C'est vraiment triste une catastrophe comme ça. Je pense à toi et prie pour le Japon. ― 2011/03/13 01:15:15
地震が起きた時、私の町は震度3だったそうだが、私は出張先で取引先の営業さんが運転する車で移動中だったので何も感じなかった。地元に帰りJRの駅に降り立つと、新幹線乗り場方面がただならぬ人だかりで、また人々の表情は一様に険しく、なにがしかの異常事態が起きたということがわかった。間もなく駅のアナウンスが東北に地震があったために新幹線が運休となっていることを告げる。それはもう何度も繰り返されているらしいアナウンスだった。東北って、そんな遠いところの地震のために全線ストップしちゃうなんていったいどんなに大きい地震だったんだろう。とりとめもなく思い巡らしながら帰社すると、東京に家族のいる社員たちが「電話が全然つながらない」といって青い顔をしていた。
東京の混乱ぶりを把握でき、社員の家族たちの安否も確認できたが、インターネットには大津波の映像が配信されていた。それは仙台空港を飲み込む瞬間の映像だった。明らかに悪意をもった黒い泥波が、人間の築いたものを食いつくそうとするかのように、牙を剥いて襲いかかった瞬間だった。
とんでもないことが起きている。
内陸に住む私たちは、紺碧の空と海への憧れは強いがその怖さを想像することができない。波は海底の震動によって巨大になりどんな遠方からでも勢いを保ったまま陸地へ到達し道も家も人も飲み込んでしまえる、そういうものであることに、思いが行かない。
火災も発生した。
1995年の地獄絵のような映像が瞬時にして甦る。
どうか早く鎮火して! などといくら願っても祈っても届かないのだ。
気になるが、金曜は一日出張先にいて、社内での仕事が山のように残っていたので、まずはよそ見をせずに黙々と原稿を捌いていった。
帰宅してマイMacのメールを開けるとフランスからこちらの様子を心配するメッセージが届いていた。
1995年のあの日の翌日も、遠方からたくさん電話をもらった。高い電話代をものともせずに皆かけてきてくれた。数時間もの間まったく電話がつながらなかったので、私も神戸の友人につながらなかったし、私にかけようとした人たちも何度も試みたようで、ようやく私の声を聞いたとたん電話の向こうで大泣きする人もいた。
あの時も、今回も、同じだ。
私や私の町を案じてくれるその気持ちは痛いほど嬉しい。
が、私たちには何も被害がない。
「大丈夫だよ」
とのこちらの声に
「ああ、よかった!」
と心底安堵してくれるその言葉に複雑な気持ちになる。なにも、よくなんかない。問題は「ここ」ではない。何も喜べない。
自分が書くことをなりわいとしていることに、とてつもなく無力感や虚無感を覚える。ここでこうしてぐだぐだ書いていて、どうなるというのだ。誰ひとり救えはしないのである。どんな傷も癒すことはできないのである。何も、前に進められないし、何も、受けとめることができないのである。
身を挺して被災地のために働く人々に、神よ、力を!