Comme chaque année.2011/07/17 14:34:36

宵山に45万人
「囃子と灯、45万人酔う 祇園祭・宵山にぎわう
 土曜日の宵山となり、見物客の熱気に包まれた四条通。鉾を眺める顔が駒形提灯に照らされ、人波に陰影をつくった(16日午後7時20分、京都市下京区四条通寺町から西を望む)」

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夕べの宵山を報じた京都新聞。
例年のこととはいえ、やはり「週末」がものをいう。すんごい人だった、ほんとに。
(飲み会会場に)たどり着けるんかいホンマにぃ、と毒づきながら(笑)人かき分けながら、でも一年に一度のこの人混みは、快感なの。百貨店とかショッピングセンターとか遊園地なんかの人混みには即刻気分悪くなるんだけど、祇園祭は例外。
気のせいかもしれないが今年は、ここ数年で一気に増加していた、いまいましいベビーカーをあまり見かけなかった。さすがに若いファミリーも学習してくれたのだろう。とにかく危ないのであるからして、小さなお子さんはおんぶかだっこでお願いする。

で、今日はこの炎天下にこれまたとんでもない人出で(警備の皆さんご苦労さんです!)ホントみなさん根性あるよなと思う。

今年は、危険ですからなるべく日傘を閉じてください、という注意のかけ声をよく聴いた。マジ,この人混みで日傘差すなよそこのババア傘で視界遮られるんだよそっちのババアあたしの横にいるババア!骨でアタマ突くなっつーの!と怒鳴りたくなるくらい、これもここ数年で大増加していた。ぎゅうぎゅう押し合いへし合いの中で普通に日傘差して、ほかの見物人の邪魔をして、いったい君に何の益があるというのか。悪いが言わしてもらおう、今日浴びた紫外線がオバサマがたの皮膚に何かよからぬものとなって現れるのは何十年も先なのでございますのよ、こんなこと申し上げては何ですが、その時にご存命なら値打ちもありましょうけど。

快晴の青空の下、多くの見物人が見守る中、無事にすべての山鉾が巡行を終えた。先ほど最後尾の北観音山が本拠へ戻ったのを例年のごとく見届けて、本年も、「私の」山鉾巡行は無事終了。

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ぼろぼろになっていた網戸の網張り替えをしたくて幾年月、だったのだが、手許に残してあった網は寸足らずであると判明し、行きつけのスーパーに買いに走ったが、そこでは取り扱いがなかった。私はどこで、いま手許にある網の切れ端を購入したのだろう? とふと思い出したのは川端今出川のホームセンター。

あかん。今日は行けん。暑すぎる。
しかしこの連休にしてしまわなければ、またこの先数か月、家のメンテなんてできない事態に陥るのだ。まずい。

誰か、もうひとり、私をつくってくれ。クローンでもロボットでもマリオネットでもいい。私の意のままに動くもうひとりの私。

詰まらんことを言うとらんで掃除しよう。

(室温:34度)

Il a l'air faire trop chaud...2011/07/17 20:46:10

ホンマに暑そう(笑)

http://youtu.be/giJOGq4VzvQ

今年もどうもありがとう。

Il y a quelques chose entre nous, la lune et les femmes.2011/07/19 19:38:31

『月の小屋』
三砂ちづる著
毎日新聞社(2008年)


三砂さんは学者だと思っていたが、小説もお書きになるらしい。この本は図書館の「今日返却された本」のカートに積んであるのを見つけた本で、書架に入っていなかったから普段はどこに分類されているかは知らない。だが著者によればここに収められた文章は「六つの短編」で、どれも「フィクション」というのだから、これは小説なのだろう。だから日本現代文学の書架に収められているのだろう。

私は三砂さんを知らないが、かつて購読していた『環』へもときどき寄稿されてたし、愛するウチダとの対談本もあるし、よく目にする名前ではあった。彼女の文章を読んだのは、『環』の何年か前の号だったと思う。(たぶん)水俣に関する特集の中で、石牟礼道子さんを訪ねた折りのことを書いたエッセイだった。その特集に寄せられたさまざまな立場の人のさまざまな文章の中で、三砂さんのエッセイは、どことなく異質だった。学術的なタームはなく、そもそもそういう視線でなく、水俣の幾多の魂の声を全部背負ったような女・石牟礼道子を、まるで後輩女子部員が数年前にインターハイ出場を果たした偉大な先輩を見るような目で、追いかけ、見つめ、その精神性にすがりつき、自分にはない先輩にだけある何かを引っ張りだそうとしている、そんな文章だった。それでいて、いま喩えに出したような体育会系の濃い粘りや熱い情はまるでなく、軽やかでとりとめのない文章だった。

