おてて、つないで♪2008/01/08 20:47:07

『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』
内田樹著
講談社(2007年)


1月5日、娘と二人で「初図書館」した。
自転車置き場で3歳くらいの男の子が顔中涙鼻水だらけにしてわあわあ泣いていた。舗道まで出ては引き返し、自転車置き場の自転車の間をあてなく歩き、図書館入り口前でぐるりと歩いてはまた舗道に向かう。
迷子だ。お母さん、といって泣いているのだろうけれど、もはや言葉になっていない。むやみに舗道へ出ると危ないので私は駆け寄ろうとしたが、ふと足を止め、様子窺いをすることにした。
図書館からはけっこうな数の人々が頻繁に出入りしている。私が男児に声をかけようとした直前、男児の脇を中年男が「オレ関係ねえ」とばかりに知らん顔ですり抜けていった。隣接する別館から出てきた年配の婦人ふたり連れは「迷子やわあ」と眺めて通り過ぎていった。小学生たちは男児を気にして視線を投げつつ、なす術なく通過。いったいどれだけの人々が迷子の幼児を放置するだろうか、と観察する気になったのである。しかし、観察はものの数秒で終わった。迷子の男児が再び図書館入り口に向かいかけたとき、彼と同じくらいの年頃の女児の手を引いた女性が、彼に声をかけた。男児は大きな口をあけてわあわあ泣いたまま、女性の問いかけに頷いたり、かぶりを振ったりしている。女性はこっちにおいでという仕草をして、図書館内に彼を連れていった。
よかった。男児が保護されたこともだが、どこから見ても迷子にしか見えない小さな子をほうっておく人たちばかりじゃなくて、と心底思った。私はほとんど男児に駆け寄りかけていたので、どのみちそんなに「実のある」観察はできなかったと思うけれど。

件の女性が声をかけたとき、娘が「あ、あれがお母さんじゃない?」と言ったが、私は「違うよ」と訂正した。わけは、女性がまったく男児に触れようとしなかったからだ。声をかけるときも、しゃがんで男児の目線に合わせることはせず、上から見下ろすばかりで、手招きし、図書館内へ一緒に入るよう促すときも、1メートルほど先に立って歩いて、手を自分の後ろでひらひらさせただけだった。
母親なら、我が子を見つけたら(喜んで見せる親も叱りつける親もそれぞれあるだろうが)駆け寄ってまず子どもの顔の高さに自分の顔をもっていくだろうと、私は思ったのだ。思ってから、最近の母親はそうはしないかもしれないな、と「あれがお母さん」といった娘の見解に妙に得心するところがあった。

道端だろうと電車内だろうと百貨店だろうと、ひどい罵り方で子どもを叱りつける母親を星の数ほど見た。彼女らは、子どもが行儀悪いからとか、言いつけや約束を守らないからとか、そういう理由で叱っているのではなく、ただその振る舞いが、自分にとって気に入らないものだからアタマに来て罵っているのだ。私にはそんなふうに感じられるケースばかりだった。
夏に訪れた観光地でのことだ。ひとりでは靴をうまく履けないくらいの幼児が、どうにかこうにか靴を足に引っ掛けて、先にさっさと歩く母親に追従しようとするのを、母親は振り向きざまに「なんでそんな履き方しかでけへんねん!」と怒鳴りつけ、次いで「ほんまにそういうのが嫌いなんじゃ!」と言い放って舌打ちし再び背を向け歩き出した。そんな言葉を浴びせられた子どもは、だから泣きながら履き直すかといえばそうはせず、無表情で、足指の先に靴を引っ掛けたままで、母親の後をついていくのだ。
叱る、罵るケースだけではない。
自転車の往来や大きなカートを転がす旅行者も多いある大通りの舗道で、いかにも歩き始めたばかりといった可愛らしい足取りの幼児がよちよちと歩いていたが、驚いたことに母親らしき女はその2メートルもの先に背を向けて歩いているのだ。時折振り向いて、「ママここだよー早く歩こうねー」なんていう。いったのち、また背を向けて歩き出す。
別の日には、信号を待っていた家族連れらしき集団から、ひとり3、4歳くらいの男児がいきなり後ろへ(車道とは反対方向に)飛び出して、舗道をゆるゆると自転車ころがしていた私は慌てて急ブレーキをかけた。もう少しスピードを出していたらぶつかるところだった。一緒にいた親が驚いて振り向き子どもを抱き上げ「危ねえな!」と私を睨みつける、とかなら、まだいいのである。その子の父親(たぶん親だと思うのだが)は、私の自転車の急ブレーキの音には反応しなかった。ぼけえーっと私を見上げるその子に私がかけた「だいじょうぶ?」の声に「ん?」てな感じで振り向いて、「自転車、来るよ」とその子にいっただけだった。
公園で子どもを遊ばせておいて、ファミレスで子どもがそこらじゅうこぼしまくって食べてる横で、スーパーの売り場で子どもが勝手に商品をいじくっているのに目もくれず、自分はケータイの画面から眼を離さない。そんな親は毎日何人も見る。

表出の仕方はさまざまだが、みな同類だ。

なんでみんな、子どもの手をつながないんだよ?
なんで、子どもから眼を離すんだよ?

