無駄な抵抗と知りつつも ― 2008/02/28 19:57:59
小林秀雄 著
角川書店 角川文庫(1954年初版、1968年39版、1978年改版27版)
中原中也といえば小林秀雄なのである。
中也の詩に出会わなければ、小林秀雄など読もうと思わなかったに違いないのである。
私の手許にある小林秀雄の本は、本書のほかに同じ文庫の『私の人生観』、それだけだ。小林秀雄という著作家は、絶対に読むことを避けて通れなかった人であったと記憶している。それは、もしかしたら私たちの世代が最後かもしれないが……。著作は推薦図書にもリストアップされていたし、教科書や参考書に引用されて問題文として掲載されていたようにも思う。
が、私にとって小林秀雄との出会いは、いわゆるお勉強エリアではなかった。個人的な趣味や関心から著作を読み、小林秀雄の思想に共鳴したとか、批評に感じ入ったとか、論ずる内容が興味深かったとかでも、もちろんない。
「コイツが中也からカノジョを盗ったんだな」
小林秀雄を読むきっかけはそこだった。
とはいえじっさい、ことの真偽はどうでもよい。
12~16歳の頃って、探偵小説の絵空事の世界にばかり頭を置いていた。そして普通の小説は読まず詩ばかり読んでいた。好きな詩人は幾らもいたけど、生きた国や時代がてんで違って共感を覚えて味わうというよりは、絵本をめくる感覚で、自分の中で乙女チックな絵をつけて詩を読んでいた。自分のつくった詩にイラストをつけるのが、その頃の私の趣味であった。つまり、文学史上に残る名だたる詩人たちを、私は単に自分の趣味仲間に入れていただけなのである。中也の詩もその範囲内にあったのだ。
だが思春期の私は、中也の評伝などに触れ小林秀雄の名を見知ったとき、イラストポエムのきらきらふわふわしっとりした世界からドロドロした人間関係の中に放り出されたような気がした。ムムム、これははっきりさせなきゃいかん! みたいな気分で、小林秀雄を捕まえにいく。
で、読んだ。
彼のどの文章を最初に読んだか、全然覚えていない。
しかし、とにもかくにも、小林秀雄を読んでいるとき中原中也の名はすでになかった、私の頭の中には。
書いてあることが難しすぎた。
文字をたどるだけで精一杯だ。
あかん、読めへん。
ギブアップしてはリベンジを試みる。
そんなことを繰り返したが、なぜリベンジを試みたのか、そのわけは、たぶん、その自信たっぷりの語り口にモーレツに惹かれていたからである。
意気込みは十分だが飽きっぽい、そうした生来の性分が最もトンガって表出していたこの頃の私は、「つまらない」「難しい」「わからない」という感想をもった書物に再度チャレンジするということはほとんどなかった。今もって、なぜ小林秀雄に食いつこうとしたのか、自分のことでありながらそのココロがわからない。しかし、振り返れば、現在の私の批評文嗜好は小林秀雄との出会いに端を発すると思われる。
「自信たっぷりの語り口」、そういう文体で書く人の、脳内がするするつるると透けて見えるような文章の場合、その人は単に偉そうなだけで大したヤツじゃない。
「自信たっぷりの語り口」で書かれた文章に、二重三重、いやもっと幾重にも、書かれたときの気分、心情、動揺、意図、思考、確信、疑念……が載せられ詰められ隠されて、書き手の真意が明快なように見えながら、実はその真意は影武者でした、みたいに、一筋縄ではいかないあぶり出し迷路パズルのような仕掛けを感じるとき、その文章の書き手という人間を、なんとなく、信用していいと思える。
私には、今書いたのを読んでくださればわかるけれど、このようにまったく上手に言い表すことはできないながら、文章に対するある好みがある。その好みを、かたちづくったのが、私の、小林秀雄なのである。
小林秀雄について、いえることはあまりない。
だって、今でもまだ、彼の書いたことがわかったとはいえないからだ。
初めて読んだときから三十年くらい経つけれど、『無常という事』『私の人生観』、両方とも、実は二十年くらいの間ダンボール箱に入って物置で眠っていた。何年か前、物置きを整理し、さすがにこれは要らないな、というかなりの数の本を古書店に処分したが、この二冊は手離せなかった。そのときに上で書いたようなことを感慨深げに考えたわけではない。ただ、私の手が、これらの本を「古書店行き」と書いた段ボール箱には入れずに、書架に並べ直しただけである。そのとき、ぱらぱらと、変色したページをめくり、そこに並ぶ小さな古い活字がとても懐かしかったけれど、数行をたどってすぐに、ああやっぱり、じっくり腰を据えて読まなきゃダメだよなと、ため息ついて書架に押し込んだのだった。
ところがいま、小林秀雄の何度目かの読み直しを、私は試みている。その気にさせたのは、あの人である。(コマンタさん、わかるでしょ?)
