O ma fille... ― 2012/07/04 19:00:09
もうひとりのわがままおてんば娘、りーちゃんである。







りーが膝に乗ってくるとき、りーが何かをねだって擦り寄るとき、りーが何かを訴えてにゃあすか啼くとき、りーの寝顔を見てるとき。私は間違いなく、実の娘をはじめとする多くの愛する者たちの存在を、たとえ一瞬にせよ完璧に忘れている。
世の中には、極端な愛犬家、愛猫家、動物愛護主義者がいる。何事も極端に振れるのは大変よろしくない、ともう一度鯨の刺身を食べたい私は切に思うのだが、こうしてウチの大事なりーちゃんを見るとき、そういう極端に振れちゃう人々の気持ちが少しだけわかる、というか、自分も一瞬「そっち」へ行く。行って我に返って、心中で苦笑する。紙一重さ、なんでも。
あーほんまに、かえらしわあ。(ああ、本当に、可愛らしい)
On est 14 juillet! Et c'est l'été! ― 2012/07/14 22:53:38








Un beau matin ― 2012/07/17 02:20:05




Bravo mes fils ! ― 2012/07/18 20:40:59
なんでもスマホで情報キャッチするイマドキの子どもたちは、大人よりもずっと事態掌握(ガセネタもあるにせよ)するのが早く、数日前に家でこの話を出したとき娘は「そんなこと、もうみんな知ってるで」とこともなげに言った。ウチの娘は相変わらずノーケータイの絶滅危惧種であるので、もっぱら情報源はスマホ中毒の級友たちだ。亡くなった子もいじめていたとされる子もその親もみな実名はおろかあんなこともこんなことも、ネット上では言いたい放題暴露し放題で手がつけられない。
まったくたいへんな世の中だと思うと同時に、こうしていささか乱暴な方法であぶり出されなければ、この類の出来事が明るみに出て追及されることがなかったかと思うと、また悲しい。
昔から友達どうしというのはときに意地悪をしたもんだ。すぐに泣く子はよけいにいじめたくなる、可愛い子、好きな子に覚えてほしくていじめてしまう。殿方にはそんな思い出の一つや二つ、あるに違いない。力を誇示するだけのいじめっ子もいたけれど、家に帰れば母ちゃんに叱られる無邪気なガキ大将に過ぎなかった。弱い者をいじめる奴には必ずどこからか天誅のようなものが下ったものだ。
いつから学校も社会も自浄作用を失ったのだろう。
そして、いったいいつから「いじめる」という動詞が使われなくなり「イジメ」と名詞化し、「イジメを受けた」などという言い回しに変わったのだろう。
*
さて、娘の高校の野球部が奇跡の2回戦突破(笑)。
こりゃあ、まったくすごい! あっぱれじゃ息子たちよ!
なんつうても、娘のクラスは42人中17人が野球部員(笑)。みんなジャガイモ頭で野球しかとりえのない(あら失礼)可愛い高校球児なのだ。しかしいかんせん野球というものは、チームプレイだけれども、個々の資質・能力が試合にはかなりモノをいうスポーツなので、それしかとりえがないといっても一流でもないから(再び失礼)、加えて選手層も薄い普通の公立校だし、トーナメントを何試合も勝ち抜くのは至難の業なのだ。
2回も勝つなんて。
つまり3回戦進出やん。
それって、私たちが在籍中に一度あって(このときも大騒ぎして)以来じゃないかいな?
すご。ブラヴォー!!!
というわけで、いうまでもないが娘も級友たちも狂喜乱舞している。
狂喜乱舞といえば、陸上部からインハイ出場者が出たので、すでに数日前に陸上部マネージャーとして狂喜乱舞した娘である。
熱く楽しい高2の夏になりそうじゃの。
Under 40! Debat interdit aux plus de quarante ans? ― 2012/07/19 19:55:03
で、今日のめっけもの。
面白い、これ(笑)。とてもいいセンいっている。
★★★
デモや集会などの社会運動は本当に脱原発を後押しするか?
開沼 博「“燃料”がなくなったら、今の反原発運動はしぼんでいく」
週プレNEWS 7月19日(木)6時20分配信
昨年3月の東日本大震災よりずっと前、2006年から「原発を通した戦後日本社会論」をテーマとして福島原発周辺地域を研究対象に活動してきた、同県いわき市出身の社会学者・開沼(かいぬま)博氏。著書『「フクシマ」論』では、原発を通して、日本の戦後成長がいかに「中央と地方」の一方的な関係性に依存してきたか、そして社会がいかにそれを「忘却」してきたかを考察している。
原発立地地域のリアルな姿を知るからこそ感じる、現在の脱原発運動に対する苛立ち。「今のままでは脱原発は果たせない」と強い口調で語る開沼氏に話を聞いた。
***
■社会システムの“代替案”をいかに提示するか
――昨年の早い段階から、「原発はなし崩し的に再稼働される」と“予言”していましたよね。なぜ、そう考えたのでしょう?
