絵本ができたよ!2007/10/01 12:14:20

ちゃんと本になっているのよ。この厚み。わかっていただける?


手作り絵本講座、2クール(3か月×2)を終了してやっと一冊の手作り本を仕上げることができた。
ムチャ嬉しい。
とにかく嬉しい。
何かひとつやり遂げるということの達成感。幾つになっても嬉しいものである。
この際、でき映えは不問である。(ちょっと失敗した。へへへ)

街のカルチャーセンターで不規則に開かれている手作り絵本講座に、だいたい月に2回のペースで通った。たった2回である。月に。各回2時間。それなのに、この時間を確保するのにどれほど苦労を要したことか。貴重な1回の講座日に、容赦なく仕事が入る。行事も入る。もちろんそういう事態は予期して先生からいろいろと先取りして指導を受けておくのだが、家で自習する時間を捻出できない。ついこの間まで、小さな絵本ひとつ作るのに、何年かかることやらと暗澹たる気持ちであった。

この講座は絵本の「お話づくり」と「絵づくり」に主眼を置いたものだ。そういうことの下調べもせず、「本が作れるぞ!」という勢いで登録したのだが、当初はそのことを少々後悔した。
本づくりをしたかったので、とっとと手製本のテクニックを教えてほしかったからである。
しかし、かつて「絵本作家を志望して美大を受けた高校生」であった過去をもつ私には、思いのほかウキウキと楽しい時間であった。
ほんとにそんなもの志していたことあったのか?と我が学歴を疑うほどアイデアが絵にならないし、ほんとにお前コピーライターかよ?と我が職歴を疑うほど、言葉が思いつかない。本の形になる前の、お話と絵の制作の過程に、非常に時間と手間をとられることとなってしまったけれども。

できあがった絵本は、ストーリーなどと呼ばれていいものはないに等しい単純なつくりである。絵の完成度も見直せば大変に低いもので、恥ずかしいのである。
しかし、古い絵の具をしぼりだし、ひと筆ひと筆鉛筆画の上に色を置いていく作業は本当に楽しいものであった。
いつもより少しだけ早起きして絵を描く時間を作ったが、途中でやめられず、娘が起きてきても朝食の用意がまだなのよ、なんて状況もたびたび。水を得た魚のように、作業に没頭してしまうのである。(くだらない原稿を書いているときにはありえない現象である。苦笑)

「お母さんのそんな真剣な顔、見たことない」

絵コンテを吟味する私を見て娘がいった言葉だ。
娘に説教するときも、宿題を教えているときも、いろいろ真面目に取り組まないといけないことを一緒に考えているときも、私の表情は、自分で絵を描いているときほどには真剣でなかったのである。
子育てへの姿勢を問われたようで非常にズキッときたのである。

けれども、できあがった絵本を手にとって、娘は大喜びしてくれた。
題材が我が家の猫であるし、原画に採用したのは娘のいたずら描きだった、ということもあるが、誇らしげにページをめくってくれた。非常に嬉しい。

というわけで、「絵を描く自分」を再発見した。仕事の現場では書きたくないものばかりを書かされているが、ここ数か月の、この絵を描く作業がなかったら、瞼の痙攣どころか、とっくに私は潰れていたかもしれない。
絵を描くのは、それほど楽しい。
わかっている。絵を描くことを職業にすることの難しさ、厳しさを私は知らない。
↓ だからこんなお気楽なことをいってしまうが……。

文章書くのなんかやめちゃって画家に転身しちゃおかなー♪

本音である。

猫に支配される幸せ2007/10/02 19:44:04

ちょっとだけよ♪ なんて、出し惜しみするほどのもんではないのであるが。


『猫語の教科書』
ポール・ギャリコ 著 スザンヌ・サース 写真  灰島かり 訳
大島弓子 描き下ろしマンガ
ちくま文庫(1998年第一刷、2005年第八刷)


 上記写真でチラ見せしているのは私が作ったばかりの絵本であって、ギャリコの『猫語の教科書』ではない。『猫語の教科書』の「本当の執筆者」はツィツアという名の雌猫である。その証拠に、本書の表紙にはタイプライターを打つツィツアの写真が掲載されている。ツィツアは、交通事故で母を亡くし、生後6週間で世の中に放り出されたが、1週間後には「私はどこかの人間の家を乗っ取って、飼い猫になろうと」(23ページ)決意して即座に実行に移す。わずか6週間の間にも、ツィツアの母は彼女に「この世で生き抜くための術」を教えていたらしい。ツィツアは、住宅の大きさや手入れが行き届いているかどうか、家族は何人か、また所有されている車が高級車かどうかなどをよく観察し、乗っ取ろうと決めた家に狙いを定めると、庭の金網によじ登り、ニャアニャアと悲しそうな声で啼いてみせる。
「向こうから私がどんなふうに見えるか、自分でもよーくわかっていましたとも。」(27ページ)
さっそくその家の夫人が子猫のツィツアを保護しようと夫に提案する。なかなか夫はうんといわない。少しのミルクをもらったのち外に出されてしまうが、自身の魅力を知り尽くしているツィツアは、周到に計画し、猫なで声を駆使して、まずは毛布を敷いた木箱を手に入れ、納屋に設置させることに成功する。しかも、その手配は夫のほうがしてくれた。
「私の勝ちだわ。私は笑いながら眠りにつきました。/もうここまでくれば、あとはもう時間の問題。さっそく明日の晩にでも、彼をモノにするとしましょう。」(38ページ)

このように、本書は、美人猫ツィツアが次世代の猫たちに贈る処世術指南書なのである。懸命にタイプした原稿を、とある出版社に勤める編集者の自宅の前へ置き、しかるべき形で伝えられていくよう託したのである。しかし、編集者にはまったく解読できなかったので、暗号好きのポール・ギャリコに解読の仕事がまわってきたというわけなのだ。
ギャリコが記した序文によると、これは暗号というよりも、単にミスタイプだらけの文章であった。最初の数行を読み、この文章の書き手が猫であると判明すると、ミスタイプの法則性が一気に解明したそうである。肉球でぷにょぷにょした猫の手では、QとWのキーを同時に叩くことや、文字キーと改行キーを間違って叩くこともあったであろう。猫をこよなく愛するギャリコは、麗しい雌猫の懸命なタイピングをあますことなく「翻訳」した。内容の充実に感嘆すると同時に、複雑な気持ちにも襲われた。なぜなら、世の猫の飼い主たちはまさか自分たちが「乗っ取られている」なんて思いもしないであろうから。これを読んだ愛猫家たちは不快な思いをするのではないか?

