Il y a quelques chose entre nous, la lune et les femmes.2011/07/19 19:38:31

『月の小屋』
三砂ちづる著
毎日新聞社(2008年)


三砂さんは学者だと思っていたが、小説もお書きになるらしい。この本は図書館の「今日返却された本」のカートに積んであるのを見つけた本で、書架に入っていなかったから普段はどこに分類されているかは知らない。だが著者によればここに収められた文章は「六つの短編」で、どれも「フィクション」というのだから、これは小説なのだろう。だから日本現代文学の書架に収められているのだろう。

私は三砂さんを知らないが、かつて購読していた『環』へもときどき寄稿されてたし、愛するウチダとの対談本もあるし、よく目にする名前ではあった。彼女の文章を読んだのは、『環』の何年か前の号だったと思う。(たぶん)水俣に関する特集の中で、石牟礼道子さんを訪ねた折りのことを書いたエッセイだった。その特集に寄せられたさまざまな立場の人のさまざまな文章の中で、三砂さんのエッセイは、どことなく異質だった。学術的なタームはなく、そもそもそういう視線でなく、水俣の幾多の魂の声を全部背負ったような女・石牟礼道子を、まるで後輩女子部員が数年前にインターハイ出場を果たした偉大な先輩を見るような目で、追いかけ、見つめ、その精神性にすがりつき、自分にはない先輩にだけある何かを引っ張りだそうとしている、そんな文章だった。それでいて、いま喩えに出したような体育会系の濃い粘りや熱い情はまるでなく、軽やかでとりとめのない文章だった。

本書所収の短編は、いずれも三砂さんならではの語り口が生きていて、やはり小説というよりはエッセイと思って読んだほうがしっくりくる。描かれている女性たちの存在や物語が事実だろうと虚構だろうと読み手にとってはどうでもよいことだ。語り手は三砂さん自身であり、彼女の視点で相手の女性を見ているからこそ記述された描写である。三砂ちづるでなければありえなかった、それら女性たちとの出会い、会話。
書き手オリジナルの体験に基づくというのであれば、そしてフィクションとして書かれているならそれは小説と呼んでいいのではないか、とおっしゃるかたも居られよう。
私はしかし、たいした仕掛けもなく劇的な展開にもならないこれら短編群を小説と呼ぶことにはかなり違和感をもつ。はっきり申し上げて小説とは認めたくないのである。どっちでもええやん、といいたいところだが、私には、小説を書こうともがき苦しみ、日々創作に果敢に挑んでいる友人たちがいるので、こんなもんを容易く小説と呼ばれたくはないのである。

「こんなもんを」などといってしまったが、じゃあ本書はどうなんだというと、これはたいへんよい本である。とくに女は全員これを読め、といってもいい。べつに小説だと思わなければよいのであって、ある意味そうした曖昧な記述のされかたが本書の最大の長所なのだろう。とにかく読むといい、じつに含蓄に富み、いろいろなこと(けっこう小さいイジイジしたこと)を考えさせられるうえ、ちょっとしたことが体のあちこちにすとん、すとんと落ちるような感覚で読めていく。私もそうだった。ああ、だから私もあんなふうだったんだ。もしあのときこの女(ひと)に会っていれば。というような、読み手が読み手なりの尺度で読み取っていくものは例外なく読み手の心に寄り添う、ある意味介護犬の存在のような沈思でなお頼もしい存在になり、えもいわれぬじんわりした幸福が体の中に充満する、そんな読後感を得る。

『月の小屋』の「月」は月経のことである。
女の体は月の満ち欠けとかかわりがあり、月の満ち欠けは潮の満ち引きと関わっている。それは小さな頃に誰かから聞いた。私は内陸部で生まれ育ったので、潮の干満が幼時の実体験として記憶にない。だからなおさら、あの寄せては返す波を、この世でいちばん美しい造形物と崇めたし、その海の深淵に生命の源を感じ畏敬の念を抱いていた。自分の名に水と海に関わる字があることを誇りに思ったし、だから娘にも同じように名づけた。
月と地球との力の引っ張りあい、潮の満ち引き、月経。産む性である女は、やはりもっと自身の体を慈しまなければならないのだろう。若い女性たちに読んでほしい本である。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2011/07/20 11:47:44

いのちゆらゆら
いのりきらきら
ひとりさらさら
ふたりゆらゆら

行方の知らず、ただ波の奏でる永遠の時を聴く。無意識の深い気づきに、私は漂い、波を追って愛の懐に、自分を沈める。

いのちきて
いのりのゆめの
いきをして
ふたりひとつの
あいをかなでて

どこまでも遠く、果てしない時の、連れ出す波の満ち引き。地の子、月が計る愛の響きに、運命と宿命の旅を、届けている。

記名のない愛の、普遍ないのちが、私の体になった。特別な夢と、象徴からの具現を授かったのだ。

私は謳う。言の葉がいのちを代名して、深い海から、渚に現れた波となったのだ。

天と地のいのちの波、消えない記憶の喜びの舞。新しい命へと。

_ midi ― 2011/07/20 19:27:11

預言者さま、毎度おおきに。

この本、預言者さまたちのように、バリバリ働いてきた熟年の殿方にもぜひ読んでいただきたいと思います。

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