開沼 まず理解しておくべきなのは、現代の日本の社会システムは精密機械のように複雑だということ。もっとシンプルなシステムなら、比較的容易に原発の代替手段を見つけられたでしょう。
しかし、今の社会はシステムからひとつ部品を外せば、多くの人の生活と生命にその悪影響が出るようにできている。もちろん原発にしても然り、です。そのなかで現実的に何ができるか、時間をかけて議論していくしかない。にもかかわらず、それができていない。
――開沼さんは、原発立地地域での反対運動にも懐疑的ですね。
開沼 他地域から立地地域に来て抗議する人たちは、言ってしまえば「騒ぐだけ騒いで帰る人たち」です。震災前からそう。バスで乗りつけてきて、「ここは汚染されている!」「森、水、土地を返せ!」と叫んで練り歩く。
農作業中のおばあちゃんに「そこは危険だ、そんな作物食べちゃダメだ」とメガホンで恫喝(どうかつ)する。その上、「ここで生きる人のために!」とか言っちゃう。ひととおりやって満足したら、弁当食べて「お疲れさまでした」と帰る。地元の人は、「こいつら何しに来てるんだ」と、あぜんとする。
――1980年代にも、チェルノブイリの事故をきっかけに、日本でも大規模な反原発運動が起こりました。
開沼 あの運動は、時間の経過とともにしぼんでいきました。理由はいろいろあります。あれだけやっても政治が動かなかったこともあれば、現実離れした陰謀論者が現れて、普通の人が冷めたこともある。そして今も同じことが反復されています。「原発は悪」と決めつけてそれに見合う都合のいい証拠を集めるだけではなく、もっと見るべきものを見て、聞くべき話を聞くべきです。
――日本で起きた事故が発端という点は当時と違いますが、現象としては同じだと。
開沼 僕は今の運動の参加者にもかなりインタビューしていますが、80年代の運動の経験者も少なくない。彼らは、過去の“失敗”をわかった上で「それでもやる」と言う。「あのときにやりきれなかった」という後悔の念が強いのでしょう。そういった年配の方が「二度と後悔したくない」とデモをし、署名を集めようと決断する。それはそれで敬服します。
でも、そのような経験を持たぬ者は、まず「自分は原発について真剣に考え始めたばかりだ」ということを自覚して、歴史を学び、なぜ3・11以後も日本が原発を選び続けるのか学ぶべきです。この運動は、このままでは近い将来にしぼんでいく。すでに“反原発マインド”を喚起するようなネタ―「大飯の再稼働」「福島第一原発4号機が崩れる」といった“燃料”が常に投下され続けない限り、維持できなくなっている。
――それがなくなったら、しぼむしかない。
開沼 3・11を経ても、複雑な社会システムは何も変わっていない。事実、立地地域では原発容認派候補が勝ち続け、政府・財界も姿勢を変えていない。それでも「一度は全原発が止まった!」と針小棒大に成果を叫び、喝采する。「代替案など出さなくていい」とか「集まって歩くだけでいい」とか、アツくてロマンチックなお話ですが、しょうもない開き直りをしている場合ではないんです。
批判に対しては「確かにそうだな」と謙虚に地道に思考を積み重ねるしか、今の状況を打開する方法はない。「脱原発派のなかでおかしな人はごく一部で、そうじゃない人が大多数」というなら、まともな人間がおかしな人間を徹底的に批判すべき。にもかかわらず、「批判を許さぬ論理」の強化に本来冷静そうな人まで加担しているのは残念なことです。
そして、それ以上の問題は「震災」が完全に忘却されていること。東北の太平洋側の復興、がれき処理や仮設住宅の問題も、「なんでこんなに時間がかかるのか」と、被災地の方たちは口々に言います。原発の再稼働反対にはあんなに熱心なのに、誰もそこに手を差し伸べない。「再稼働反対」しても、被災地のためにはならない。
――確かにそうですね……。
開沼 先日、フェイスブック上で象徴的なやりとりを見ました。警戒区域内に一時帰宅した住民の方が自殺してしまった。その町の職員の方の「今後はこのようなことがないよう頑張ります」という内容の書き込みに対して、ある人が「これでも政府は大飯原発を再稼働するのか」とコメントした。職員の方は「怒ったり、大きな声を出すエネルギーを被災地に向けてください」と訴えました。救える命だってあったはずなのに、議論の的が外れ続けている。
――先ほど「歴史を学ぶべき」という言葉がありましたが、では、デモや怒りの声を上げる以外に何ができるでしょうか。
