故障中2010/06/08 17:08:40

何が故障中かというと、この私である。
とはいっても大げさなものでなく、花粉のせいでネジが一本二本落ちた程度のことなので、年中行事である。
花粉が原因で、必ず「一日寝込んでしまう」という日がある。例年それは五月のGW真っ最中に起こる(笑)。ま、GWなんつう時期に行楽地へ出かけたりするような暴挙はもう数十年慎んでいるので、しんどくなるとわかっていてGW中に外出したりすることは、けっしてないのだ。
花粉症を患ってるかたにはおわかりいただけると思うが、症状を予め抑えるために早めに対策を講じるとすると、早い人だと2月の初めから服薬しないとならないだろう。そしてそれは中断することなく継続しなくてはならない。
私はスギに対しては軽症なので、例年ヒノキ対策として3月から薬を飲み始めていた。本当はそれだと少しだけ遅いのだが、とにかく医者に診てもらう時間を捻出するのがひと苦労だから、2月の終わりくらいから「行かなくちゃ行かなくちゃ」と思い始めてやっと3月中旬あたりになって抗ヒスタミン薬を入手する。私の場合、服薬を6月の下旬あたりまで続けるわけだが、花粉症の薬というのはけっこう身体に負担がくる(と思う)。はっきり効果が出なければ三文の値打ちもないので、しっかりと効果が出るようにつくられている。そのぶん、副作用は避けられない。ぎょえーというような副作用は、私の場合はないけど、普段飲み薬と無縁の生活を送っているので、なんであれ内服薬というもんはカラダにコタエルようである。
3月から飲み始めた薬に対してカラダはひと月もすると悲鳴をあげようとする。そもそも、遠いお山から飛んできて24時間浮遊し続ける花粉のせいで、すでにカラダは悲鳴をあげている。花粉飛んでるから、服薬中だからって仕事をセーヴするいいわけにはならない。(なんでならないの?病気だよ、れっきとした。……と思うんだけどねえ)
必死で引っ張って、踏ん張って平気な顔して適当に仕事捌いて、その引っ張り続けた糸が一度ぷつんと切れるのがGWの頃だ。
発熱するわけでもどこが痛いわけでもないが、ただ苦しくてしんどくて一日中寝る。
掃除も洗濯もご飯も全部パス。

しかし、今年は少々事情が違った。
どうもスギさんもヒノキさんも例年のようにダイナミックに飛行しておられなかったようだ。症状が出ないわけではなかったけど、なんとかやり過ごせる程度であった。
それに加えてかかりつけの耳鼻科医院が閉院してしまったので、どうしよう、と思いつつアクションをおこせずにいた。
五月はイネ科の雑草の類いが活発になる。私にとっていちばん手ごわい敵が、実はこのイネ科である。「医者に行かなくちゃ」と危機感を募らせてはいたのだが。
例年になく機嫌よく過ごしたGWが終わり、雨が続いた。
雨があがって、ピーカンの五月晴れ。

きたっ

どうやらカモガヤに代表されるイネ科の雑草がにょきにょきと伸びてせっせと開花したようである(泣)
朝から晩までクシャミしっぱなし、という土日を過ごし、意識朦朧としたままただ座っているだけという月曜日を終え(そんな状態でもこの日はオフィスにいなくてはならなかった)、翌火曜日、とにかく這うようにして出社したが。

「すみません、早退します」
「まあ、どうしたの」
「眼も鼻ものども機能しないんです。どえらいミスをしないうちに」
「まあまあ。そんなにしんどいの? 気の毒ねえ」
「今日特効薬もらって、明日必ず復活しますので、すびばせん」
「あらあら、もうしゃべらなくていいから、早うお帰り」

娘の中学校近くに見つけた耳鼻科で診察、「よく効きますからね」と太鼓判を押された薬を飲んだり差したりしている。

クシャミもハナものどのイガイガも改善した。
見た目、別人のように立ち直ったが、実は思考回路は壊れたままである。
「へ」でもない仕事がフィニッシュできず停滞している。
会議討論を録音したテープ(カセットテープですよ、あーた)の中身を誤って消去してしまった。(討論記事はほぼでっちあげで何とか提出)
今週中にお出しします、と約束した「今週」はいにしえの彼方に。(先方が怠惰と重度健忘症を粘土で人形にしたような人なので大怪我はしないで済むと思う)
今日アップ予定のポスターのキャッチコピーがぜんぜん、これっぽっちも思いつかず、ひと文字にすらならないので、目先を変えようと思ってブログを書いている。

故障している間に、世の中ではいろいろなことが起きていて、身内にもいろいろ起きていて、読書だけはハイペースで進んでて、書くことは山ほどあるけれど、「考える」あるいはもっと控えめに申し上げると「思いめぐらす」という行為が続かないのである。
ぐだぐだほげほげと愚痴や雑言を吐いているようにしか見えないだろうけど、この拙ブログだって、いちおう頭を働かせてはいるのである。
いろいろの、起きた出来事ひとつひとつに反応して、思考回路ストップ状態で書けば、非人道的な暴言と、およそ大人の女としてはサイテーな泣き言繰り言に終始して、目もあてられないのである。

ここ数日は、サイードの本を読んでいた。今は亡き、愛しのサイードである。彼が白血病と闘いながら何とか発言を続けていた頃のインタビュー集。彼の死を知ったのはインターネット上でだったと記憶しているが、パソ画面に焦点の合わない視線を投げたまま、私は激しく泣いていた。涙がとめどなくあふれ出て、止まらなかった。あとから思えば、その頃ひとつ恋を失くしてからあまり時が経っていなかったが、目まぐるしい日々を消化するのに必死だった(という状況は今も同じだが)ところが、サイードの訃報によって緊張がいっぽん切れて、こぼれた感情が滝になったのかもしれなかった。
怒涛のごとく喪失感が突き上げて、長いこと、長いこと泣いていた。

泣いた記憶を呼び戻したくて、書架から文庫本を引っ張り出したのだった。(書物の内容に言及し始めると暴言の連続になりそうなので、また今度)

父を亡くしたときは事実の重さに呆然としていて泣けなくて、アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺はショックが大きすぎて涙が出なかった。エメ・セゼールのことは数年前から覚悟していたし。誰かを亡くして泣くということは思っているよりずっと希少なことなのである。
今度、怒涛のごとく泣くときは、喜びで泣きたいなと、故障中の頭で、思う。