終わればいいじゃんか、といわれても仕方ないんだけど。というか、河野さんはノベライズでなく普通に自分の文章を書かれたらおそらく一流であろうと思われる。文章自体に瑕疵はないからだ。たぶん説明しすぎているところと不足しているところのバランスが悪いのだ。絵を文章で客観的に説明する(ことはとても難しいが)とすごくつまらなく感じるのと一緒で、説明しすぎる場面は陳腐、説明不足の箇所はわけわかんねー、これが渾然となっているので、けっきょく何だったんですか、状態であるわけだ。いや、たいへんだったでしょうね、北川さんも口を出したでしょうし。私には真似できん。わかっていますとも。

しかし、しかし。出版物にするとこういうふうに形となっていつまで経っても「本」として残るのである。めぐりめぐってこともあろうに我が家に(笑)来たりするのである。こんなもんが、よりによってこの私の目の前に。


私が土になったら
そこにいつか冷たい雨がきっと降り注ぐ
鳥や虫たちが運んでくれるだろう種が落ちてくれる
そうしたらお花たちよ
そこから咲いてください

……なんて、説明のために文を補うと陳腐になるでしょ?


あああもううう。
なんで、なんでこんなもの「本」にするのよっっっ