家事も子育ても、ついでにゆーと仕事も日常的過ぎる。やっぱり村上春樹は偉大なんかいなと考え込んだの巻2009/07/30 16:58:10

『みんな一緒にバギーに乗って』
川端 裕人 著
光文社(2005年)

『てのひらの中の宇宙』
川端 裕人 著
角川書店(2006年)

『桜川ピクニック』
川端 裕人 著
文藝春秋(2007年)


まとめちゃってごめんなさい、川端さん(笑)

さなぎの友達で頑張る中学生の鏡・さくらちゃんにプレゼントした『14歳の本棚 部活学園編』の中にあった『決戦は金曜日』を書いた川西蘭が気に入って、図書館書架の「か」を探したが川西蘭は見事に一冊もなくて、代わりに、こういう言い方しちゃあ、なんだけど、やたらとあったのが「川端裕人」。

本の作者プロフィールを読むと、お、1964年生まれとある。川西蘭を探すのは次の機会にすることにして、表紙が可愛かった『みんな一緒にバギーに乗って』をまず借りる。

若手男性保育士の話である。悩みながら奮闘する。男性保育士に対する母親たちの目は冷たい。それでも頑張る保育士・竜太。なぜ君は保育士になったんだ。あるとき担当クラスの女児の父親に問い詰められる。「子どもが好きだから、ではだめですか」

竜太はなかなか好感度の高い登場人物である。読んでいてエールを送りたくなる。
竜太と一緒に同年度に着任した同期の新人保育士がほかにもいる。体育会系の竜太に比べ、クールでそつなく仕事をこなす(ように見える)頭脳派の秋月。短大卒の、たいして考えもせず資格をとって保育士になった(ように見える)ルミ。
ほかには先輩保育士(女性)の大沢せんせい、男性保育士の大先輩、元気せんせい。
竜太がいちおう主人公だけど、章によって秋月やルミ、そして大沢せんせいの視点で物語が語られる。こうすることで、保育園というものの現状を広く深く読者に知らしめようとしている。とくにこの舞台は公立保育園なので、規制緩和や一部民営化、延長保育自由化などの波にさらされる姿にリアリティを感じる。私がさなぎを預けていた保育園は民間保育園だったが、自治体の助成を受けていて、保護者の所得によって保育料が変わるという点では公立と同じだし、設立から半世紀近く経っているのでそんなに事情は変わらない。
さなぎが就学するころになってからだけど、男性保育士も登場したし。

若い新米保育士の目、ベテラン保育士の目それぞれの保育園と保育、子どもと保護者の姿がまんべんなく描かれる。私は保育士ではなく保護者としてしか保育園と関わっていないけれど、たいへんリアルによく書けてると思った。それだけに、小説っぽいわくわくどきどき感に欠けるという印象を否めない。ノンフィクションとして出したほうがよかったんじゃないの? と思った。

もう少し川端さんという作家を知りたくなり、『てのひらの中の宇宙』を借りる。2、3日ずれて『桜川ピクニック』も借りた。
『みんな一緒にバギーに乗って』には、さまざまな保護者(と子ども)が登場する。『てのひらの中の宇宙』も、『桜川ピクニック』も、その保護者(と子ども)たちが今度はメインになって再登場しているのではないか、と思わせるくらい、なんというか、作品の距離が近い。『てのひらの中の宇宙』は二人の子どもを育てる「ぼく」が主人公。五章立てで、四章めだけが「ぼく」の妻の「今日子」の一人称で語られる。「今日子」は病気で入退院と手術を繰り返している。「ぼく」の母である「たーちゃん」が保育園の送迎や食事の支度を時々手伝っている。『桜川ピクニック』は、短編集のかたちをとっている。いずれも幼い子どもをもつ父親の日常を切り取った物語。短編集のかたちをとりつつ、それぞれは互いにリンクしている。これらの父親たちにはとある保育園に子どもを預けているという共通項がある。保育園に子どもを預けているということは母親、つまりこの男たちの妻たちもみなバリバリ働いている女性であり、それぞれの物語では、家庭内における妻との家事役割分担の話、保育園の園長や保育士との関わりの話、大人から見た子どもの面白さ、尊さの話、自分の職場、仕事の話、そして保護者どうし、すなわちパパ仲間との交流の話、が展開する。