たとえばツィツアは「第3章 猫の持ち物、猫の居場所」で、こんなことも述べている。
「ベッドを乗っ取るべきかどうかは、猫の気分しだいです。ここでも人間はひどく矛盾していて驚かされるけれど、でも猫にとっては好都合。人間は猫にベッドの上で寝てほしい、と同時に寝てほしくないの。ね、おかしいでしょ? 人間って、根っから矛盾したおかしな生き物なのよ。」(61ページ)
「ところがベッドが猫の毛だらけになるとか、(中略)爪でふとんがいたむとか、(中略)そのくせ人間は自分がベッドにもぐりこむと、猫に足もとにいてほしくなったり、もっとそばにきて丸くなってほしかったり(後略)」(62ページ)
人間の弱みを的確に突いて、ベッドを乗っ取るテクニックについて述べている。そして、ベビーベッドにはけっして上るなという警告も忘れない。実にしたたかで賢く抜け目ない。
「人間は、自分で作り出した伝説に支配されちゃうのね。」(64ページ)

猫を愛し、愛猫サンボと暮らすギャリコは、ツィツアの渾身の原稿を読み終えたとき、少しだけサンボを疑いの目で見るが、「まさかね! うちの猫にかぎって!(中略)サンボは明らかに、いつも通り、まったく疑いなく、私に夢中だった。」(200ページ)
というわけで、人間というものは猫に乗っ取られていながら自分が猫を世話していると思い込んで幸せに癒されているわけである。

前に、ギャリコの『ジェニイ』に触れたけれども、『ジェニイ』が猫の冒険譚であるのに対し、本書はいかに平和で穏やかな日常を手に入れるかに重点が置かれているだけあって、突拍子もない大事件は描かれない。だがツィツアも恋をし母になる。よそのうちでも可愛がられたりする。飼い猫の日常に時々訪れる大波小波。猫を飼う者には、その行間までたまらなくいとおしく感じられる。ツィツアが語る人間たちはときに滑稽だが、ツィツアはけっして人間を馬鹿にしてはいない。人間を知り尽くし、利用もするが、愛すべき存在であるとも考えているのだ。……と、愚かな人間たちに考えさせてしまうほど、ツィツアの語り口は巧妙だ。

我が家の猫をじっと見る。
猫を飼う生活が始まってまだ2年にもならないのに、私たちはこの家の歴史が始まって以来ずっと私たちのリーちゃんと一緒に居るような気さえしている。私のケータイは猫の写真だらけで、娘は暇さえあれば猫の絵を描き、私は猫の絵本まで作ってしまい、私の母はほぼ10秒おきに「リーちゃん、リーちゃん」と話しかけている。

忘れてならないのは、容姿に自信を持って毅然とした態度で臨めば、必ず成功するってことなのよ。

ツィツアがいいそうなこんな台詞を、我が家の猫も反芻しているに違いないのだ。

奇跡かもしれないのだから2007/10/03 18:13:35

『「おじさん」的思考』
内田樹 著
晶文社(2002年)


我が最愛の内田さんのブログをアーカイヴに至るまでくまなく読みつくしている私には目慣れた文章の続くエッセイ集だけれども、そして初出年月日も若干古かったりもするのだけれども、日頃あれこれつい思い悩むようなこと、日常遭遇するさまざまな事どもへの「明快答」が列挙されていて、実に気分のいい一冊なのである。
愛するウチダが書くと、政治も宗教も教育も、犯罪もフェミニズムも哲学も、すべて私たち日本人ひとりひとりの生き方考え方在り方を自問自答することに帰する。自分には無関係な議論、日々の雑事からは遠く離れた出来事とスルーしがちなことが、ああホントだねとあてはまり、思いあたり、反省を要することに気づかされる。私の場合、これがとっても心地いいのでウチダを読むのをやめられない。

今日、彼は自身のブログで《「生きていてくれさえすればいい」というのが親が子どもに対するときのもっとも根源的な構えだということを日本人はもう一度思い出した方がいいのではないか。》と書いている。

使用語句は異なれど、愛するウチダは自身のこの一貫した考え方を幾度となく書いているはずで、ゆえに彼の膨大な数の著作のあちこちに同様のフレーズが掲載されているはずだ。
したがってウチダを読みあさりまくっている私は、幾度となく「子どもは生きていてくれさえすればいいのだ」と反芻しているはずなのだが、育児中はつい、すぐ忘れる。ほんとに、忘れる。忘れてつい、子どもに「もっと高く」「もっと強く」と求めてしまう。



ウチの娘ときたら、また怪我をした。
小学校のサエキ教頭(仮名)の太く低くそれでいて上ずった声がケータイの向こうから「緊急事態」を告げている。
私はバタバタと原稿を書き進めていたが、思考を中断されていささか不機嫌である。
サエキ教頭の声は上ずってはいるけれど、彼の状況説明を信用するなら娘の怪我は全然大したことないのである。
「校庭でボール遊びをしていまして、どうやら友達が至近距離から投げたボールを、さなぎちゃんは受け損ねたようなんです」
「はあ、それじゃあまた突き指ですね」
「そのようです」
なら保健室の冷却剤で冷やしときゃいいじゃんか。湿布のストックあったら巻いといてくれよ。とりあえず陸上の放課後練習はやめて帰れっていってくれ……というようなことを申し上げようとしたのであるが、「そのようです」といった後サエキ教頭は「が……」と言葉を継いだ。
「腫れ方が尋常ではありません」
「はああ……骨折かもしれないと?」
「なきにしもあらず、です……」(沈痛な声)

ちょうど午前・午後の診察時間のはざまで、開いている整形外科を見つけるのに少し時間を要したようだ。サエキ教頭が再び電話してきて、「すぐ診てくれるところがありましたので、直行します! お母さんもすぐ来てください!」と相変わらず声のトーンは緊急事態モード。
骨折でもしていたら、少しは懲りて大勢の男子にひとり混じって激しいボールゲームに興じるというようなことを控えてくれるんじゃないか。とにかくここ何年か、ほとんど月イチで突き指してるんじゃなかろうか。だいたい3月の捻挫だって男子とバスケットで遊んでいたときだったし。こないだも階段から落ちて青あざつくっていたし、その数日前には体育館で滑って派手なすり傷つくっていたし。
思いがけず指がパンパンに腫れてきて、怖くて不安で大泣きしているに違いない。いい薬である。などとのん気にチャリンコを転がしていたのであるが。

医院の待合室に入ると深刻な顔をしたサエキ教頭の横にへらへらと笑いながら「しまった」という顔で舌を出す娘。
「またやったのか」
「だってリュウがすごい至近距離で顔めがけて投げるからさ」
「顔は守ったわけだな」
「手に当たって、あいた、って思ったけど、こんなのしょっちゅうやってるからそのままにしてたらなんだかボンボン腫れてきてさ」
「痛い?」
「うん。多少ね」
しかし、彼女の表情を見て、何より本人自身が大したことはないと自覚しているようなので安心した。泣いてないじゃんか、と冷やかすと、泣くような怪我じゃないもん、と平然。
その横でサエキ教頭は「大事に至らないといいんですがね、骨折してないといいんですがね」と繰り返す。

