むちゃくちゃしんどい、ので2008/10/08 19:43:35

『希望学』
玄田有史 編著
中央公論新社(中公新書ラクレ/2006年)


しんどいときは、希望について語ろう。
てことで、鹿王院知子さんもはまっている(笑)我らが希望学の玄田さん再登場。

このあと、支離滅裂な私の駄文を読まずにここへ行ってくだされば、希望学の何たるか、は把握していただける。↓
http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/index.html

本書『希望学』を読むのは面倒、という人は:
関連記事を時系列に並べたここ ↓
http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/article/index.html

本書『希望学』を読んだ人の感想文を集めたここ ↓
http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/result/kibogaku_kanso.html

へ、行かれたし。

先日、またしても貴重な貴重な(×10の10乗)休日をある取材でふいにされたのだが、その現場で、玄田さんのフィールドワーク先である某社の方が講演をされた。

その日は何人もの講演を聴講したが、専門用語を連ねるだけとかお経読んでるようにしか聴こえないとかパワポで掲示してる内容を読み上げるだけとかとにかくしゃきっとしない大学人たちに比べ、企業人たちのお話は声も大きく、ヴィジュアルの使い方にも長け、本論に「我が社ならではのマル秘エピソード」をさしはさむなどのテクニックなどにも勝れて非常にわかりやすかった。ええ、ほんとに。
よほどの例外を除いて、大学教員さんたちの話はわかりにくい。大学という世界しか知らない人にありがちな、「皆さんもうすでにご存じですけども」のマクラコトバが念頭にあるので「すでにご存じ」の「皆さん」さえわかればいいという喋り方になる。アホウめ。みんな知らないからここに来てんだよ。聴いてほしいのかよ、ほしくないのかよっ。ちったあ社会勉強してからその偉そうな肩書つけろっての。

玄田さんもそうだが、企業とうまくコラボしながら研究している方々は、企業人からよい影響を受けるのかそもそもそういう素地をお持ちなのか、総じて話し上手である。講演は楽しく聴けてためになり印象に残る。対談などではそのまま活字化して差し支えないような明快な語彙と発言で記録者を喜ばせる。

その日は、例の某社をはじめとする錚々たる大企業の方々が、早い話が「出身大学名や学部名に信頼が置けなくなっている」(いったい何を勉強してきたのか、どうして卒業証書や修士号を得られたのかわからないようなレベルの低さ)、「どうせ一から鍛えるのならば高卒を採用したほうがいいと思えるほど」(漢字やレポートの書き方、分数の計算方法を、どうせ教えなければならないのなら高卒のほうが教え甲斐がある=飲み込みが早い)というような事態であるから、大学さん、もっと学生を鍛えてくださいよ……という内容の講演というよりは悲痛な訴え(笑)をなさったのであった。

高校では、故意にしろ偶然にしろ履修科目が著しく減っているので、まともな高等教育を受けたとはいえないまま高校生は卒業する。そして「推薦」「一芸」「AO」などという名の「入試」を経て、少子化でとにかく学費払ってくれれば誰でもいい、と門戸を広げた大学の大学生になる(これ、有名一流私大の現状である)。イマドキの大学生はサボって合コンやバイトに耽ったりしない。真面目に授業に出て単位を稼ぐ。取ったほうが就職に有利といわれる資格はすべて取る。遊ばないけど、「学問する喜びに耽る」「疑問難問を追求し続けて夜を明かす」なんてこともしないのである。次のステップ(就職)への最短距離を進もうとする。

最短距離を行こうとするけど、そのむこうに、小さな頃から抱いてきた夢とか、はっきりした目標だとか、何年後かの自分の姿のイメージなどというものがあって進んでいるのではない。淡々と、非常に省エネな「最小限の努力」をはらいつつ、あわよくば「やりがい」にぶつかればいいな、そんな感じで日々、歩んでいる。
で、就職試験には落ちまくってしまう。「面接シミュレーションにも抜かりはなかったのに、どうして……」
合格して晴れて入社できる子もいる。でも、入ってからついていけなくなって辞めてしまう。「この会社ではやりたいことが見つかりそうにない(と思うことにしよう)」