小林秀雄について、いえることはあまりない、と書いたけど、ひとついえることがある。
本書『無常という事』に納められた彼の肖像写真は、なかなか渋くてカッコイイ。ダンディなオジサマ然としていて、こういう男も非常に美味しそうに感じたはずなのである、十代の私は。無駄な抵抗と知りつつ小林秀雄に食いつこうとしたのは、彼がええおとこだったからにほかならない。
《ぼくは、星を見たり雪を見たりして夜道を歩いた。ああ、去年の雪何処に在りや、いや、いや、そんなところに落ちこんではいけない。ぼくは、再び星を眺め、雪を眺めた。》(『当麻』より 本書59ページ)
コメント
_ 儚い預言者 ― 2008/02/28 22:03:40
_ コマンタ ― 2008/02/29 00:54:44
そういえば、学生時代の女友達(岡山出身)は定期入れに小林秀雄の写真(モノクロ)を入れていましたね。かっこいいって。ああいうかっこいい男から生まれた娘はファザコンになるでしょう。たしか娘さんが嫁いだ先のお父さんは白洲次郎ですよね。
ぼくは小林秀雄の書いた『本居宣長』も興味ありますが、そのまえに『感想』にとりかかりたい気分。なぜ途中でやめて、出版も禁じたのか。自分の目でたしかめたい。そんなことできないと思いますが(笑)。
預言者さまのいわれる「業」のタイプが似ているのでしょうか。小林秀雄をはさむと、蝶子さんとぼくってすごく近い気がします。よね? 千夜千冊の松岡正剛さんが「小林秀雄の思想の70パーセントはベルクソンだ」といっていました。バカだねえ、と思いました。
_ midi ― 2008/02/29 08:11:48
預言者さま
なるほどそうですね。その人が好きであるということは、その人の怒った怖い表情も、優しい穏やかな笑顔も両方好きだから、というよりは、おっしゃるように、その好きな人の顔を見たときの幸福感の比較を楽しむことなのかもしれません。また、おっしゃるように、無限にある相手の表情を自分と一緒にいることでどれだけ引き出せるかという可能性。
コマンタさん
ピンポーンです。『無常という事』文庫本の年譜には、「本居宣長を執筆中」とありました(笑)。古いんだあ、この本も。
小林秀雄の講演ってCDになっているんですか。聴いてみたいーー。だけどそんなもの、どこに売っているんでしょう?
>千夜千冊の松岡正剛さんが「小林秀雄の思想の70パーセントはベルクソンだ」と
その微妙な70%という割合は何を根拠に(笑)。ベルクソンという哲学者に手も足も出なかった私は、だからってどうこういえませんが。
_ おっちー(鉛筆) ― 2008/02/29 12:43:45
たぶん僕には「小林秀雄」という方の本は理解できないのでは? と、思ってしまいます。
蝶子さんにも消化しきれていないのに、僕だったら手強くて、咀嚼することもできなさそうです。
でも名前だけは覚えておきます。小林秀雄……結構よくありそうな名前だなあ。古本屋でもし目にしたりしたら、手にとってみよう。
ありがとうございます。
ではでは。
_ コマンタ ― 2008/02/29 14:18:00
もう聞き飽きちゃったし、iPodに入っているので。
今度オフがあったときに持っていきますね。
手紙はついてないけど。(^_-)
ただジャケットの写真は晩年のものですので期待しないで。
ぼくもベルクソンは何度も放棄しました。
20年以上たって去年から少しわかるようになりました。
少年老いやすく、ということになるんでしょうか。
_ おさか ― 2008/02/29 19:17:34
ひでおさんの本は私読んだことないので
見かけだけに言及します
確かにええおとこですなあ
この着こなしが特に素敵♪
中也くんが振られてしまったのも無理はない
なんかこう、磐石って感じしますもんね
ゆやーんゆよーんにも惹かれるけどそれで一生はつらいかなって感じでしょうか
と、この知的なサロンでくだらないことを言って去っていく
びゅーん
_ ヴァッキーノ ― 2008/02/29 21:03:52
ブランドものの服は高いけど、やっぱり仕立てがしっかりしてるし、長持ちしますもんね。
詩に必要なものは、思想なのかもなあ。
それと、それを噛み砕いてミキシングする才能。
詩人のばかーー!