あ、そうか。
教頭の憂いは今月来月と続く大小さまざまな陸上競技大会にあるのだ。骨折していたらたとえ指でも「とうぶん安静!」を言い渡されるだろう。そうなると出場は絶望的だ。これら大会の中には学校の威信のかかった団体戦もある。
「さなぎちゃんは本校のエースですからねえ……」
もちろん、サエキ教頭は学校の威信がかかっているなんてけっしていわない。勝たねばならないともいわない。出られないと残念ですから、としかおっしゃらないのであるが。
が、さなぎが抜けた後の残りのメンバーで勝ち抜くことは、実際、難しいであろう。それに結果より何より、全員の士気がどーんと下がる。抜けるのが誰であろうと、チームとはそういうものだ。
娘もそれは自覚している。自分だけの身体じゃないんだぞ。バレエの先生にも、陸上のコーチにも、和太鼓の先生にもつねづね耳にタコほどいわれている。
本当だ、みんなに迷惑かけてしまうなあ、参ったなーと嫌な気分になる私に向かって、
「でもさー折れてたら、きっともっと痛いんじゃないかなあ。折ったことないけど」
と、娘はこともなげである。

触診とレントゲンで、右手薬指第二関節側副靱帯が伸びているとわかった。
「10日ほどは腫れと痛みが続くから安静にね」とドクター。
「安静とおっしゃるのはどの程度の安静でしょうか」と私。
「ボールを投げたり受けたり、手を振り回したり、鉄棒したりはだめです」
「走ってもいい?」とさなぎ。
ドクターは苦笑いを見せながら「ま、走るのはいいでしょう」
(たぶん、わ、遅刻しちゃうよ、というようなときの「小走り」くらいしか、ドクターの頭にはないのだ。笑)

待合室で不安げな表情のサエキ教頭に診察結果を告げる。
「学校に連絡します!」(満面の笑み)
ああ、とりあえずよかった、大事にならなくて。



もし骨折していたら、まったく本人にとっても学校にとっても、はたまた各種お稽古教室にとっても、私にとっても非常によくない状況が待っていたに違いない。しかし、そのよくない状況のさなか、私は平常心で娘のことを「生きていてさえくれればいいんだから」と見守ることができただろうか。きっとまたきれいに忘れて「まったくもうこいつは」と心の中で舌打ちしたり、つい誰かに愚痴ったりしたに決まっている。

『「おじさん」的思考』のなかには、内田さんが男手ひとつで育ててきたお嬢さんが、巣立っていった日の短エッセイもある。
《人間としてどう生きるかについての説教はもう一八年間飽きるほどしたはずだから、いまさら言い足すことはない。ひとことだけ言葉があるとすれば、それはこんなフランス語だ。sauve qui peut (中略)「生き延びることができるものは、生き延びよ」(中略)全知全力を尽くして君たちの困難な時代を生き延びてほしい。》(154~155ページ)


ひとつ間違えれば大怪我をする危険もあったのに、君はそれを免れてきた。
こんなに各地で子どもが事件事故に巻き込まれているのに、君は飛行機に乗っても船に乗っても列車に乗っても車に乗っても、キャンプで山・海・川へ行っても無事に帰還してきた。
この強運を、素直に喜びたい。
生きていてさえくれればいい。
君の誕生じたいが、私には奇跡だったのだから。
今もこうして君とともに在ることも、奇跡かもしれないのだから。

「John! Look at your friend!」2007/10/04 19:27:06

『Voices』Daryl Hall & John Oates
ジャケットデザインはイマイチだけど、中身はとってもイイ。


1982年(または83年。忘れた)、冬。
私たちはホール&オーツのコンサート会場にいた。私たちというのは大学の女友達5、6人(人数は不正確)。公演の数か月前、ともに徹夜で並んで前から4列目の座席チケットをゲットした仲間である。メジャーな外タレが来日したら誰であろうととにかく観に行く、というのが信条のノリのよい面々に加えて、高校時代に同じデッサン教室に通った静花(仮名)がいた。この日のライヴに行こうと計画したのは、静花と私であった。

高校1年の終わりごろから、私はデッサン教室に通い始めた。美術系の短大か大学に行きたいと決めたからである。
できるだけよけいな勉強をしたくなかったので、美術系の進路をとるにはどうすればよいかを検討すると、国公立の芸大受験の場合も難解な理数系科目必要単位は最少で済み、苦手な社会科系科目もどれかひとつに的を絞って暗記しまくれば、何とか学科試験はクリアできそうだということが判明した。
あとは実技試験で問われるデッサン力である。
絵がいくら好きでもそういった技術はまったく持っていなかったので、私は、芸大美大への進学率も高く、講師陣も現役の美術家や芸大生であるというデッサン教室へ通うことにしたのだった。

高1対象のクラスは生徒が少なかった。高1から美術系に進路を絞る子は珍しい、と申し込みの際に言われた。みんな、3年生になってから、他に行けそうなとこがないから学力があまり問われない美術系にでも行くか、てな気持ちで駆け込んでくる、という。
同じクラスの仲間は、みな物静かで地味で、すごく絵がうまかった、すでに。
このクラスに静花がいた。この教室の評判を聞いて、隣県から通ってきていたのである。

週に2回ほどの教室は、とても静謐な時間だった。私たちは静物を囲み、黙ってイーゼルと向き合った。進路がどうとかいうよりも、みな絵を描くのが好きだったのである。ムダ口を叩かず一心に絵を描いた。間に挟まれる少しの休憩時間に、私たちは他愛ない雑談をした。とりわけ盛り上がったのが、ミュージシャンの話だった。当時、ベストヒットユーエスエーなんつう番組が深夜にあり、そこで得た情報をネタにお喋りに花が咲いた。ある日、静花はわざわざレコードを持参し、これすごくいいよと貸してくれたのだが、それがホール&オーツの『X-Static』。水飛沫を浴びたラジオの写真が美しいジャケット。ここに収録されていた『Wait for me』という曲がすごくよかった。
音楽番組でホール&オーツを見て、興味をもった私に静花が貸してくれたのか、静花が貸してくれたのでホール&オーツを気に入ったのか、その時系列的な順番がわからないけど、私はデヴィッド・ボウイとの遭遇以来「金髪で青い目」至上主義をとりつつあったので、当然ダリル・ホールを気に入った。
でも、静花は「ジョンが素敵なんだよ」という。
MTVに映るジョン・オーツは、メインヴォーカルのダリル・ホールの後ろでギターをかき鳴らしながら画面に出たり入ったりするヒゲの兄ちゃん、という印象だった。彼がいるからダリル・ホールの美形がたしかに際立って見える。
そういうジョンのキャラクターは、その存在がいつも控えめだった静花と似ている。私はそう思った。

ホール&オーツはほどなくして全米のベストテンにランキング入りする『Private Eyes』や『H2O』を発表し、その名を知らぬ者のないメジャーバンドにのし上がった。

