「誰ひとり、けっして誰ひとりとして、母さんのことを泣く権利はない。」本当は誰もがこう思うのではないか……の巻2009/07/31 18:01:58

『異邦人』
アルベール・カミュ著 窪田啓作訳
新潮文庫(初版1954年)


今、手許にないので私の家にある新潮文庫『異邦人』の版は何年のものかわからないけど70年代のものだと思う。初めて読んだときどれほど衝撃を受けたかとか、面白く感じたかとか、何も記憶に残っていない。シェイクスピアやドストエフスキー、ブロンテ姉妹やディケンズ、カフカやパール・バック、ユーゴやスタンダールらとともに、よくわからないけど越えねばならない山の一つとして、カミュの『異邦人』は私の前にあっただけである。読んでみると、どうってことはなかったのである。これが、どうってことはないことはない、と気づくのはもう少し(というよりかなり)後である。さらに仏語学習教材としてテキストをいじくりまわした頃には、どうってことはないことはないどころか、私はアルベール・カミュと一体化していた(誰とでも一体化するヤツである)。

不条理という語句が本書を語るときによく使われる。それはそれとして、私は、肉親を亡くしたときに自身に起こるレスポンスを正直に表現して見せた男の話だと今はわかるのである。彼がたまたま海岸で、太陽光で一瞬視界を遮られたため、やばいっと思って放った弾が当たってしまったが、この件についても男は正直に話したわけである。正直であることは時に罪である。嘘をつき、芝居をすることが周囲との潤滑油になる。共同体の中ではじかれずに生きていこうと思えばつまらぬことに知恵を使う必要もあるのだ。それ自体を不条理と呼んでもいいし、それを拒否してロンリーウルフでいることを不条理と呼んでもいいのだろう。主人公は母を重んじ、愛していた。処刑を前に母への深い愛情に覚醒するシーンが最後にある。
「誰ひとり、けっして誰ひとりとして、母さんのことを泣く権利はない。」

(もしよかったら拙稿部分試訳をお目通しください)
http://midi.asablo.jp/blog/2008/12/25/4026928


おととい、友人からすごく久し振りにメールが来た。彼の母親の訃報だった。
なぜ亡くなったのか、詳細はわからない。
詳細は書かず、亡くなった日と葬儀の日取りが母親の写真とともに記されていて、彼女のために祈ってください、と1行、末尾に書かれていた。

友人は30代のフランス人画家で、二年ほど前までの三年間、日本に住んでいた。それ以前にも何度か短期滞在を繰り返していた日本大好き青年であった。滞在中はしょっちゅう私の町へ遊びに来た。フランスから友達が来ると必ずこの町へ来てこの町を案内した(私も巻き込まれた)。いちど、彼の弟夫婦と母親が日本旅行を企て、もちろん彼自身も同行して、こぞって私の家に来た。弟の奥さんがインド洋の島の生まれで、エキゾチックな夕食を手づくりしてくれた。私の母と娘と、友人とその母と弟夫婦と、途中から割り込んだ友達約1名が加わって、許容量を超えた空間は凄まじいありさまを見せていたが、それほどに賑やかで楽しい夜を、しばらく味わったことがなかったので、とてもよい思い出として私たちは大事にしていた。友人の母は猫が好きで、家には猫を勝手に住み着かせていた。代々の猫のその営みを幸せそうに語ってくれた。我が家の猫を腕に抱き、器量よしさんだこと、といっていとおしそうに撫でてくれた。

私の母よりも歳は若かったが、さすがに海外旅行は疲れるとみえて(このときの旅行は十日間で三都市回る強行軍だった)、ウチに泊まった翌朝もなかなか腰が上がらなかった。見どころがいっぱいあるまちだから、この次はもっとゆっくり来てくださいね、というと、本当ね、○○も見てないわ、△△も訪ねてないわ、必ずまた来るわよ、と嬉しそうにいっていた。

友人は、泣いたに違いない。大きな体を震わせて母親にすがりついて。彼の弟も。奥さんも。けれど、泣かなかったかもしれない。あまりの出来事に呆然として。友人は喪主だ。取り仕切らなければならないことが山ほどあったろう。私たちへ訃報を送るのもそのひとつだ。冷静に、母が天に召されるのを見送らねばならない。

その葬儀の日が今日である。時刻も、ちょうど今頃だ。
彼女のために祈る。
さよなら、ドゥニーズ。安らかに。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2009/08/05 10:58:01

 血なる繋がりの普遍の愛は、時空を一つの物語にする。愛の祈りである。悲しみと虚しさは、愛を思い出す夢の続きである。

_ midi ― 2009/08/05 17:11:06

預言者さま
コメントありがとうございます。
息子たち二人を頼もしげに見るドゥニーズの視線には愛があふれていました。年の離れた夫を早くに亡くした人なので、苦労も並大抵ではなかったと思います。もっといっぱい話をしたかったのに。

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