だって、つまんないし。2007/12/03 18:10:42

ふだん何を読んでいるかというと、圧倒的に批評とか評論とか論文集とかが多数派である。エッセイも好きである。
我が家のスペース上の問題および構造上の問題(古い木造家屋のため床が抜けそうなの。そんなに蔵書数はないのに)および経済的な問題があって、もっぱら図書館を利用しているが、行きつけの図書館で純粋に文学を探すのは、児童書のフロアだけである。
そうだ、冒頭で「圧倒的に批評とか評論とか論文集とかが多数派である。」と書いたばかりだが、それを超えて児童書が多い。すぐ読み終えることができるので消化冊数は「批評とか評論とか論文集とか」をもちろん凌駕している。

子どもに読ませたい本を探すというのが大義名分だが、ウチの子は長いこと本を読まない子どもだったので、ひたすら自分が読むものを児童書の書架で探していた。最近は娘がよく読むようになったので、ヤツにも「読める」本を探しているが、結局は自分も読むので、自分が読んでも面白い本を探す。

児童文学は大変よくできている。
子どもは大人よりも数千倍も感受性が豊かで、数万倍も想像力が大きいから、ちょっとこれどやねん(共通語訳:いささかこれはいかがなものか)、みたいな陳腐な一文(児童文学作家の方ごめんなさい)から遥か彼方へ夢や空想を膨らませてくれる。そういうのにつき合っていると、大人でいながらそういうふうに読めるようになる。すると、児童文学のほうが、大人向けの小説よりずっとずっと面白いのである。

しかし、大人としてはそれではイカンのである。

だから私は、このブログを始めたのだった(今、思い出した!)。
こんなもんを作ってしまったら、いやでも大人向けの文学を読んでいるところを見せなくちゃと自分で自分を追い立てるに違いないと思ったのだった(今、思い出した!)。

一年近く経つけど、読んだ本を全部報告してるわけじゃないけど、やっぱ、あんまり読んでない。

読まないわけじゃない、好きな小説もたくさんある。
横溝正史や西村寿行は全部好きである。しかし、これらは映像と相乗りで読んだようなものだから、横に置かなくてはならない。
自分で選んで読んで心底感動したのは現代のものなら『限りなく透明に近いブルー』(村上龍)といつか書いた『カムバック』(高橋三千綱)くらいである。時代ものなら『風林火山』(井上靖)。でも、いずれも何年も前に読んだものだ。
ブログで時たま書いてるように、今も、ぽつぽつとつまみ食いのように読んでは「面白いじゃん!」とカンドーしている。しかしけっきょく、日本の小説を読んで味わう、ということが習慣化していないのである。仕事で作家紹介とかしなくちゃならないとき以外に、文学の書架に足はけっして向かない。図書館でも本屋(立ち読み)でも。

かつて、(私が中高生だったの頃の)国語の教科書にでてきた作家陣はひととおり読んだ。それは楽しむためではなくて、かといって受験対策用に読んだわけでもない、なんとゆーか、読んどかなあかんのちゃうん?(共通語訳:読んでおくべきなのではないか?)というノリで読んだに過ぎず、カミュもカフカもスタンダールもパール・バックもトルストイもそのノリで読んだ、たしか。結果、外国文学の和訳のほうが面白かったのである、たぶん。

今は、小説を読むなら日本のものを、と心がけている。
それはさっき、「大人としてはそれではイカンのである。」と書いた理由でもあるのだが。

現代社会人としての自分の役目は、私は、「次世代育成」に尽きると思っている。
日本にしろどこにしろ、ほぼ社会システムは整っている。ほころびはあるだろうし、改善点はいくらでも見つかるだろうし、国によっては付け焼き刃で効かないくらい崩れているかもしれないが、とりあえず、人類は長い歴史を重ねてここまできている。私たちはそのほんの百年足らずを担うだけである。その短い間に前人未到の大仕事を成し遂げる人々もいる。しかしほとんどすべての人間は、ただその生を生きるだけである。私も、人類の遺産として博物館に入れてもらえるような軌跡を残すことはない。だとすればできることは何かといえば次世代育成しかないのである。
だから私は子どもを産んだ。
学生時代から社会人のある時期まで、つねに「後輩」というものがいたうちは彼らとの接触のうちに私の知ってること、彼らが知りたいことを伝えていればよかったが、ある時期から後輩とか部下というもののない環境に身を置くようになった。そしてまもなく、子どもを授かった。私は子どもを持つことで子どもとその周辺の世代とかかわろうとした。そうすることが、どのような形であろうと、反面教師の形であろうと、次世代育成につながるとの信念からである(とゆーとカッコいいが、ほんとうは親になりたいというエゴイズムからである)。
でも、そうして子育てにいそしむ過程で、自分に不足しているものが「日本という国について日本人がどう思っているか」に関する知識であると、つくづく感じたのであった。

幕末、維新、幾度もの戦争。劇的に変わったこの国で、それぞれの時代に生きていた人たちが共有していた思いについて、私はあまりに知らなさ過ぎる。もちろん知らなくても生きていける。でも、自分の役目がもはや次世代育成しかないとき、自分の中の土台というか基盤というか、思考の核に、そうした日本人史のようなものが必要だと感じたのである。

だから頑張って日本人が書いたものを読まなくちゃ!と、ここ数年来努力しているのである。
しかし、やはり読むのは批評の類になってしまう。だって、そのほうがわかりやすいし。
戦時をモチーフにした小説などは、なかなか辛くて読み進めないし。
でなければ、つまんないし。

そう、つまんなかったんだ。
たぶん選ぶ本が間違っていたのだろうが、もうだいぶ前だけど、手を出した本が立て続けにハズレだったことがある。
出す本全部ベストセラーになるワタナベさんとか、熱烈なファンが多いと聞くコイケさんとか、とってもつまんなかった。
つまんなかった!!!


えー、ここからは余談。
フランス文学の場合、原文を推測しようとしてアタマが要らぬほうへ働いて楽しめないことがある。
他の国の文学の場合は、これまた国家の事情がちらついて純粋にストーリーを楽しめない(各国の事情に通じているわけではないのだが)。
私は英米文学をまるで読まない。児童書の場合は英米ものの古典に良書が多いので、現代ものも読むことがある。そしてやはりやめときゃよかった、子どもには教えないでおこう、などと思う。
なぜなら、自分の中に「日本人史の核」のないことを忘れて、文章の表面をとらえて何かとつい批判的になることがあるからだ。人のことはいえないのである。

余談その2。
コマンタさんお訊ねのグリッサンは、カリブの作家・批評家である。『Tout-monde』を読んで(全部理解したわけではない、もちろん)、「おおおっあなたこそわが師!」と思って生涯かけて全著作を原書で読んでやるーと誓ったが、数年経って翻訳『全世界論』が出て、すごすごと買った(泣)。それでも何とかいずれ原書を読破したいと思っている。なんといっても彼は、セゼールの次に私を今に導いた師なのである。読み切っていないのに、理解に達していないのに師と呼ぶか? 呼ぶのだ。それは正しい。……とウチダも言っている。