私はレンタルレコード屋で彼らの少し古いアルバム『Abandoned Luncheonette』などなどを借りあさってカセットテープに録音した。ビジュアルに訴えなかった時代のダリルの歌声に、心底しびれた。ジョンの好きな静花と、古い曲の数々についてよく話し込んだものだった。
そろって国公立芸大を落ちた私たち二人は、滑り止めにキープしておいた私立S美大に進学し、そこで出会った仲間とともに、大ヒット曲『プライベート・アイズ』を引っさげて来日したホール&オーツのコンサートへ出かけたのである。
ダリルーという黄色い声援が飛び交う会場で、私の隣にいた静花の視線はずっとジョンを追っていた。演奏の合間にジョンがこっそりと見せる愛嬌ある仕草を見逃さず、ひとりでふふ、と微笑んでいた。

ところが次の瞬間、私は見た。そして叫んでしまった。
「全開してるっ!」
横にいたアイコ(仮名)が私を睨む。「うるさいよ、チョーコ!」
ダリル・ホールが情感たっぷりにバラードを歌っている最中だった。
「でもさ、でもさ、あれ、ねえ開いてるんだよ」
「なにがっ」
「あ、だ、ダリルのチャック」
「ええっ」
横一列に並んだ私たちが「開いてるよ開いてるよ」とざわめき、その前列のオンナどもも「ええっほんと?」「開いてるよ」と騒ぎ、さらにその前列、最前列へと伝播する。
ステージの中央に膝をつき、スポットを浴びる自分に陶酔したかのように歌い上げるダリル。彼の身体の中央で、黒いレザーパンツのフロントファスナーがぽっかり。ああ、今でもありありと浮かぶマヌケな光景(ごめん、ダリル!)。
曲がアップテンポに変わる。とたんに観客がメッセージを叫び始めた。
「ダリルー開いてるよー」(そんなこといったって)
「社会の窓が開いてるよー」(あの……わかる人、いる?)
「オープン・ザ・チャック・オブ・ユア・パンツ!」(通じるかよっ)
前列の観客が口々にダリルーダリルーと叫ぶのだが、ノリまくっているダリル・ホールは意に介さず、当然ながらファスナー全開に気づかず、まさにエネルギー全開状態。

「John! Look at your friend!」
いきなり静花が大きな声で叫んだ。
その声は歓声にかき消された、と思う。
でもそのあと、ギターを弾きながら、ジョン・オーツは相棒に歩み寄り、たしかに何か耳打ちした。
「静花、聞こえたかもよ、ジョンに」
「まさか」

たぶん、前列のオンナどもの異様な形相に異変を感じてくれたのだろう。
なんにしろ、一曲終わってダリルはすっと舞台袖に入り、身だしなみを整えて再登場したのだった。そして何事もなかったように、ヒットナンバーを歌い続けた。

帰路につく私たちの話題は当然のように「全開」に終始し、そして「でもダリルかっこよかったねえ」を繰り返した。うなずきながら微笑むだけの静花に、「ジョンもかっこよかったじゃん、ね」といってみた。それでも彼女は微笑むだけだったが、私は本当のことを言ったつもりだった。
コンサートの日から数日経って、二人だけで話す機会を持てた静花と私は、思いがけず聴くことのできた「ホール&オーツ70年代の名曲の数々」をひとつずつ思い出し、あらためてライヴの余韻に浸ったのである。
本当に、彼らは素敵だった。

昼寝休憩法制化に賛成2007/10/05 23:55:11

寝る子は育つ♪


『南仏モンペリエ、午睡(シエスタ)の夢』
水江正吾 著
河出書房新社(1994年)


書くのが嫌だ、体力がない、目が疲れたー……などとほざいている割には今月に入って毎日ブログを更新している。
どなたかにご指摘いただいたとおり、書かずにはいられないのである。
たいして重要でもないこととか、本をきっかけに思い出したこととか、そんなもんは苦にならない。自分の心から出てくるものを書くことに何の労苦があろうか。

自分の心どころか相槌すら打てないようなくだらない話を、思考するとか検討するとか吟味するとか調整するとかいう知的作業の微塵もできないアホどものために、そのアホどもがさぞ立派で高尚であるかのように見せつつ表現するという、よくよく考えればかなり高度な離れ業を、二束三文のギャラで書く。ちきしょー慈善事業じゃないぞ、ううう。
やめよ。ぼやき底なし……。

「わずかな時間でも休みましょうエール」をいただいたが、そのとおりだ。前夜の睡眠が十分でなかったり、単純作業が続くと眠くなるが、そんなとき思い切って机に突っ伏して目を閉じてみる。そのまますっと寝入ってしまいそうになる。キモチイイ……あと3秒このままでいるとぐーすか寝息をたてて沈没するかも……という意識があるうちにいったん頭を持ち上げる。
でもそれだけで、頭の中の一部がしゅっとリセットされてわずかながらすっきりする。もしかしたら気づいていないのは私だけで、ホントは2時間ぐらいグーグー眠っていたりして(笑)。

昼寝って必要だ。昼にいったん小休止することができれば、人は早起きが苦でなくなるだろう。朝から目いっぱい働いて、きゅっと寝て、また午後から夕方までがんがん働く。途切れなくだらだらだらだらだらだらだらだらだらあらもう夜の9時、なんて仕事のしかたよりずっと効率がいいはずだ。
数日前、愛するウチダが「昼寝のすすめ」と題して、フレックス勤務やサマータイムの導入より、昼食後一定時間昼寝をするという決まりにしたほうがいい、というようなことを書いていた。フレックスという勤務体制がうまく機能している企業ってあるんだろうか? 私は全然聞いたことがない。けっきょく早出の社員と遅出の社員というふた通りのシフト体制みたいになっちゃっただけだから廃止した、という話なら聞いたことがある。サマータイムについてはかなり昔から要検討項目にされては消えている。つまり政府の誰も本気になって考えていないわけだ。日本の場合、議会でさんざん議論されたり、省庁があれこれと取り組んだりした案件はたいていろくでもない結論になって国民生活にろくな影響を及ぼさなかったりするので、真面目に扱われていないサマータイムなんかは、誰かの鶴の一声ですっと導入されたらされたで案外すんなりと暮らしにフィットして習慣化するのかもしれないなあと思わなくもない。ま、どうでもいい。

昼寝、という言葉で思い出したのが本書である。
著者の水江さんは、なんと、私と同じ時期に同じ学校に留学していたのである。
本書に出てくる彼のクラス担任の「マダム・クロード」という先生と、たぶん私は日本で一緒にお好み焼きを食べている。本書には、マダム・クロードがほぼ毎夏来日して関西の私立大学でフランス語講座を開いていることが触れられているが、その教員チームには私の担任だったマダム・カミーユ(仮名)がいる。マダム・カミーユは日本へ来たとき必ず私に声をかけてくれるが、ある年に教員仲間3、4人を連れてきて、お好み焼き屋に案内して、といわれた。そのとき他の先生方の名前は聞かなかったが、間違いなくクロード女史もいたはずだ。
また、画家のAさんという高齢の日本人も出てくるが、このAさんのニーム(モンペリエの隣町)のアパートを私はしばしば訪ねている。私がAさんと出会った頃は、Aさんはまだフランスに来て間もなかったのだが、町の人たちに大事にされてすっかり溶け込んでいた。フランス語が覚束ないのに、もう八十近いのに大したもんだと舌を巻いたものである。