『桜川ピクニック』に登場するいくつかの家庭のうちのひとつをクローズアップしたのが『てのひらの中の宇宙』、ではないのだけれども、そのように読めてしまう。『桜川ピクニック』に登場する保護者らの交流点である保育園を舞台にしたのが『みんな一緒にバギーに乗って』、ではないのだけれども、そのように読めてしまう。小さな子どもを抱える家庭。ふたりとも働く夫婦。そうしたカテゴリーに入る世帯というのはだいたい状況が似通ってくるということなのだろうか。個別事情はもちろん異なるし、川端さんがそれらを細かく描写して「まったく同じ状況の家庭なんてありえない」ことを描き出していることも事実ではある。だが個別のケースに配慮する(?)あまり、なのかどうかわからないが、フィクション性が失われているように思えてならない。子育て経験者には「うんうん、こういうことあるある」とうなずく場面ばかりが出てくる。つまり、ノンフィクションを読んでいるような錯覚にとらわれるのだが、ノンフィクションとして読むにはセンセーショナルでなさすぎるし、小説として読むにはありきたりな日常に終始しすぎる。

しかし、(ここが重要だと思うけれど)結婚未経験者、子育て未経験者にはかなり面白いのではなかろうか。若干「描きすぎ」のきらいもあるけど、川端さんの人物描写、情景描写は確かだ。とくに「夫予備軍」「父親予備軍」の皆さんには予習を兼ねた楽しい読書になるんじゃないか(と、これはかなり無責任な発言なんだが)。

川端さんはもともとノンフィクションから出発した人のようである。そしてどちらかというとネイチャー系、サイエンス系の記述が得意なかたのようである。そういう人が父親になり、作家という職業柄在宅していることが多いため、奥さんよりも子育てに、保育園やPTAとのかかわりに自分の時間を費やすことになリ、子育てパパ系の小説を連発した、ということなのだろう。

この三冊の中では最も小説っぽいといっていい『てのひらの中の宇宙』には、川端さんの得意分野が盛り込まれている。もしかしたらどの家庭の父と息子もこんな会話をしているのかもしれないけど、「ぼく」とその長男「ミライ」の会話は生物学や天文学といった分野におよぶ(亀とか火星とか素粒子とか)。川端さん自身が(たぶん)小さな息子さんに自然科学の面白さを伝えようとしている姿も髣髴させる。
そして「ミライ」が時々つぶやく不思議なことばの謎が物語を最後まで引っ張るのだが、残念なことに引っ張る力が弱い……。またいっぽう、「今日子」の容態がひとつの大きな柱だが、実はそれも、弱い。
素材は十分揃っているのになぜ弱いのか。
たぶん、揃いすぎているのだ。
病魔と闘う妻、母の不在にもけなげな子どもたち、自分がかつて遊んだ里山、幼い頃見上げたプラネタリウム。加えて、随所に出てくるとても現実的な日常の描写……。
読んでいるうちに、誰に寄り添えばいいのかわからなくなる。どちらを向いて、読者としての感情をコントロールしていいのかわからなくなる。これがノンフィクションであったら、読み手はおのずと事実関係を確認しようとしながら読み進むので、こうした不安に苛まれることはおそらく、ない。

いろいろな登場人物があって、誰に感情移入しても面白い。小説ってそういうものだと思うし、そういう読みかたをしてきたけれど、川端さんのこの三冊は、それとはちょっと違う。よく書け過ぎていて面白くない、なんて感想をもつことはあまり経験がない。
同い年の人間として、その眼差しに共感する。その観察力と描写力に敬意を表する。が、もっと面白いものが書ける人のはず、とも思う。全作品を読んでいないのにそんなこと言う資格はないけど。最近始められたというニュージーランド暮らしを経て、作家としてひと皮もふた皮も向けてほしいと思う。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2009/08/05 11:06:26

 どんなに正しくともそれは意見であり、真実ではありえない。
 経験とは、想いの現前であり、結果の味わいは、原因へのフィードバックの誘いである。
 愛はいつも違いと同じに隠される。振動する力の叡智に。

 二つの原理、自と客はその舞を永遠に巡る物語である。その名は愛。

_ midi ― 2009/08/05 17:20:48

預言者さま
コメントありがとうございます。
川端さんはPTAにも熱心で、ニュージーランドでもPTA活動に参加してるみたいです。現場の声というか、実際に、子どもの父親として、学校、地域、他の保護者たちと対峙してきた経験によって書かれたものであることのすごさは、あると思うんですが、リアルすぎてときめかないのでした。

トラックバック