「さまざまな過剰に対する違和感」2008/10/02 20:13:58

『働く過剰 大人のための若者読本』
玄田有史 著
NTT出版(2005年)

どっかのアホが放火殺人事件を起こしたが、私は思った。「また同世代だ……」
幼女連続殺人事件の宮崎、池田小学校殺傷事件の宅間、それにアイツもコイツも、同い年か前後二年ほどしか変わらない同世代である。
たくもう、極悪犯罪人の中に同級生の名前を見つけずに済んでいるのは奇跡じゃないか、とこのごろは思うようになってきた。

一方で、素晴しき同世代人がいるのも事実である。私自身は歳ばかりが立派な中高年で、実績も社会貢献度も収入も若輩だが、周りを見渡せば、面白い仕事やユニークな研究に取り組み素敵な成果を上げている方がたくさんいる。
玄田さんもそのおひとりである。玄田さんが取り組む「希望学」という分野が学問として今後成立していくかどうかはともかく、人間だけがもちうる感情「希望」に着眼しその有無や在りかたによってその後の人生が変わりうるかも、という仮説には思わず納得させられる。彼の講演を聞いたとき、「希望を修正する」という彼の言い方に多少違和感を感じたのは事実だが、その後いくつかの彼の著作やインタビュー記事を読んだりしていくと、「希望」という、いくとおりもの意味(ゆめ、のぞみ、ねがい)や、いくつもの混同されやすい類義語(志望、願望、切望)をもつ言葉の定義について彼自身が難儀しているさまが見て取れる。
つまるところ、希望って、どんなシチュエーションでも使われる便利ワードだ。
「晩御飯、なにがいい?」
「あたしの希望は、麻婆豆腐」
「将来、何になりたい?」
「希望は、オリンピックに出られる選手……でも無理ってわかってるから、ま、なんでもいい」

希望っていったいなんだ。という話は、だから今はやめておく。きりがない。

本書の読後感は、以前取り上げた岩村さんの食卓の本に似ている。
ある切り口から人々の生活の実態を見つめ、そこに潜む問題をあぶりだすため、きめ細かな調査によって裏づけを取り、考察を重ね、現代社会のさまをある側面から語ってゆく。読み手は、ほうそうなのか、はあなんつうことだと暗澹たる気持ちになったり、自分や家族、職場環境のことをずけずけ指摘されたような気にもなり、ときに落ち込みときに苦笑する。
そして、これも共通する読後感だ。
「著者さん、アナタはけっきょく、わたしにどうしろっていうの?」
そう、この類の本は問題意識をやたらと高ぶらせてくれるのだが、解決へ向かうための明快なみちすじが、あるようで、ない。
岩村さんの本も、もっと家庭の食卓を司る者が、自分を含む家族の一日の生活リズムを踏まえ、栄養摂取の知識を駆使して献立を考え、外食・中食の頻度を抑制するなど、食生活そのものに真剣に取り組め、といっている。それはわかるにしても、では具体的に、ウチの家庭では何を改善すればいいのか、という問いに答えてはくれない。
玄田さんによる本書は、働く人、働かない人、働けない人についてさまざまな考察を見せてくれる。実に面白い。でも現実は、問題山積の現実はだからといって解決には向かわないのである。

《いったいだれが、グローバル化社会のなかでの人材戦略とは、即戦力人材の活用であると言い出したのだろうか?(……)あまりにもナイーブな結論にすぎる。(……)業績の悪化した企業にかぎって、最初に削減するのが教育であり、人材としては即戦力を謳うようになる。(……)即戦力人材は、一般にどの会社でも通用するスキルを持つものだ。しかし、それは言い換えれば、どの会社でも汎用性のあるスキルでしかないということである。》(8~9ページ/第一章 即戦力という幻想)

ウチの会社でも経営陣は「即戦力しか必要としていない」「じっくり育てている暇はない」という。ウチの会社は実際凄腕ばかりである。でも給与水準はここに書くのも恥ずかしいほど、低い。私の手取りは、20年前、最初に勤めた会社を5年で辞めたときの基本給程度である。

経営陣は、いわゆる団塊世代である。彼らのために言うが話のわかる人たちであり、団塊と呼ばれる自分たち世代にいわれる問題点もそこそこ自覚しており、また後続世代に理解もある。しかし自分たちがかなり特殊で特異で突出して特徴のある世代だとは思っていない。

《(……)数値からは、長期雇用に関する重要な事実が浮かび上がってくる。ひとつの会社に勤め続ける傾向が最も強い世代とは、1940年代半ばから50年代前半に生まれた世代なのである。そして、そのほぼ真ん中に位置するのが、1947年から1979年に生まれて、人口規模が700万人弱にものぼる、いわゆる「団塊の世代」である。(……)抜きん出てひとつの会社に勤め続ける傾向が強かったのだ。(……)日本の労働者史上、長期雇用とそのもとでの年功賃金の恩恵を一番に受けた世代であり、そして最後の世代になるだろう。(……)長期雇用そのものが、戦後の日本の高度成長とその後の低成長によって一時的に生み出された現象と考えるほうが妥当なのだ。》(54~56ページ/第二章 データでみる働く若者の実情)