そのように、まるでこの私自身の留学記のようにも読める本書だが、著者は新聞社勤務をしていたジャーナリストなので、さすがに「記者の視点」でフランスと南仏を見、書いている。政治や経済、社会にも切り込んでいる。しかし、それでも本書がフランス批判あるいは礼賛のような態をなしていないのは、舞台が南仏で、しかもモンペリエであるからだ。
シエスタの夢、なんてタイトルの割に本書は生真面目な記述が多いし、読んでいてちっとも眠くならない。水江さんの筆致はジャーナリストらしく小気味いい。
本書が出されたのと同じ頃にピーターメイルとかいう人の『南仏プロヴァンスの○○』という一連の本も出ていたが、『プロヴァンス』からはおそらく南仏の太陽や自然がむんむんと感じられたのではなかろうか。
それはピーターさんと水江さんの滞在者あるいは生活者としての姿勢の差でもあろう(水江さんは仕事での渡仏ではない。早期退職し、もう一度人生を問い直すために渡仏した。が、そうはいってもこの時点では「完全移住」するつもりではなく「ちょっと住んでみたかった」ようである)。
もうひとつは「プロヴァンス」や「コートダジュール」などという地名と「モンペリエ」という地名の認知度の差であろう。モンペリエは、都市名としてかなりマイナーな印象である。そして実際に、一地方都市であるに過ぎない。いなかである。多くの学生を抱える若者の街だが、彼らはたいてい学業を終えるとモンペリエには留まらない。町は浜辺に近いが、第一級のリゾート地というわけじゃない。
穏やかである、つねに。のんびり。きょうもぽかぽか。そういうモンペリエの空気が本書全編を満たしている。「モンペリエ」という湯舟に浸かっていると思ってもらえばよい。湯に浸かっているときは何をあれこれキビシク思考しようがなんてったってバスタイムである。あ〜ごくらくごくらく、なのである。本書にはまずそういう「湯」が張ってあるので、元新聞記者の留学生活悲喜こもごもや時にけったいなフランス社会への疑問を投げたレポートも、のほほんムードに支配されるわけである。
私にはとても心地いいが、当地を知らない読者にも、本書のモンペリエは魅力的に映るのだろうか。評価の分かれるところかも。

そんなわけで話を昼寝に戻すが、たとえば、私に叱られてぷうううーーーっとふくれっ面の半泣き娘も、すねたまま昼寝して目覚めたら一転ご機嫌満開になる。「昼寝後」は「昼寝前」のアタマやココロの状態を初期化できるのだ。大人でもおんなじだと思う。
勤務中にあまりにすべてをゼロ化するわけにもいかないが、たとえばイケスカナイ取引先のオヤジから無理難題発注が来て血が上っていたり、自信作にダメ出しされて意気消沈していたり、てなときに、とりあえず「食って寝る」というワンクッションを置くことで「水に流す」ことができる。「食う」だけではダメである。「寝る」ことが必要である。

娘が生まれたばかりの頃、私は当時勤務していた事務所での労働時間を10時〜12時、14時〜17時に設定した(この職場を仕切っていたのは私だったので好きなようにできたのである)。12時前になると事務所を飛び出して帰宅する。家では赤子が腹を空かせてほぎゃほぎゃ泣いているのをばあちゃんがあやしている。ウチに上がるや否や赤子を受け取りまずは授乳、次に自分の昼メシ、そのあと娘に添い寝してたっぷり昼寝した。午後の勤務時間が近づくとふと目が覚め、慌しく支度をし、名残り惜しく娘を抱きしめてまた職場に戻った。思えば、このサイクルで仕事をこなしていた時期は何事も非常に捗り、むしろ毎日余裕が生まれ、身体も元気であった。まあ、あの頃は若かったといってしまえばおしまいだが。

食後の昼寝を法制化してしまおう。こんなことは議論してもけっして意見の一致を見ないから、とっとと誰かがえいやっと決めちゃって始めてしまえばいいのである。ついでに夏の有給休暇5週間強制取得も法制化してしまおう。休もうよ、とにかく、みんなでさ。

考えるのを止めるな12歳!2007/10/09 19:13:26

『12歳たちの伝説』
後藤竜二 作 鈴木びんこ 絵
新日本出版社〈風の文学館第2期〉全5巻(2004年~)


「ウチの子のクラス、荒れちゃっててねえ」なんていつか書いてたっけ、そこのお母さん?
必読! 面白い!
大人だったら、ちょいと気合入れて読めば1冊30分くらいで読めるから、全巻読破をチョーおすすめ!

パニック学級とあだ名されるほど学級崩壊していた5年1組。お人よしのじいちゃん先生は辞めてしまい、その後誰ひとり担任として長続きしないまま、そのまま6年1組の春を迎えた。担任には新しく他校からやってきた、頼りなさそうな若い女の先生。ゴリラのぬいぐるみを持ってきたから、あだ名はゴリちゃん――。
児童ひとりひとりの一人称で物語が語られる。いじめられた子、いじめた子、学校なんてかんけーねー、と不登校になってた子。語り口がそれぞれにとても12歳らしくて、とてもリアルである。個人的には第3巻の烏丸凛(からすま・りん)ちゃんの登場がスリリングで好きである。
てんでばらばらのクラスは、まとまりそうに見えながらも、やはり筋金入りのパニック学級でなかなかまとまらない。事あるごとに問題続発。それでも、少しずつ、互いが互いの気持ちになって行動するということを考えるようになっていることが、巻を追ってわかる。12歳の思考の範囲と深さが生々しく見える。もっと考えろ!とエールを送りたくなる。

小学生の親をしているが、現実に「目に見えてひどいクラス」というものは見たことがない。娘が小学校1年生のとき、初めて行った参観で、たしかに落ち着きのない、喋ったりふざけたりする子どもの多いことに閉口した。娘が通っていたのはお寺の保育園で、座禅をはじめとする「おつとめ」や「せんせいのおはなしのじかん」というのがけっこう長時間の日課としてあったので、前で「先生」と呼ばれる人が話をしているときはどういうふうにしていなくてはならないか、は理屈でなく身に染みついている。その保育園出身者が30人のうち、5、6人いたのだが、前を向いてじっと静かに聴いているのは、見事にその子たちプラス2名ほど、だけであった(プラス2名はいずれもハイソなご家庭のハイソな幼稚園出身者だった)。あとの20名余は「何かしている」。隣の子に話しかける者、隣の子と遊ぶ者、立ったり座ったりする者、ひとりで歌を歌う者、ひとりでスーパー戦隊ごっこをしている者……。噂に聞く小1プロブレムというやつだった。周りがこれだと、お寺保育園出身組も、遠からず同類になっちゃうなあ、と暗澹たる思いだった。
ところが結局は、そうひどいことにならないうちに落ち着いてきた。担任は若い女の先生で、可もなく不可もなくという印象だったが、新卒で着任以来低学年ばかり受け持っているということだった。プロブレムだらけの「小学生という名の幼児」たちの扱いに慣れていたのかもしれない。娘は学校が大好きで、毎日運動場にお泊りしたい、家に帰る時間がもったいないとまで言っていたので、「学校嫌い、行きたくない」という子どもがいるこのご時世、なんと私はラッキーかと思って彼女の小学校生活は彼女自身に任せきりであった。