かくして、どこにも就職できない学卒、院卒が巷にあふれ、ニートになり引きこもりになりそして……というのが今の世の中であるらしい。

私は取材で子どもたち、若い人たちにも会う。
児童、生徒、現役の学生たちも、公務員、会社員、職人もいる。若くして起業した人、雇われ店長、大店のボンボンも。「いい子」や「素晴しい若者」には会うけれど、「どうしようもない悪童」「始末におえない不良」には会えない。そりゃ、取材対象に選ぶんだからそんなひどいのに当たるわけないんだが、いいたいのは、規格からはみ出るような「奔放さ」を感じる人物に会えないということだ。
お行儀がなっていなかったり、敬語の使い方が変てこだったりするけど、外面を取り繕う要領は心得ているといった感じの子ら。そういうのが多い。
服を裏表に着ちゃったりしているが話せば考え方がしっかりしていて、芯の強さがひしひし伝わってくる子ら。口調も目の輝きも希望に満ちているかのようにいきいきしている。なんてのは、いない。

もう4、5年前になるが、有名進学校の中3生に将来の夢を訊ねた時に、「べつにない。人に迷惑かけないで普通に生活できれば」「○○(←職業名)かな。そこそこ安定してるし」「△△(←超有名企業名)とか、リストラとか倒産のなさそうなところの会社員」というような答えが過半数を占めたのだが、私にとってはたいへん衝撃的な事実であった。
希望ってないの? そんなふうに思わず聞き返したら、「だから、それが希望ですけど」とか(苦笑。あ、そーか)「あえていえば□□(←カタカナ職業名や多国籍企業名)かなあ」とか。同行したカメラマンは「もう中3でしょ。そりゃあ野球選手とか歌手とかはいわんでしょ」。そりゃそうだけど、もう少し、なんというか、夢物語みたいなことを話してくれてもいいじゃないかと思ったのだ。実現可能性の有無や大小は抜きにして。

希望って、漠然とした、目に見えるけどつかめない霧のような、すくえるけどこぼれる水のような、実体のないものだ。三木清は『人生論ノート』の「希望について」の章でこういっている。
人生は運命であるように、人生は希望である。

本書に論文を寄せているある著者は「希望を持とう」という。希望を持つことから始めよう、将来の青写真を描こう。もちろん、そういう具体的な「目標」「目的」も希望の範疇に入るのだろう。

けれど、希望って、なんとなく「ある」ものだ。「○○してみたいなあ」の「○○」にあてはまるもの、それは何であれ、希望である。生活には、人生には、いくつもいくつもの「○○」がつねに在る。ラーメン食べたい、テストでいい点取りたい、彼と話したい、シャネルが着たい、医者になりたい。ああもしてみたい、こうもしてみたい。
欲望や願望は希望のひとつの在りかたである。
何でもいいからいつも何か望みをもつ。望みを叶えたいと強く思う。今日は、どうしても、カレーが食べたいんだよ! だが望みは叶うとは限らない。断念しなくてはならない時もある。わかった、今夜は諦めるよ……。そういった感情の起伏、気持ちの抑揚をつねづねもつことが、事はカレーじゃなくもっと大きな岐路に立った時にはっきり行くべき道を選べるような判断力も養うと、思う。人生が、希望に満ちたものになると、思う。

玄田さんが確信をもって各地で発言していることに「子どもの頃に希望をもっていた人のほうが大人になってやり甲斐のある仕事に就いている率が高い」というのがあるが、それは、けっきょくそういうことなんだろうと思う。彼が言っているのは具体的な職業希望のことだけど、ささやかなことであれ、何も望まない生活よりも、望んで望んで、手に入らないもどかしさや挫折や失望も経験しつつ、望み抜いてゲットした感激も時に味わいながら暮らしていくほうが、きっと人は成長する。そういうことなんだ。

私は人の親だから、子どもについても希望はある。そうした希望を、口に出して、よく言う。「子どもは親の希望どおりには、ならないんだよ」なんて、近頃はヤツも偉そうに反発する。それでも「あんたが好きなように」「悪いことさえしなければ」とか思っていてもいわないようにしている。★★(←我が家のある町内会の名前や近所の商店街の名前)の星になれ!とかいって笑われる(笑)が、過剰な期待ではなくてささやかな希望を子どもにもっているってことを、つねづね伝えたほうがいいと思う。

あー、ちょっとばかし気持ちが前向きになったよ(笑)。