手をつないで導いてもらえない子ども。同じ目線で語りかけてもらえない子ども。ケータイを見る「ついで」にしか視線を投げてもらえない子ども。
こんなにも幼い頃から「自立」という名の「孤立」を強いられている子ども。「自己責任」のうえで、「自己決定」し、その結果について「自己評価」させられている子ども。

子どもにそんなことを強いるわけは、親がよかれと思っているからに他ならない。もう年功序列は崩壊、優良企業も倒産のおそれと背中合わせ。我が子が生きていく社会は誰も助けてくれない能力主義社会なのだから。そして、その親たちも、そのように育てられたのだから、「だから私たちはこうして自立し、自己責任において自己決定してこの社会を生き抜いている」と、自己評価しているのだ。

「その親たち」と私が呼んだ世代は、昨今「モンスター親」「クレイマー」などと揶揄される40代を中心とした親たちとは異なる。すぐにかっとなったり、あるいは冷静にしろ、問題をトコトンまで追及して責任を問う、などといった行動にはおよそ興味がない。彼らは自分にしか関心がない。関心の的は、「こんなによく働く夫をゲットした自分」「こんなに美しくお洒落な妻を手にした自分」「こんなにブランドものの服がサマになる可愛い子どもを産んだ私」であり、けっして「働く夫」「美しい妻」「可愛い子ども」そのものではないのである。また、それら《「働く夫」「美しい妻」「可愛い子ども」から見た自分》でもない。あくまで自分に見える自分。

個性の尊重と自立心の確立、そのような、よさげに聴こえる言葉を乱発して、文科省を筆頭にこの国の社会やメディアは人々を翻弄してきたが、その成果がこんな形でしっかりと現れている。もはや誰もが、本当の友達ももてず、頼れる隣人や仲間をもてず、相談できる同僚や先輩や師ももてず、よるべなき「個」として生きるしか道がなくなり、まさにそれを苦にせず生きているのである。

本書『下流志向』は、著者が2005年に行った講演がもとになっている。その講演に先立ってよりどころとされたのは、「学びから逃走する」子どもたちについての佐藤学の議論や、勉強しなくなった子どもや根拠もなく自信たっぷりでいる子どもにかんする苅谷剛彦や諏訪哲二の調査研究、希望の格差を論じた山田昌弘の著作などである。
2007年1月、本書が刊行されたが、私はタイトルと装訂デザインになんとも暗雲立ち込めたゲンナリしたものを感じたので、購入する気になれず図書館へ出向いた。そのときすでに数十人もの予約が入っていたのでいったん諦めた。数か月後再び予約しようと思ったとき、市内の十を超える公立図書館は合わせて30冊以上の『下流志向』を蔵書していた。そのとき、予約人数は200人を超えていたが、案外早く回ってくるかもという予想を裏切ることなく、ほどなくしてある秋の日、本書を読むことができた。

ただし、この話題自体はもう語りつくされた感がある。
私は、たまたま、佐藤氏をはじめとする彼らの議論にも馴染んでいたので、本書で語られる内容そのものには新鮮味を感じなかった。「学ばない子どもたち」「働かない若者たち」はもうすでに社会の多数派を形成し、この国の未来を脅かしている。脅かす、というのは失言か。彼らは彼らそれぞれ、個々にとって「快適な」場所さえあればよく、ひとりで生きていけるような社会でありさえすればオッケーなのだ。周りは、すでにそんな人々ばかりである。

私たちは、いったいどうすればいいのか。本書はその問いには直接答えてはいない。これこれをこうしたら、というような応急処置では快方に向かえないからである。
子どもたちが積極的に学びへ向かえるように、まず、仕向けるのは親の義務である。子どもがもっているのは「教育を受ける権利」であり「義務」ではない。「義務」を負うのは親のほうである。親は子どもに学ぶ喜びを味わわせなくてはならない。学ぶことが快感だ、次々と学ばずにいられない、子どもがそう在るように育てるのが親の義務だと、ウチダは言っている。まずはそこから、やり直すしかないのである。

さて、この本のブームはどうやら去ったらしい。寒くなってから以降、『下流志向』はわざわざ予約手続きを取らなくても、いつ図書館に行ってもたいてい書架にあった。私は、借り出し冊数に余裕のあるときは、既読のものでも必ずウチダの本を借りることにしているので、『下流志向』は繰り返し私の手許に来てくれ、愛するウチダの肉声がそこで響いているかのような臨場感を私に味わわせてくれている。
本書の面白いところは、講演会場のフロアからの質疑応答も収録していることだ。質問者の中には、どうしてもウチダの議論に納得できない人も見える。そうした質問者に透けて見えるココロは「そんなのそれぞれの勝手じゃないか」である。講演会場に来ていたのは社会的地位のある企業人たちだと思われるのだが、彼らですら、すでに、「自己決定/自己評価組」なのである。

我が家といえば、最近は私が身をかがめなくても、娘と目線が同じである(泣)。さてこれから彼女にどう対処していけばいいのだろう。彼女がしっかりひとりで歩いていってくれるのはもちろんだが、必要なときに手を差し伸べてくれる友人に恵まれ、彼女の意見や主張に耳を傾け、糺してくれる人々と手を携えて生きていってくれるようにするには。
愚かな親はただただ悩み迷い続けるのである。