だが、やはりそうはうまくいかなかったのである。

たびたび言及しているとおり、娘の小学校は小中一貫制度なんぞを取り入れ、内外から注目されているけれども、大小高低さまざまなプレッシャーやストレスが、教師にも子どもにも親にもかかっているに違いないのである。これまでの5年半の間に、精神的な疲労によって退職した教師は5人を越える(私がガミガミ文句をいった先生たちはピンピンに元気だっ)。また、娘の学年にはないが、やはり3年、4年になっても落ち着かないざわついた雰囲気のままのクラスもあるらしい。ある教師は数名の保護者からの糾弾によって「休養」に追い込まれたという噂もある。図画工作作品が明らかに故意に壊されていたり、上靴や教科書を隠したり捨てたりなんて陰湿な嫌がらせは日常的に起こっている。あからさまに目に見えないだけに、気分はよろしくない。

ウチの子もずいぶんな被害にたびたび遭っている。考えるだけしんどいし辛いので、私たちはほとんどなかったことにして過ごしている。でも、ほんとうは徹底的に考えたいのである。ある行動を起こすときの子どもの心理、刃物でノートを切り裂いてやる、と思って実際に実行に移すときの感情、その子の脳裏に去来する黒い影の正体。いくら考えても、わかりっこないだろうが、実際には、考え抜いたことはない。
キレイごとを言うのでも、「ええかっこしい」で言うのでもなく、「そんなこと」をする子どもの心をできることなら救いたい、と思うのである。だが、日々にかまけて後回し先送りうやむやにしている。3年前、教室に畳んであった娘の衣服を鋏でずたずたに切ったるりちゃん(仮名)の心模様を追究するのも、るりちゃんとそのお母さんが大泣きに泣いて謝りに来た風景を思い出すと、できなくなる。考えるのをやめてしまう。

『12歳たちの伝説』を読んだからといって、そうした子どもたちの単純かつ複雑、浅はかかつ深遠な思考回路を理解できるわけではない。しかし、なんというのか、たとえば、いままで気にも留めなかった「物静かなあの子」や、いつも寒いギャグを飛ばしては「無視されているこいつ」の心の中を少し覗けそうな気にさせてくれるのである。
娘が、「あいつは××だから嫌い、口利かない!」なんていうとき、以前は「ああ、そんなやつほっとけえ」とろくに聞かず生返事、生相槌していたが、「ま、そういわずこの次は返事くらいしてやれよ」、などというようになった。それがいいことか悪いことかわからないが、もし、子どもの心が閉ざされているとして、それを開ける鍵はやはり毎日近くにいる子どもたちが持っているのではないか。本書を読んでその思いを強くしたのである。



ちなみに我が家では、夏の終わりから「娘が読書に耽っている」という我が家始まって以来の珍事に騒然となっている。読んでいる本はといえば6年生のくせに低中学年向けの平易なものが中心だ。ま、何でもいいぞ、読め読め!とヨコヤリいれずにほっておいたが、私がえらい勢いで読んだ本書のシリーズにようやく手をつけて深刻な顔をして読んでいる。
よしよし。

しばし立ち止まれ14歳!2007/10/13 17:39:23

先月の陸上予選会。出場した6年生女子一同である。賞状を持っているのがさなぎ。


『いじめ 14歳のMessage』
林 慧樹 著
小学館(1999年)


本書は、著者の林さんが本当に14歳のときに書いたもので、「第18回パレットノベル大賞審査員特別賞受賞作品」だそうである。林さんは小学校6年生のときと中学生のときにいじめを受けたが、そのときの辛い経験をもとに書いたのがこの小説だ。自分の経験をもとにしているけど、物語は一人称ではなく「彗佳(すいか)」という名の主人公をたてている。
中学生の彗佳。クラスでは、町の実力者の娘である陽子らが、理由もなくふざけておとなしい千夏をいじめていた。陽子と自分は仲良しだと思っていた彗佳は、あまりの様子にもうやめたらと言うが、その翌日から彗佳が陽子らのターゲットになる。いじめはあっという間にエスカレートするが、気づいているはずの教員らは見て見ぬ振りをする。ほかのクラスメートも知らんぷりだ。彗佳にとって辛かったのは、千夏が陽子らの仲間になっていじめる側に回ったことだった。彗佳は身も心もぼろぼろになっていくが――。

14歳の小説であるからして、「勢いにまかせて書いた」感あり、描写がだらだらとしつこい箇所ありで、たしかに幼さや未熟さは否めないけれど、いじめられる側の心情を吐露した素直な文章である。といって、被害者感情むき出しの「訴え」「叫び」ばかりでなく、客観的に状況を語るところもあって、著者が小説としての形態を整えるのに苦心した跡も見受けられる。
文学作品というよりは、中学生の長い手紙といっていい。この年頃の子どもの気持ちに寄り添いたいと思う人なら、読み甲斐があると思う。

この本、たしか1000円もしなかった。まだウチの子は保育園児で、「いじめ」も「14歳」もまだまだ遠い遠い彼方にあった頃、たぶん世間で何か起こっていたのだろう、私は書店で発売されているのを見たとたん衝動買いしている。
素直な文章はストレートに語りかけるけれども、先に述べたようにだからといって何度も読んだり、熟読して味わうような類のものではないので、私は一度読んで、娘の書架にねじこんだままほうっておいた。

やがて娘が小学生になり、少しはニュースを理解できるようになると、この本のタイトルの「いじめ」が目についたようだ。だが残念ながら小学校低学年に中学生の語彙は難しすぎた(苦笑)。
やがて進級し、自分も学校でろくでもない被害に遭うようになり、また「金八先生」なんて類のドラマを見るなどして再び本書を手に取るが、読書癖がついていなかったため冒頭の2、3ページで即眠くなり断念(泣)。
だいたい、ワクワクするような文体ではないので無理もない。読み聞かせを試したが、ほんの数行で寝るのでやめた。

しかしである。
昨日、とうとうウチの子は本書を読み終えたのである。
しかも読み始めてから4日ほどである。早いではないか。
おまけに「これ、途中ちょっとだらだらするよな」などと生意気をほざくのである。

陸上の練習に明け暮れた夏休み。休みが明けて、これは推測だが、娘のクラスメートたちはたぶん「読書ノート」にぎっしりと「成果」を書き込んで登校したに違いない。
2年に一度配布される読書ノートに、「読んだ本」として書き込まれるタイトル数が二ケタに達したことは、娘の場合、自慢ではないが、いまだかつてなかった。しかしクラスメートの中には読書ノートが「1冊では足りない」子がいくらもいる!
というわけで、あたしも読むぞ!という気になってくれたのである。
喜ばしいことである。
かくして、5年生のときにもらったそのノート、6年生の8月の終わりまで2、3冊しか記入がなかったのに、10月初めで30冊に達しようとしている。天変地異の前触れかもしれないので皆さん要注意である!

