なぐさめには、ならない2007/06/22 12:33:45

ウチの「くノ一」。


『風になった忍者』
広瀬寿子・作 曽我 舞・絵
あかね書房(1991年初版第1刷、2007年第21刷)


正之はいとこの美沙と宏おじさんと「忍者屋敷」に来ている。正之と4歳違いの兄・俊郎は、8年ほど前にこの忍者屋敷に遊びに来たときに、近くの沼に落ちて行方不明になった。
その時一緒に忍者屋敷へ来たのは、今と同じ、宏おじさん、美沙、正之だった。
当時4歳だった正之には、兄の印象がおぼろげにしか残っていない。歳の近い美沙は俊郎のことを、足が速くて忍者みたいにすばしっこくて、弟思いの優しい男の子だったという。
落ちたといわれた沼は、埋め立てられて公園になっている。
その沼から俊郎が見つかったわけではなかった。懸命の捜索がなされたが、俊郎は二度と正之たちの前に姿を現さなかった。
正之は、仕掛けがいっぱいの忍者屋敷を見学しながら、兄のことを考えた。忍者が大好きだった兄には、この屋敷はさぞ面白かっただろう。屋根裏までのぼって何気なく壁に力を入れると、壁がくるりと回ってなわばしごが下がっているのが見えた。隠し部屋だな。なわばしごを伝って、どきどきしながら降りていく正之。

壁の向こうは別世界。異次元であったり過去の時代だったりよその国だったり。とにかく自分がいるはずの世界とはまったく違うところに滑り込んでしまって不思議な体験をさんざんしたあとまた元の世界に戻る。
ファンタジーの古典的な定型といっていいだろうか。『不思議の国のアリス』、『オズの魔法使い』。『ピーターパン』もそうかな。
日本の作品なら『銀河鉄道の夜』も、そうだ。
うん、物語の結末に感じる切なさでいえば、『銀河鉄道の夜』に似ているかもしれない。

正之は、びっくり仰天命がけのめまぐるしいほどの体験をしてまた元の場所へ戻る。忍者屋敷の喫茶フロアで待っていた美沙に「面白いもの、見てきた?」と聞かれて「見てきた」と答える。それで物語は終わる。
像を結べないぼやけた記憶の断片や失われたと思っていた時間を取り戻せた達成感。それでもやはり実体とは永遠に会えないという虚脱感。
最後の正之の台詞の短さに、両方が凝縮されている。
あっけないようだけど、この終わり方はとてもいいと思った。

うーん、ネタバレしないように頑張ってんだけど、してるかな。だって、たぶんここを読んでくださる皆さんは半端じゃない読書量だから、ありきたりなストーリーの中身なんて、もうすけすけでしょう。

昨日の『のどか森』でも書いたけど、善悪や、勝負の行方がはっきりしていて、みんなが幸せになる結末が、子どもに読み聞かせるにはわかりやすくてよい。子どもは親の声だけでイメージを膨らませ、次の展開を予想する。容易に予想できるほうがいいし、期待は裏切られないほうがいい。ウチの娘は忍者といえば『忍たま乱太郎』以外には知らないし興味もないので、もし凝った展開だったら途中で聴くのがいやになっただろう。だがストーリーは、忍者の世界うんぬんよりも、登場人物の心の動きに読み手(聞き手)が惹き込まれるように、ちゃんとできている。「子ども用の文学」としての目的は達成されるのだ。というわけで、本書もウチの子への読み聞かせに限っていえば、マル。

だが、最初のほうで切ないと書いたように、この物語は切ない。
この国には行方不明になったまま消息の知れない子どもたちがたくさんいる。その子たちの親の気持ちを思うと、本書のような物語は、その悲しみを増幅させるだけで、なぐさめにはならないと思うのだ。それは、いかんともし難いことだけど、悲しい。