開沼 原発ありきで成り立っている社会システムの“代替案”をいかに提示するか。どうやって政治家や行政関係者、そして原発立地地域の住民に話を聞いてもらうか。少なくとも今の形では、まったく聞いてもらえない状況が続いているわけですから。
かなり高度な知識を踏まえて政策を考えている団体は少なからずあります。自分で勉強して、そういうところに参加したり、金銭面でサポートしたり。もちろん新しい団体をつくったっていい。「代替案がなくても、集まって大声出せば日本は変わる」と信じたいなら、ずっとそうしていればいいと思いますが。
――確かに、現状では建設的な議論は一向に進んでいません。
開沼 もちろん解決の糸口はあります。例えば、ある程度以上の世代の“専門家”は、原発推進にしろ反対にしろ、ポジションがガチガチに固まってしまっている。これは宗教対立みたいなもので、議論するほど膠着(こうちゃく)するばかりです。そりゃ、「今すぐ脱原発できる、するぞ」とステキなことを言えば、今は脚光を浴びるかもしれない。でも、それができないと思っている人がいるから事態は動かない。立場の違う人とも真摯に向き合わないと何も生み出せません。
若い世代が、その非生産的な泥沼に自ら向かう必要はない。一定のポジションに入れば安心はできます。「みんな脱原発だよね」と共同性を確認し合えば気分はいい。でも、本当に変えたいと思うなら、孤独を恐れず批判を受けながら、現実的かつ長期的に有効な解を追究しなければ。
――世代による“線引き”もひとつの解決策だと。
開沼 僕は原発推進派と呼ばれる人、反対派と呼ばれる人、双方の若手の専門家を知っていますが、ある程度のところまでは冷静かつ生産的な議論が積み重なるんですよ。ここまでは共有できるけど、ここからは意見が分かれるよね、と。例えば「アンダー40歳限定」で集まれば、そこから先をどうするかという建設的な話ができる。僕はそれを身近で見ているから、実はあまり悲観していないんです。
―アンダー40の若手原発討論。それ、週プレでやりたいです。
開沼 面白いと思います。売れるかどうかはわかりませんが(笑)。そういうオープンな議論の試みから現実的な変化が始まります。
(取材・文/コバタカヒト 撮影/高橋定敬)
●開沼 博(かいぬま・ひろし)
1984年生まれ、福島県出身。福島大学特任研究員。東京大学大学院学際情報学府博士課程在籍。専攻は社会学。著書に『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)、『地方の論理 フクシマから考える日本の未来』(青土社・佐藤栄佐久氏との共著)などがある
★★★
「アンダー40歳限定」(笑)そうだよ君たちの時代だ。ほんとうにそうだよ。頼むよ。戦争も原爆も知らない世代の、子どもたち。チェルノブイリの事故が起きてから生まれた子どもたち。君たちだからこそできる議論があるはずで、だからこそひねり出せるアイデアもあるはずだ。
でも、だからって、ジジイもババアも、声を挙げるのを、思考するのを、やめないぞ。
若ぇもんに疎まれるってのは年寄りの宿命でい。
そらなんぼ気張ってもそこはしゃあないけど、ウチらかて伊達に年輪、増やしてへんねんよ。
それにしても、とんでもない課題を次世代に残してしまうんだなとつくづく思う。これに立ち向かえる人間を全然育ててこなかったこの国の、破綻しきってしまった教育が、今になって、本当に心底、恨めしい。
A lire! ― 2012/07/21 10:24:08

マリア・ブルーメンクロン著
堀込-ゲッテ由子訳
小学館(2012年)
初めてヨーロッパを訪れた最初の一日をパリで過ごした後、私は夜行列車に乗ってミュンヘンへ向かった。その前年の中国旅行で知り合ったドイツ人を訪ねるのが目的だった。
そのドイツ人二人連れは、昆明から成都に向かう列車の中で通路に座っていた私と弟に「あっちに座席見つけたよ」と頼みもしないのに空席を確保してくれたのだった。そして弟に、「君ひとりならほっとくんだけど女の子を通路に座らせてはおけないからな」と、ラッキーだったな姉ちゃんと一緒でと言い捨てて行ったのだった。おかげで私と弟は長距離を座って過ごすことができ、また向かいの席に乗り合わせた愉快なおばちゃんたちとの会話も楽しめて(その話はまた次の機会に)、余裕を持って列車の旅を楽しんだのだった。