本書の前には、前回紹介した『12歳たちの伝説』を読んでいた。(全巻読破はまだだが)
どちらかというと、軽い探偵ものやミステリー、ファンタジー系を好んで選んでいたが、この『12歳―』を読んで、リアリティへの関心も向いたようである。よしよし。

「先生たちが、ひどいよな」
というのが、読後感想の第一声であった。本書で描かれる学校は、まったくただの器でしかなく、教員は機械人形でしかない。いじめの被害者からはそのようにしか見えないということであろう。

「自分が何やってるか、って途中で考えないのかな」
というのは、陽子たちの暴言、嫌がらせ、暴力行為に関する感想である。

途中で、止まれないのかもしれない。
12歳なら、まだ怖気づいたり、躊躇したりして立ち止まれるところで、14歳はもう止まれないのだ。暴走してしまうのである。いじめられる側すらも。
でも、止まってくれ。
その一歩、踏み出す前に。
もう一度、前を見て。周りを見て。
振り返って後ろを見て。視線を落として自分の足元を見て。

立ち止まったからって成長は止まりやしない。だから安心して、立ち止まってみてくれ、14歳!

カミサマの居ぬ間に洗濯?2007/10/15 16:17:03


『新訂 徒然草』
西尾実・安良岡康作校注
岩波文庫(1928年、1985年改版)


本当に涼しくなった。朝晩、寒いくらいだ。我が家はまだ扇風機を出しっぱなし、玄関先の間の建具は葦戸のままで、風通しがすこぶるよいままであるからして、朝夕寒いのである。我が家はオスは金魚だけなので、そうした力仕事は私の仕事だが、その私がいちばん時間がないときている。ごめんねみんな、朝晩は一枚よけいに着込んで、もう少し我慢してくれ。

秋深し。読書の秋。ちとテンプレートを取り替えてみた。
あさぶろさんからは毎月新しいテンプレートが提供されているが、あまりキモチにフィットするものがないのである。
とりあえず今は、読書の秋期間限定テンプレである。

仕事で資料をあさっていたら、兼好法師の『徒然草』にいきあたった。
なんと懐かしい。冒頭の「つれづれなるままに……」を習うのはいつだっけ? 中学生か高校生か?

第二百二段で兼好法師は「十月を神無月と言ひて……」、その理由は神事によるというけど確証はないんだよ、てな話をしておられる。
なんでも、10月は神様に号令がかかり、皆さん出雲に大集合されるらしい。それで巷から神様がいなくなってしまうのだが、神様がいなくなって下々はどうなんだろう、不安な日々をおののきながら過ごすのか、それとも目の上のたんこぶのしばしの留守に羽を伸ばすのか?
おおかたの現代人にとって、神様は都合のいいときだけ祈願の対象になる便利グッズというか便利ゴッド、だけど、昔の人々にとってはどうだったのだろうか。この国には八百万(やおよろず)の神様がいるから、いつも一緒にいてほしい神様も、「元気で留守がいい」神様もいたであろう。

『徒然草』には、わが町の地名がたくさん出てくる。
今は舗装道路になって国際マラソンのコースになっているような道を、草履でてくてく歩いた人のことを思うと、それはけっして千年も昔のことなどでなく、こないだ亡くなった隣町のじいさんの伯父さんだった人、くらいに思えるのでまた不思議である。

でありながら、古典を読むよさは、やはりその書き手が古(いにしえ)の人であることに尽きる。同じことを、現代の自称知識人や詐欺師まがいの文化人なんかが言うのを聞くと「るせーよテメー黙ってろ」とすぐ毒づきたくなってしまうが、千年も前の人の仰せのことは、単に「虫が啼く、いとをかし」みたいな文でもありがたく思えて心穏やかになるのだ。

《筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤打たんことを思ふ。心は、必ず、事に触れて来る。》(第百五十七段)

筆を取れば自然と何か書くようになるものなのであると仰せである。

ニャンてこった再び、の巻2007/10/16 20:31:12

『3びきねこさんとさくらんぼさん』
柳生まち子 作
月刊予約絵本「こどものとも」543号(2001年6月)
福音館書店


我が家のネコさまだが、膀胱炎を再発あそばされたのでござる。
9月に入って急に朝夕冷え込んだのが原因とな。
もうこれは体質としかいいようがありません、とはかかりつけ医の言。
まめに尿検査をして療養フードでコントロールしましょうとの仰せでござる。

尿結石と膀胱炎は同じではないけど、どちらかになれば他方も併発するという。
冬から春にかけて発症した膀胱炎をひきずって、なかなか尿中のストルバイトがなくならなくて、pHもアルカリに傾きがちで、すっきりしないねえ、といいつつ夏を迎え、あまりの暑さにネコさまの食欲も減退していたようなのであったが、少し涼しくなりまたよく食べるようになった頃、9月に入って定期健診だとかなんとかいって尿検査を奨められ診てもらったら、やはりアルカリが高かった。
いけませんねえ、1週間後もう一度検査しましょう、といわれたけどその1週間を待たずに、2日後、ネコさまの様子がおかしくなった。どうもこれは冬のときと同じような頻尿行動である。で、検査してもらったら案の定。その翌日には猫砂が赤くなり、ああこれは血尿だと思われたので再々検査。
療養フードに速攻で切り替え、お薬をいただいた。
1週間後。頻尿行動も血の色もなくなったと思ったけど、顕微鏡で見るとまだ血尿だって。
さらに1週間分のお薬をもらった。そして1週間経過した。再び再びクリニックへ行かなきゃならないが、採尿を忘れちゃうのである。

なぜなら我が家のネコさま、いまやすっかり足取りも軽く、気候がよい日は窓辺で昼寝、すこおし寒い日は誰かの寝室の毛布の上で昼寝、家族みんながいるときは食器棚の上で昼寝とステップあざやかなのでござる。
かかりつけ医によれば、膀胱炎にしろ何にしろ、具合の悪いときの猫はやたらと啼き、やたらと動き回って落ち着きがないそうである。
寝てばかりいるのは健康らしい。とりあえず若い猫の場合。
しかし我が家のネコさま。
私の顔を見ればカエルのミドリと遊びたいとニャーニャーねだり、ばあちゃんの顔を見ればご飯ちょうだいとニャゴニャゴねだり、娘の顔を見ればミュウミュウと追い回しくっついて離れない(座り心地がよいらしい)。
と、あまりにお元気であらせられるので、もしやまだ完治はされていないのかも知れぬ。

