Parce que demain se decide aujourd'hui. ...ou demain?2011/04/08 21:04:05


今日、入学式だった。


津波に校舎ごと流されてしまった小学生たちの、また中学生や高校生の、在ったはずの未来を思った。いくら思っても全部を想像できないし、できたところでさらわれた命は還らない。子どもたちの未来はあまりに大きすぎて、明るすぎて、可能性に満ちすぎていて、あまりに多くの未来をいっぺんに喪失した事実が重すぎて、あるはずだった輝きの上限を思い定めることができない。

連日の、報道されることとされないこと。個人的に気になることや、人に指摘されて調べてみたりすること。まだ私の余裕のない頭の中では、いろいろなことが整合しないで散らばっている。遠くにいてさえこうなのだから、渦中にいる人たちはどんなにか不安で落ち着かないことだろう。

小さな遺体の入った棺を抱え、火葬場へ向かう車の中で初めて声を挙げて泣いた人(安置所では遺体を探す人に気遣って泣けないから)。
ずっと、親にも兄弟にも会えないまま、ただ「お母さんへ」で始まる手紙を毎日書き続ける子ども。
子どもの姿は携帯電話にあった粗い画像の1枚だけ、後は全部流されたという若い母親。

地元紙には被災した人びとのさまざまな姿と悲鳴が毎日レポートされる。涙なしで読めないことしばしばだけれど、必ず読む。
無力な自分がほとほと嫌になる時間である。
けれど、報じられないことのほうが、実はずっと多い。
自分自身は壊滅的な打撃は受けなかったにしても、職場が復旧しない人。
自分の被害は少ないほうかもしれないが、それでも従来どおりの日常を取り戻せない人。
大きく、長い揺れのために怪我をし、命に別条はなかったが心身の後遺症に苦しむ人。
こういう人たちの困難や不安にもっと寄り添ってあげたいと思う。被害が軽微であった、とりあえず周囲は復旧した、だとしても、目に馴染んだ風景が一変したことによるショックや、あまりの甚大、壮絶な被害に、「なのに自分は助かってしまった」という思いに苛まれ、命拾いを喜べず、「もっと辛い人がいるんだ」という気持ちから自己の悲しみ・苦しみを飲み込み、押し殺してしまい、心を病んでしまう……。そんなことにならないように、どこのどんな人の言葉にも、耳を傾けたいと思う。


よっぱさんは、かつて文章塾というところで一緒に学んだ仲間である。
よっぱさんは、とても優しい。
よっぱさんが書くのは、ストレートな恋愛物語。お洒落なハードボイルド。登場する男女はカッコよかったり、気障な台詞を吐いたり、でも素直でお茶目で、おっちょこちょいだったり。読む側がすんなり感情移入できるキャラクターを難なくこしらえて、愛を語らせた。

よっぱさんは、あるときこっそり「パッチ」を穿いていることをブログでカミングアウトされた。しかも写真つきで。よっぱさんのズボン下から見えるキュートな(?)ブルーグレーの「パッチ」はとても暖かそうだった。何を隠そう、私も数年前からお世話になっている。仕事着はいつもパンツスタイルだ。パンツの内側に何を穿こうが、顧客にも上司にも関係ないやん。だから、若い頃穿いていた派手なプリント柄のスパッツを、「ズボン下に穿くパッチ」に格下げした。20代の頃はそのスパッツにロングTシャツ、足もとはエスパドリーユというのが定番であった。いまそんな格好をしたら娘が一緒に歩いてくれない(笑)。愛着のあるスパッツだからこそ格下げは正解。綿100%でタイツやパンスト穿くよりずっと肌に心地よくて大活躍である。……というようなことを、よっぱさんのパッチフォトを見て思ったものだった。

そんな愛すべきよっぱさんのブログの更新が、いっとき途絶えたことがあった。大事無いことを祈りつつ、ご機嫌伺いの書き込みなどしたのだけれど、大丈夫、よっぱさんはつねづね多忙な人だから、余裕がなかっただけだった。ただ、余計な心配をした私へのコメントレスに、「さなぎちゃんは偉いなあ。おじさんはいつも応援してるよって伝えてください」といったような1行があって、もう、私は穴があったら入りたかった。励ますつもりが、娘を褒めてもらっちゃうなんて。いろいろなことで疲れておられるのに、応援してくれるなんて。根っから優しい人。それがよっぱさんである。


よっぱさんの住む町が、3月11日の地震で大きな被害を受けた。
よっぱさんの正確な住所は知らない。だけど、ひとつも被害がないなんてことはたぶんありえない。もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら。
私は怖くて、しょっちゅう覗くよっぱさんのブログを、覗けないでいた。更新が止まって動かないのを見るのが、怖かった。
その私に、文章塾仲間のおさかさんが、よっぱさんの無事を知らせてくれた。


よっぱさんの部屋はめちゃくちゃになったそうだ。
ライフラインがストップし、寒いのに、暖かいものにありつけないひもじさ。自分のいる場所のごく近辺の様子しか知ることができない不安……。よっぱさんはひとりでそうしたものと戦いながら、少しずつ、被害の全貌を知り、言葉を失うほどの惨状を目の当たりにする。
いくらクリアに撮影されていても、映像やパソコンの中の写真では伝わってこないその凄まじさ、変わってしまった空気と大地の色と匂いに、愕然とする。


そして、よっぱさんは、優しいよっぱさんは、ウルトラ級の被災者の存在の前に、自分が受けた被害など小さいと、痛みや苦しみを飲み込んでしまっている(ように私には見える)。
こんなとき、被害の大小を比較するものではない。どんな被害でも、受けた人にとっては生涯でいちばんの衝撃だった。痛みだった。そしてそれは続くのである、ずっと。

傷を負った人を、周囲が気遣いいたわり、心配し、声をかけ、なんとか癒そうとするのは、当たり前のことなんだよ、よっぱさん。だから、ありがとうなんて、言わないで。

よっぱさん。
よっぱさんが「偉いなあ」と言ってくれた娘が、高校生になりました。
ありがとうをいうのは、私のほう。
よっぱさん、ありがとう。
よっぱさんの心に平穏が戻る日を、私も待っています。
それじゃ、また明日!