_ 儚い預言者 ― 2008/02/29 23:38:24
モーツァルトは人間的にはちょっとみたいですけれど、その音楽たるや、誰が聞いてもそれと判り、そして隙のない、逆説的に宇宙の広さを調和させるみたいな音楽です。本人は、ただ頭に響く音を書き留めただけといいますが。あっひーーモーツァルト論ではなかったかーー、みたいな。
_ midi ― 2008/03/01 00:15:20
おっちーさん
>小林秀雄……結構よくありそうな名前だなあ。
ははははは。なんつうことを。そりゃまあそうだな。しかし、君。そりゃ、なんつーか、あんまりだよ(泣)。あああこの世代間ギャップよ。
コマンタさん
うそっほんと?ちょーだい!
おさかさん
だよねー。あたしが泰子でも小林秀雄に走るわよって話をさっきろくこさんとしたんだーい♪
ヴァッキーノさん
小林秀雄は詩は書かないよ。君のいう詩人は中原中也のことだね? 私は実は室生犀星も好きなのだよ。この詩はどうかね。
寂しくなると街へ出た
そこには美しく優しいものが
いつも群れをつくつて歩いていた
あたかも私だけを外側にのこして
のけものにして
(「詩一つ」『愛の詩集』角川文庫169ページ)
預言者さま
私はじつは「モオツアルト」を読んではいないのですが、最近とあるところから古い小林秀雄の全集本が見つかり、借りて眺めています。旧字旧仮名遣いで眺めるのが精一杯なんです。そこに件のエッセイは所収されています。冒頭は「ゴッホの手紙」。いずれ読破してやるぞと静かな闘志を燃やしております。
次のエントリで取り上げる本とつなげるために『無常という事』を掲げましたが、本当は、角川文庫『私の人生観』所収の、「中原中也の思い出」が大変好きです。とても小林秀雄らしいといいますか、中也とのかかわりを、おそらく、これがいっぱいいっぱいなんだろうなというところまで書いていると思います。小林秀雄はとても中也と中也の詩を愛していたであろうと信じたくなった一文なのです。
_ コマンタ ― 2008/03/01 00:46:14
_ ろくこ ― 2008/03/02 19:51:46
(と、えらそう)
私ね、藤田まことが好きなんですよ
まったく関係ないですけどね
(と、格調高きブログに足あとを残してさるーー)
_ midi ― 2008/03/03 08:13:41
おはようございます。
コマンタさん
うんうん、こんどね。……ってきゃーなんかさなんかさ、○○みたいよー♪♪
でも、こんどって?
ろくこさん
誰だって藤田まことは好きなんじゃない? あれ、そんなことないかな? といっても「仕事人」しか彼の仕事を見ていないけど。
_ コマンタ ― 2008/03/03 10:17:41
○○に入るのはなにかなあと思って、
ちょっと古いもの(98年製)ですけど、
うちにある文献解読ソフト「伏せ字クン」に読み込ませましたら、
3つ候補が出てきました。
1)恋人
2)変態
3)雛祭
(品詞のパラメータは名詞)
>こんどって?
夏がくるまえび、じゃなかった来る前に、
あたりはいかがでしょうか。
_ midi ― 2008/03/03 18:02:54
という歌がありましたね、紙ふうせんの。なんか無性に好きでした、この歌。
「冬」を「夏」に言い換えて、歌いながらそのときを待ちますわ。
_ コマンタ ― 2008/03/03 20:08:04
あの坂、ほそい坂で別れて、その後恋人たちは
上っていったのか下っていったのか、
あるいはそこで上り下りのフナビトとなったのか。
真相はわかりませんが、
下ったとしたらさみしさも倍加するなとさっき思いました。
来月芥川賞作家のワークショップが
京都(shin-bi)であると聞いたので参加しようと思ったら
もう定員オーヴァーだって。
スタイルの再構築をはかりたかったけど。
話すように書いたら、
三点リーダーが頻出しそうなコマンタでした。
_ midi ― 2008/03/04 20:47:00
もしかして、Shin-biのついでにわたしに会おうとしてたわねっ
_ コマンタ ― 2008/03/05 01:00:19
すみません。ついでがなかったらウソでもついでをつくって会う、
それが男の側の作法だと中学生のころには知っていましたが、
京では別の作法がありますでしょう?
もちろんShin-biがだめだったときの理由は考えてあります。
男女ともに銅メダルを携えてわが国の選手団は凱旋しましたから、
ぼくも卓球で蝶子さんと対戦して、結果のいかんにかかわらず、
すがすがしい気持ちで夏を待ち受けたい……
_ midi ― 2008/03/06 10:25:13
Shin-biの近くに卓球場があるのを知ってのご発言ですねっ
あなどりがたし。
理想郷はいつもあなたの心に。
いつも気になるあなたへ、愛を込めて。