Je parle de Monsieur de professeur Nishikawa...2013/11/27 18:39:57

西川先生はフランス文学研究からスタートされ、とりわけスタンダールの研究に情熱を注がれた。他方、留学中にMai 68(日本では俗に五月革命と呼ばれている)を丸ごと体験され、そのことがのちの研究生活や生きかたすらをも大きく変えたとご自身も述懐されているように、国民国家論、植民地主義論、多文化・多言語主義共同体論の追究に多大なエネルギーを注がれていく。
西川先生は明治維新の研究にも情熱を注がれ、現代日本人がこの大きな出来事に一般に無頓着で大河ドラマのネタぐらいにしかとらえていないのとは対照的に、異邦人のごとく透徹した視線をこの時期の日本と日本人に向けて思索を重ねておられた。そのうえで、日本におけるこの大きな変革のありさまと、フランス革命の類似性に言及されること頻繁であった。
フランス革命は、その後地球上に発現するあらゆる「国民国家」のモデルたる国民国家を短期間で成立させることに成功した、稀有な歴史的一大イベントであった。フランス共和国という国民国家が使用した「国家イデオロギー装置」はその後、国家の統一のツールとしてヨーロッパ各地で二次利用されていく。有効に使われ効果を発揮したケースも、そうでないケースもあるなか、唯一東洋でそのツールを採用し、西欧に追いつけ追い越せを実現したのが日本だった。
西川先生の、フランスを基底に、日本を基軸に置いた思索と探究は、仮に他地域にあてはめても符合することが多い。したがって、西川先生の論考を読むと、それがフランスに特化して書かれたものでも世界性を帯びている。古い議論であっても現代に通ずる。西川先生に限らないけれども、広く深く考え抜かれた人の書かれる文章は、圧倒的な普遍性をもって読む者に迫る。その論考は、書かれた時点で現代性を強く帯びていたはずだが、その当時はもちろんのこと現在進行形の「今」にも強くあてはまり、幾たび反芻しても色褪せない。


ただし、ある種の人々にはまったく響かないということもあるだろう。国家論やイデオロギーが俎上にあるとき、それは避けられない。私たちは人間だから。野生動物ではなく人間であるがゆえに、「国家」や「通貨」などといった、見かたを換えれば切った爪のかけらほどの価値もない幻想を躍起になって守ろうとする、そういった種類の人々をも含有してしまう。


以下は、『フランスの解体?』(人文書院1999年刊)から。


《私にとっての歴史のイメージは、沃土をもたらす大河を思うときがないでもないが、概してわれわれの身をがんじがらめにしている無数の糸か網の目のようなものだ。私自身はその網の目のいくつかを食い破って外に逃れ出ようとしているのだが、同時に、そんなふうに逃れてみても結局はまた別の網に落ち込むであろうという醒めた予感もあるといった、何とも手のつけられない代物である。》(132ページ)

《歴史はつねにそれが書かれた現在を語っている。フランス革命二〇〇年に描かれた革命像は、現代世界の混乱を映しだす。だが、見誤ってはならないのは、われわれが直面しているのは社会主義の敗北と資本主義の勝利ではなく、社会主義国家の失敗であり資本主義国家の変質であろう。》(「国家」の語に傍点、136ページ)

《中央集権の政府を作り、徴兵制の軍隊を作り、国民教育の学校を建て、国語を作り、国家と国旗を作り、国境を引き国籍を定め、……国民国家(Etat-Nation)形成のために何十万、何百万の人命を犠牲にし、何という情熱とエネルギーが注がれたことであろう。(略)結果的には多くの異端を排除し、強力な国家の形成に力を貸すことになったのである。(略)権力は国家の名において人民に命令する。一つの主権国家は国益の名のもとに他の主権国家を脅かし、一国民の自由と幸福の名のもとに他の国民の自由と幸福が侵害される。》(136~137ページ)

《(略)文明化、近代化の名のもとに、歴史的条件によって内容的にはさまざまな違いがあるが、構造的には類似した国民国家群をもたざるを得なかった。逆に言えば、国民国家の諸装置と諸制度は、西欧的な伝統をこえて、いわばモジュールとして移植可能であることが歴史的に証明されている。
 もっともそれが住民にとって幸福か不幸かは別問題です。中核―周辺の世界的分業はポスト植民地時代においても、構造化された差別を残している。世界の諸国家は構造化された差別のネットワークの中で位置づけられて、互いに独自性と差異を強調しながら、構造的にはよく似た形になってゆく。》(164ページ)



おんなじような顔をした国が増え、グローバル化だとか無国籍風だとか地球市民だとか調子のいい快さげなフレーズでひとくくりにされ、いつの間にか同じ色に分類されていく。互いの中に共通項を見出し、共感し、協力していくことは意義あることだろう。しかしそのことと闇雲になんでもかんでも右へ倣い同意を示し追従することとは大きく異なる。いわゆる「国民国家」という定義による国境線というものに、こだわって命を賭すほどの執念を見せることに、わたしは大きな違和感を覚える。しかし、ウチの町内の話によその町内会長が口出しをされることには小さな憤りを覚える。ウチの町内会にはウチの町内会の文化がありルールがあんのよ。あんたは自分とこの町内で演説ぶったらええやんか。というのは極端な喩えでちっとも喩えにならないが、国境線も区割り・町割り線も机上の空論で幻想でしかない(だって実際に線は引かれていないのだし)とすれば、こだわって死守するのは最小単位にとどめ、ひとたび目を空と大地に向けた時は少しばかり寛容でありたいと思うのである。