本書所収の短編は、いずれも三砂さんならではの語り口が生きていて、やはり小説というよりはエッセイと思って読んだほうがしっくりくる。描かれている女性たちの存在や物語が事実だろうと虚構だろうと読み手にとってはどうでもよいことだ。語り手は三砂さん自身であり、彼女の視点で相手の女性を見ているからこそ記述された描写である。三砂ちづるでなければありえなかった、それら女性たちとの出会い、会話。
書き手オリジナルの体験に基づくというのであれば、そしてフィクションとして書かれているならそれは小説と呼んでいいのではないか、とおっしゃるかたも居られよう。
私はしかし、たいした仕掛けもなく劇的な展開にもならないこれら短編群を小説と呼ぶことにはかなり違和感をもつ。はっきり申し上げて小説とは認めたくないのである。どっちでもええやん、といいたいところだが、私には、小説を書こうともがき苦しみ、日々創作に果敢に挑んでいる友人たちがいるので、こんなもんを容易く小説と呼ばれたくはないのである。

「こんなもんを」などといってしまったが、じゃあ本書はどうなんだというと、これはたいへんよい本である。とくに女は全員これを読め、といってもいい。べつに小説だと思わなければよいのであって、ある意味そうした曖昧な記述のされかたが本書の最大の長所なのだろう。とにかく読むといい、じつに含蓄に富み、いろいろなこと(けっこう小さいイジイジしたこと)を考えさせられるうえ、ちょっとしたことが体のあちこちにすとん、すとんと落ちるような感覚で読めていく。私もそうだった。ああ、だから私もあんなふうだったんだ。もしあのときこの女(ひと)に会っていれば。というような、読み手が読み手なりの尺度で読み取っていくものは例外なく読み手の心に寄り添う、ある意味介護犬の存在のような沈思でなお頼もしい存在になり、えもいわれぬじんわりした幸福が体の中に充満する、そんな読後感を得る。

『月の小屋』の「月」は月経のことである。
女の体は月の満ち欠けとかかわりがあり、月の満ち欠けは潮の満ち引きと関わっている。それは小さな頃に誰かから聞いた。私は内陸部で生まれ育ったので、潮の干満が幼時の実体験として記憶にない。だからなおさら、あの寄せては返す波を、この世でいちばん美しい造形物と崇めたし、その海の深淵に生命の源を感じ畏敬の念を抱いていた。自分の名に水と海に関わる字があることを誇りに思ったし、だから娘にも同じように名づけた。
月と地球との力の引っ張りあい、潮の満ち引き、月経。産む性である女は、やはりもっと自身の体を慈しまなければならないのだろう。若い女性たちに読んでほしい本である。

C'est fini...2011/07/25 18:37:36

還幸祭。









7月24日の夜、祇園祭の二つめのクライマックスが終わった。
神事・儀式は7月31日まで続くが、ま、これで、今年の夏も終わったも同然なのである。
無事に滞りなく事が運んで、本当にありがたいことである。
神輿に向かってみな柏手を打ったが、想いはいずこへ。
私は愛する人々の健康と明るい未来を祈ったよ。あなたのことも、あなたのことも、あなたのこともね!

Comme ça, il faut qu'on soit en colère, non?2011/07/29 01:40:27

ひとつ仕事が佳境。とにかく、なんだってコイツらこんなに仕事しないんだろう、とそのデキなさに怒りはもちろん通り越し「呆れたわ」と言うのももったいないくらい、どうしようもない「あのひとたち」。ああもう。デキないんだからデキないのって言ってくれりゃ代わりにやってやるのに「デキルと思うの,頑張るわ♪」なんつった挙げ句ひとーーーっつもデキてないという幼稚園児のほうが理由もなく可愛い分百万倍ましやんけ! という現状。その後始末のため必要以上にPCとにらめっこ。ああもう。

この人みたいに怒りを表明したい!
ばかやろーーーっっっ
ゼロレベルの幼児教室からやり直しておととい来やがれ!!!