私は、「石の上にも三年」という言い回しが好きである。なにごとも、そのくらい取り組んでみなければ成果どころか自分なりに納得することもできやしない。しかし、三年同じ環境に居続けることは、現代の社会では至難の業である。ずっと居ればだんだん給料が上がっていく、それはもう御伽噺である。ずっと居れば給料は上がらなくとも人間関係に慣れて少しはストレスも減少する、得意先から認められて褒め言葉ももらえる、というのも幻想である。同僚も辞めていく、取引先の担当者もころころ変わる。自分の仕事を継続して見てその進歩のさまを確かめてくれる人などいないのだ。私の勤務先も、経営陣自身が担当業務を抱えフル回転しているので、雇っているスタッフがどんなに頑張っているかサボっているか、じっさいわかってない。ただ、成果物だけが評価の対象である。
だから私たちは「いいもの」を創るために懸命になる。必死になる。あくなき追求をする。その結果、長時間労働に従事することになるが、もちろん、残業手当という語はもはや死語である。

《「深夜0時に退社して翌朝9時半に出社すると、メールがもう40通くらい来てることもあった(……)」》(68ページ/第三章 長時間労働と本当の弊害)
《不要な業務を整理できていない上司は「とりあえず両方やっておいて」と指示にならない指示を出し、負担だけが部下に降りかかる。部下は「どうせ読まれない」資料を深夜まで作り続けることになる。》(70ページ/同上)

上の、「上司」を「クライアント」に、「部下」を「下請」に換えればそのままそっくり私の居る世界の話になる。想像もできず、判断もできず、必要と不要の区別のつかないクライアントの担当者は平気で言う。「とりあえず2案提出してください」。2案出すと「A案のアレンジ版としてA’、B案のカラー違い案としてB’、つくってください」としゃあしゃあと言い、(けっきょくこれで4案である)翌日には「もっと違うのも見てみたいので、全然テイストの異なるものを2案(以下同文、繰り返し)」とのたまう。無料配布のぺらぺら冊子の表紙デザイン制作の話である。
私たちは修正指示に従うし、顧客の希望にできるだけ沿いたいと考えている。だから顧客の側も、私たちからベスト成果物を引き出すためにはどうしたらよいのかを考えてほしいし、考える能力のある人を担当者に据えてほしいのである。能力がないなら育ててから前面に出してほしいのである。

《過度な長時間労働は、誰も幸福にしていない。》(94ページ/同上)

いま、少なくとも、私の担当業務の周囲では、アホなクライアントも含めて誰も幸せではない。それでもクライアントは5時きっかりにどんな案件を抱えていようと退社するので私よりは少しだけ幸せなはずである。

自分たちのことばかりぐだぐだ書いているようで、申し訳ない。
本書の第四章、「仕事に希望は必要か」の内容は、玄田さんの中学生向けの著作『14歳からの仕事道』を読むほうがわかりやすい。表現を変えてほぼ同じことが書いてある。(『14歳からの仕事道』はたいへん面白い。しかし、中学生にとっても面白いかどうかは微妙なところだと思った。中高生の親が読むのにちょうどいい。)

本書は「ニート」について多くを割いている。ニート論であるといってよく、ニートについて先入観をもっている人の目から鱗が落ちること間違いなしである。私なら本書のタイトルを『ニートの正体』とするところだ。それほど、「ニートとはいったい何者か」という問いにしっかり答えてくれている(私にどうしろって言うのよ、という問いには答えてないけど)。
ただ、玄田さんにはすでに『ニート』という著作がすでにあり、本書はニート以外にも言及しているので、ニートという言葉をタイトルには持ってこなかったのだろう。

《メディアがニートを就業意欲に欠けた、働かない若者たちと表現した瞬間、読者や視聴者の多くは、それを怠惰な若者、甘えた若者、親のスネかじりを厭わない若者と、ほとんど自動的に認識することとなる。(……)ニートは(……)できれば働きたいと思っている。むしろ働くことの意味を考えすぎるあまり、立ち止まっている(……)ニートが増えたのには、個性発揮や専門性重視を過度に求めすぎた時代背景がある。(……)ナンバーワンになるのも難しいが、オンリーワンになるのだって簡単ではないのだ。(……)現実の中で、やりたいことがないので働けないと考え、自己実現の幻想の前に立ち止まってしまった(……)「今やりたいことなんてなくても大丈夫」とはっきり伝えたい。「やりたいことは、働くなかでほとんど偶然のように、みつかるものだ。(……)この仕事でもやってよかったなあと思うときはちゃんとあるんだ。たとえば……」と、大人がそれぞれの経験の中で実感してきた働く真実を伝えていくべきなのだ。》(124~132ページ/第五章 ニート、フリーターは何が問題か)

というふうに、著者は、まず親が子に、そして教師や周囲の大人が生徒や若者に、自分の携わる仕事について誇りをもって語ることが大切だとしめくくろうとする。が、そのことが口でいうほど簡単でないことについても言う。社会階層、経済格差、教育格差を論じた章を経て、第十章の「親と子どものあいだには」では、親子関係の適度な距離について語る。つまり過保護、過干渉はもってのほかだが、過度に期待するのもNG、過度の放任もNG。子どもと大人が適度な距離感を保つことは奇跡かもしれないという。親と子は相性がよいはずだというプレッシャーから解放されたほうがいい親子、もっと寄り添って心を量りあうほうがよい親子、いろいろある……。

本書のタイトルは、著者の感じた「さまざまな過剰に対する違和感」を表現したものだそうだ。
何にせよ、過ぎたるは及ばざるが如し。それはたしかだ。
慎むべきは自身の過剰な労働、子への過剰な期待。排除すべきはアホなクライアントの過剰な要求、過剰な自信(しかも根拠ゼロの)。
こういうふうに、過剰に長い文章をブログにアップするのも控えなくちゃね。