昆明のドミトリーで、私の弟はそのドイツ人二人にすでに会っていた。昆明に到着するやいなや弟は体調を崩して喉を腫らして熱を出してしまった。失意の弟に姉の私は「じゃ、あたしひとりで観光してくるね」と冷たくお気楽に言い放って彼をひとり宿に残してずっと出かけていたのである。ドミトリーの大部屋は男女の別なく放り込まれたのでそこには国籍はもちろん組み合わせの不明な男女がごちゃごちゃと、たしかベッド数は12だったが、泊まっていた。私たち二人も他者からみれば「不明な」男女だった。ようやく起き上がれて洗面所で顔を洗っていた弟に、くだんのドイツ人のひとりが「彼女はどこに行ったの」と声をかけた。弟はきょとんとして、ひと呼吸おいて「あ、マイシスターのこと?」と聞き返すとドイツ人はとても嬉しそうな顔で「妹さんなの?」と聞いた。「いや、姉だよ」「あ、そう!」
到着した成都に、まともなホテルは1軒しかなく、ツインを頼むと結構高い値段を吹っかけられた。昆明のドミトリーはよかったなあ、あんな宿はここにはないのだろうか。と思っていると、例のドイツ人二人がレセプションにやってきて、「僕たち友達だから一緒に泊まるよ。4人部屋はない?」と私たちに断りもせず交渉を始めた。内ひとりは片言ながら中国語を話していた。「ベッドが3つの部屋しか空き部屋は……」「そこでいいよ、ひとりは床で寝るから」「そんなわけには参りません、簡易ベッドを入れます」「俺、190cmあるけどそれに寝られるかい?」「いやその……小柄な方にお使いいただくほうが……」(と、私をチラ見するホテルマン)
なんていう会話を経て、ツインに泊まるよりはずっと割安な宿泊代が実現した。
そんなわけで、彼らとすっかり友達になり、住所の交換もした。成都からさらに西方の奥へ向かうという彼らとは成都で別れ、私たちは重慶へ向かった。その後、長い中国旅行を終えた彼らは、ひとりはドイツへ帰国し、ひとりは日本へ来た。そのとき、京都の私たちを訪ねてくれた。そしてヨーロッパへ来たらぜひミュンヘンの僕の家を訪ねてねと言い残して去ったのである。
私は翌年、東欧旅行を企てた。例外は、発着地に選んだパリと、ロートレックの故郷アルビ、憧れだったコペンハーゲン、そしてミュンヘン。西側で訪れるのはこれらの都市だけと決めて、まずはミュンヘンの例のドイツ人の家を訪ねようと、彼の書いたメモを頼りに住所を探した。そこは意外とすぐに見つかった。玄関に出てきた若い女性に、片言の英語で、そのドイツ人の名前を言った。しかし若い女性は首を傾げて、いったん引っ込んで、また出てきたと思ったらそれはさっきと背格好の全然違う若い日本人女性だった。
「日本の方? ここに何か用?」
「あ、あのー……この人、ここに住んでいますよね?」とドイツ人の手紙を見せる私。
「はーん……これはたしかにヤツの字だね。どうぞ、お入りください」
「この人、ここに住んでますよね?」
「住んでるけど、寮費も払わないで転がり込んでるだけなのよ」
「寮費?」
「ここ、大学の学生寮なの。私は学生だからここに住んでる。彼はね、私の部屋に転がり込んでいるだけなのよ」
案内されて入った部屋には、くだんのドイツ人がいた。
「ハーイ、チョーコ。やっぱり君だったんだ」
ハーイって……アンタまるで自分の持ち家の住所みたいに書いてたやんかー。そのお気楽な表情は何よ、私は旅の予定を全部書いて送っといたでしょうに。
と、思ったけどそんなことを言い募る英語力はなく。
「前にもね、旅先で彼がナンパした日本人の女の子がここまで来たのよ、彼の恋人気取りでさ。あたし、頭来ちゃって、お前誰だとっとと帰れって言って追い返したことがあるのよ。で、今日もまた日本人の女の子が来てるよって友達が知らせにくるから彼を今問い詰めてたところよ」(笑)
私がそのドイツ人彼氏となんでもないとわかると、彼女はとてもフレンドリーになり、私たちは時間を忘れて話し込んだ、ドイツ人をほったらかしにして。互いの出身や専攻のこと、ヨーロッパが好きなわけなど……。思いがけず、のちに生涯の友となる女性に出会った瞬間だった。
*
本書『ヒマラヤを越える子供たち』を、私はまだ読んでいない。だが中身を読まずともそのタイトルだけで、壮絶さが伝わろうというもんである。なぜ、越えなくてはならないのか。本書には、ヒマラヤ越えの苛酷さと、それでも越えなくてはならないほどかの地の理不尽な生活が、明らかにされている。
ぜひ、お買い求めください。そしてじっくりと、読んでください。私もこれから読みます。読んだらまた報告いたします。