虫の眼差しは詩になる2008/07/10 14:04:17

『池井昌樹 詩集』
思潮社(現代詩文庫、2001年)


ふと詩が読みたくなって、図書館の詩歌の書架の前に立つ。

私は詩の世界をあまり知らない。
詩も小説と同じく、教科書や参考書に載っていた書き手に興味をもった場合に限り、単行本に手を出した。興味をもった場合というのはごく少なくて、中原中也の話は前にしたが、他には高村光太郎や室生犀星ぐらいしか、日本の詩人はない(谷川俊太郎は別格として)。なのになぜかゲーテやバイロンの文庫があって、今読んでも難解なのにこれをいったい当時の私はどう読んだのだろうと不思議でしかたがないのだ。

イラストポエムに凝っていたローティーンの頃には、やなせたかし(たしかやなせたかしのイラストポエム集はもっている。『りんごの皮を切れないようにむく』という詩が載っているやつで、その詩が好きで、以来私はりんごの皮を切れないように剥くのが上手になった)が主宰している『詩とメルヘン』という雑誌もあって、絵も詩も応募したけど軒並みダメだった(応募作品のレベルはたいへん高かったぞ、今思っても)。自分ではええ詩じゃー!と思っても、他人には何ひとつ伝わらない。詩というのは独りよがりな言葉遊びから始まるとはいえ、そこに終始している人とそうでない人とで明暗が分かれるのだろう。

他人さま全員に同じように伝わることもありえない。
程度の差こそあれ、もし「何か」が伝わったらめっけもんである。
幾つもの行のなかのひと言がその人の心の琴線に触れさえすれば、詩としては大成功なのではないか。

詩歌の書架の前に立ち、あまり考えずに知らない詩人の本を取った。

《ながれる雲を眼で追いながら
 あなたのなまえを考えていた
 空にはしろいまんげつがあり》(表紙より)

漢字とかなの使い分け方にすこし惹かれて、池井昌樹の詩集を借りることにした。同じ出版社の現代詩文庫シリーズからは、おびただしい詩人のおびただしい詩集が出されている。辻仁成の詩集も出ている(詩も書くんだ、この人)。吉本隆明の詩集も出ている(詩なんか書くんだ、この人)。

池井昌樹のこの本をめくると、冒頭からずっと、自分の子どもや妻に呼びかけるような詩がたくさん出てくる。愛する人と結婚して、可愛い赤子が生まれて、愛しくてたまらない妻も子もこの家も!というような心情がひたひたと伝わってくる。こういう、家庭の平穏を謳い上げるタイプの詩が私はすこぶる苦手である。自分を含めて身近に愛し合い信頼しあい尊重しあう夫婦の例がひとつもない、ということに起因していると思っているのだが、そんな読み手の私をせせら笑うように池井の詩は、父(自分)にまとわりつく息子の肌の柔らかさを讃え、かたわらの妻の微かな寝息をいつくしみ、家という空間を愛で続ける。ぱらぱらと目で追っていくだけで、J'en ai marre, ca suffit! もうたくさんだ、という気になってしまう。私は言葉の上っ面だけを見て食傷気味になり、たぶん池井の表現の本質を見てはいないのだろう。

《ぼくが夜詩を書こうとすると
 一匹の奇態な虫が落ちてきて
 途端に姿をくらましたのだが
 あしもとかどこかそこいらに
 ひそんでいるにきまっていて
 いまにもひんやり触られそうで
 きがきじゃなくて
 視線を落としてみれば良いのに
 眼が合いそうでそれもできない》(24ページ「不惑遊行 白紙」より)

上のような書き出しが目に留まって、前言取り消し、もう少し読もうという気になった。私は虫を書いたものは好きである。虫は意外と人を見ている、複眼だし、あっち向いててもこっち見てるよな、と思ったりするから、虫の気持ちのわかるような文や詩は好きである。
単なる家族愛賛美屋さんじゃない(当たり前じゃないか多数の詩集を出してるんだから)とわかると、なんだこれと思った詩もそれなりに魅力的に映るから、読み手というのは(私だけかもしれないが)勝手なものだなと思う。

《人をあやめる夢を見た
 七夕の翌朝は良い天気になった
 鴉をよけてゆこうとすると
 後から女房が追いかけてくる
 漆黒のポリ袋がなにかでふくらみきっている
 もってやろうというと
 結婚式の夢を見ちゃった
 うれしそうにしている》(99ページ「結婚」より)