明日こそ、検尿、もって行かなきゃのう、と心を決する毎日である。

ところで、『3びきねこさんとさくらんぼさん』。
娘が通っていた保育園では、この月刊絵本を強制的に購入させられていたのだが、私にとってはとても楽しみなことであった。時にはイマイチの絵本もあるけど、さすがは福音館書店というべきか、あまりハズレな絵本はなかったように思う。
この月刊絵本から、(おそらく読者の反響などを考慮して)単行本化される絵本があるが、『3びきねこさんとさくらんぼさん』は残念ながらなっていないようである。
単行本化されないままの絵本はけっして少なくない。
であるからして、購読していた時期の、それらいくつかの絵本が単行本化したらしたで嬉しいが、しなかったらしなかったで希少価値があるのでそれもまた嬉しいのである。
柳生さんは『3びきねこさん』のシリーズを4冊、月刊「こどものとも」から出していて、うちシリーズ3作目が単行本化されたそうである。それはそれで、めでたいことである。

春風に乗ってやってきたかのような、とってもキュートなお姉さんねこの「さくらんぼさん」がお洒落で可愛い。さくらんぼさんは編み上げの靴を履いて、3びきねこさんのうちの1匹、「きい」君に赤い靴を貸し、スキップを教えてやる。ほかの2匹は美人のさくらんぼさんに見とれてボーッ。実はさくらんぼさんは「靴屋さん」だった。春の野原に100足の靴を並べて動物たちに勧めるのを、3びきねこさんたちはお手伝いにいそしむ。

これが配本された当時、私たちの頭には本物の猫がいなかったので、猫も、その友達として描かれるブタやイタチやキツネと同様、想像の動物でしかなかった。
今、こういった猫を描いた絵本や物語に接するとき、どうしてもウチのネコさまに思いが行き、比較してしまう。べつに悪いことでもないだろうが、あまりいいことでもないように思う。『3びきねこさん』の猫たちはあまりに擬人化されているので、多少なりともその生態を知っていたら違和感を覚えるんじゃないか、などと、絵本世代である小さな小さな子どもたちの側からすればきっと「よけいなお世話だよ」的な理屈を、ついこねたくなるのである。

私はこの『3びきねこさん』の絵は大好きである。全然よけいな力の入ってない、素直な筆捌き。色の使い方とか、見習いたいのである、次回の手づくり絵本のために。

三日月浮かぶ空のしたで2007/10/19 15:55:12

昨晩は、通称「コマンタ杯」、のオフ会だった。
例によって私はふてぶてしく遅れて到着し、見せびらかすだけ見せびらかして、言いたいことを言って、てきとーに突っ込んでボケて、ほんじゃあ、と、とっとと退席した。
みなさん、ほんとうに、ごめんなさい。

コマンタさんとくれびさんには二度目、マロさんとmukaさんには三度目。ろくこさんとはえーっと、七? 八? 九度目?
と、いちばん多く会っている鹿王院知子さんとでもまだ逢瀬はひと桁なのに。
この、まるで「苦楽をともにした」あるいは「かつて同じ釜の飯を食った」はたまた「おむつを換えてもらっている頃から側にいた」ような親密さはなんだろう。

仕事の都合でよそへ行き、最近Uターンしてきた近所のお兄ちゃん、のようなコマンタさん。憧れていたけど知らないうちにきれいな彼女ができて結婚してしまったのがちょっぴり悔しい中学校の先輩、のようなくれびさん。しょっちゅう家に出入りして悪さをしてはウチの親や隣のおっちゃんに叱られていたのに立派な青年になった弟の友達、のようなマロさん。小さな頃一緒にミミズ千切りや蟻の巣ふさぎをして遊んだ洟垂れ坊主の幼馴染み、のようなmukaさん。今では違う場所で働き違う世界で生きているけど喧嘩したり失恋したり勉強教えあったりなどなど青春の思い出を共有している同級生、のようなろくこさん。

人生をわかちあった過去などありはしないのに、何年にもわたって共同体を成してきたかのような連帯感。これまで互いに積み上げた情報など、いかに多くの文章経由で「交感」してきたとはいえ、わずかな質量に過ぎないはずなのに、ひと言ふた言の言葉のやり取りでいわんとしていることを先読みできることすら、しばしば。
不思議である。
快感である。
悦楽である。

実は、会場へ爆走せんと自転車のペダルに足を置いた直前に娘が携帯を鳴らした。
「今日、タイム更新したよ」
「おおおっすごいじゃん。どのくらい?」
「5分34秒」
「そりゃまたすごく速くなったね」
「ミッチもトモカも、更新したよ」
「みんなすごいじゃん。今日は気候もよかったし、走りやすかったかも」
「うん、みんな調子よかった。マエダなんか20秒台」
「マエダってば毎日更新だろ? すごい。 サトウに代わる北小のエースだな」
「ん、ま、でもサトウは安定してるから相変わらずコーチはいちばん信頼してる」
「女子でいちばん信頼されてんのは?」
「へっへっへー」

大変ご機嫌な娘の声にいつになく幸福感でいっぱいになり、私はメインストリートの車道を観光バスと抜きつ抜かれつしながら自転車を転がした。空に浮かぶ本物の三日月は笠をかぶっていて今日の雨を予測させたけれど、コマンタさんが会場に選ばれたお店の2階の壁には、くっきりと三日月が浮かんでいて、その向こうにはいつ帰っても笑顔で迎えてくれる「もう一つの家族」が待っていてくれた。
これを至福と呼ばずしてなんと呼ぶ。

ネット上でのやり取りがきっかけになった人間関係など幻想だと、他人(ひと)は笑うかもしれない。しかし、幻想といってしまえば、何もかもが幻想である。親子や夫婦の絆だとか、町や村でのつき合いだとか、国家への忠誠だとか愛国心だとか、実体のないものは幻想である。あるいは学歴やキャリアなど社会や時代によって価値の左右されるものだとか、あるいは私たちがふだん実体のあるものだと思って疑うことをしない貨幣なんぞも、幻想である。(※注:このあたり愛するウチダからのウケウリ。>_<;)
幻想は、はかなくて消滅しやすいものと同義ではない。幻想は人間のよりどころになるという意味で強靭である。

私たちは幻想に支えられて生きている。
私は娘に愛され頼られているという幻想に支えられて生きている。
オフ会参加メンバーとの関わりはある日突然解消されてしまうかもしれない。だからこそ、私自身がこの幻想にすがることで幻想を強靭なものにしていきたい。私はあなた方との絆という幻想に支えられて、生きている。