"La vie est ailleurs."2013/11/21 17:10:35

10月28日に、西川先生は亡くなった。
それを知ったのは3、4日後の、地元紙の小さな訃報記事だった。
二年ほど前だったか、大空先生にお目にかかった時、西川先生のご体調はあまり思わしくないようなことをうかがっていたが、その数年前には目を手術されたという噂も耳にしていたし、お歳もお歳であるからしかたのないことだろうと思っていた。
しかし、西川先生は昨年の11月、だからほぼ一年前ということになるんだけれども、胆管がんが見つかり、緊急入院され闘病生活を送られていたのだった。
それ以前は、寄る年波ということ以外に大きな不調はなく、奥様と二人で被災地を訪ねて歩かれるなど、変わらず思索と執筆に取り組んでおられたという。
西川先生は、フランス留学中にMai 68を体験され、それが以降の生きかたや研究生活に大きな影響を与えたことをずっと書き続けてこられた。
私は西川先生のゼミ生ではなかったし、入学前はお名前も存じ上げなかったが、大学院の同期生の中には、西川先生の講義を聴きたいがために遠方から通学しているという子がたくさんいた。
私の師である大空先生も、ゼミの初日、「西川先生に引っ張られてさ」、大学院の教職に就いたということをおっしゃって、ならば心して西川先生の講義は受けなくちゃと力が入ったものだ。
何度か接するうち、私はすっかり西川先生の虜になっていた。講義は難解であった。著作も難解であった。でも、発せられる言葉をじかに聞くときも、著作を読み進むときも、いずれにも共通するその物静かな語り口とは裏腹な、月並みだが「ほとばしる情熱」といったものを感じないではいられなかった。柔和な表情の向こう側で、その思索の無限に熱いさまが絵にならない絵となって仁王立ちし、迫ってくるようだった。
中途半端な社会人学生だった私は、大空先生ゼミでなければついていけなかったし、論文の落としどころもつかめなかったに違いないが、もし西川先生についていたら、研究生活をもっと続ける気になっていたかもしれない。西川先生には「終わり」や「線引き」はなかった。先生のテーマは文字どおり死ぬ瞬間まで考え続けなければならないものだった。結論など出せないのだった。思索の深淵の奥深くまで、一緒に潜ってみたい衝動に駆られたけれど、保育園児の子育て真っ最中だった私にはそれ以上学費も時間も用意できなかった。いまは無理だけれど、いつかまた教えを乞う日が来る。そう信じていたし、二年前に大空先生に会って、会おう会おうそうしようという話がまとまりそうだったのに、私はやくざな広告稼業に心身と時間をすり減らすばかりだった。悔いても悔いても、もう西川先生は天に召されてしまった。もう西川先生には会えないのだ。

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(略)
「現代のエネルギーの中心をなす原発の問題は、新植民地主義の典型例である。新しい植民地主義の最も単純明快な定義は私の考えでは、「中核による周辺の支配と搾取」であるが、これは「中央による地方の支配と搾取」といいかえてもよいだろう。中核と周辺はアメリカと日本のような場合もあれば東京と福島のような場合(国内植民地主義)もある。この2種の植民地の関係は複合的であり、また中核による支配と搾取を周辺の側が求めるという倒錯した形をとることもありうるだろう。」
『植民地主義の時代を生きて』西川長夫(著) 平凡社 (2013/5/27)より
(略)
父のこの著書にふれて、さまざまな箇所で、積み重ねてきた自分の実感が言語化され、腑に落ちてゆくような感覚を持ちました。
父は70代に入って、体力の衰えを自覚しながらも、中国、韓国、台湾といったアジア諸国へ積極的に出かけ、多くのシンポジウムで講演し、現地の人達との交流を深めてきました。それは、日本の植民地で生まれ育ち、軍国少年であったという自分のルーツに向き合い、問い続けるための行動の一つだったのかもしれません。
今回、父の死を受けて、彼の考えのほんの一端を紹介することが、自分なりの父への供養の一つだと考えました。自分にとって特にこの半年は、父とのあらたな出会いの期間であった気がします。父は他界しましたが、父との出会いをこれからも続けてゆくつもりです。父のことを考えることで、父とは違う自分なりの考え、生き方も確認してゆきたいと思います。
(略)
Pianoman Rikuo [KIMAGURE DIARY]「父西川長夫の死に寄せて」より
2013/11/02(土) 19:05

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西川先生のことを書かなくちゃ、と思いながら、喪失の大きさに呆然として何も手につかなかった。先生がくださった著書『フランスの解体?』には、Mai 68のさなかに学生たちがパリ中の壁に書いたメッセージが記録されている。本エントリのタイトルはその中のひとつである。「生は彼方に。」