人をあやめる夢を見た夫と結婚式の夢を見た妻が一緒に持って歩く黒いゴミ袋。彼はいつこの詩を書いたのだろう。

《僕は思い出すのだ
 あのようにわらいさだめくもののいたこと
 あのようにわらいさざめく日のあったこと
 はるか遠くで
 やがてまた
 わらいさざめきあわんことを
 錆びた把手(はんどる)をにぎっている
 ここからではもうちいさく見えるあなたの背後に
 青青と裾野をひろげた
 積乱雲のような山が光る》(106ページ「おとうさんの山」より)

《河が生んだ
 魚をおもう
 河が生んだ
 魚の死をおもう
(中略)
 喰い
 夢見
 まんしん傷め
 傷みにも酔い
 ののしりあい
(中略)
 おもいのこさず
 かともおもえず
 飾りたてられ
 囃したてられ
 ようやく終わる
 われらの生を訝しむのだ
(中略)
 われらを孵した
 遙かな水源の沈黙をおもう》(107ページ「母よ」より)

詩は、いいものである。
夜帰宅すると、隣近所や商店街で見聞きしたことを、母がひっきりなしにしゃべる。
遙かな水源は沈黙しててほしい、と心底おもう瞬間である(笑)。

コメント

_ コマンタ ― 2008/07/11 02:37:23

>遙かな水源は沈黙しててほしい、と心底おもう瞬間である(笑)。
へえ、詩なんか読むんだ、蝶子さん、と思いました。
詩のわかる、いやまちがい、詩を愛するひとであったらいいなあ、
と思ったことです。上の引用は、
水源は沈黙している……、と思った、
ということをいいたいためです(笑)。

_ おさか ― 2008/07/11 18:04:56

詩は難しいですね
私、大学時代、結局詩はやりませんでした
全然わからなかったんです
うーん、ちょっとでもいいからかじっておけばよかった、と後悔しきりな今日この頃です

>身近に愛し合い信頼しあい尊重しあう夫婦の例がひとつもない
あははは、耳が痛い(汗
家族の平穏は、日々の戦いにより得られるものですから
私もこの手の詩には共感はしませんね
男が書いたよなあと思ってしまふ(笑
でも虫への視線はいいですね
男の子の視線だわ

_ 儚い預言者 ― 2008/07/11 18:33:30

 でも思うのですが、あなたが生きていることこそ詩なのではないですか。

 人間、どこかに類型という枠に嵌めないと不安なところがあり、本当は世界への夢に、整理ということの便宜だけであると思うのです。
 この現代の累乗に増えるカテゴリー化は、名づけという、本来の貴い神聖への祈りを逆転するような猥雑化になっております。

 直感と理性の分断と感性と感覚の先鋭化は、バランスの平衡を失い、統合の一番である命にも大半が侵食されつつあると思うのは私だけでしょうか。

 先ずは自然から。天と地の位置づけをどのようにするかによって、逆さまな生き方をせざるを得なくなっている現代に、光を齎すのかもしれません。

 自然とは、自然界に人の生物的、本能的な赴きを訊ねなければいけません。ちょうどあなたが信じるほどに、世界はその通りなのですから。

 何も反旗を振るわけでもなく、ただ自分の行方に任せる。この自然的行為の行末は、自分に対する信頼へのリトマス試験紙であるかもやしれない。

 そう、だから私はあなたを口説く。それは私のあなた自身の信頼への応援歌なのだから。

_ midi ― 2008/07/12 08:58:03

コマンタさん
自己表現の方法のひとつとして詩を検討したことは、結局はなかったといえます。偶然、自分の気持ちとそっくりな心情を見事に表現した詩に出会ったとき、その詩人に興味をもって読むか、その詩を真似て自分でも書いてみるか、という行動に出たような。ただし、反対の場合もあって、自分の気持ちとそっくりな心情を見事に表現した詩に出会ったとき、反発して二度とそいつの詩は読まないということもあります。怖いからですね、きっと。何でこんなに似てるんだってね。

おさかさん
>家族の平穏は、日々の戦いにより得られるものですから
あはは、実感こもってる(笑)。
だよね、みんなさ、戦いを放棄してんだもん、あたしの周囲は。

預言者さま
だからさ、あれこれゆーちょらんで、はよ口説きにきなはれ。

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