「5」あるいは「50」2010/02/23 08:25:13

敬愛するraidaisukiさまのブログでダリ本をご紹介いただきました。
ひええええーーーありがとうございますだーーーー(照れている)
よかったなあ、よかったなあお前(と本に呼びかける私)

『ダリ 私の50の秘伝』でダリは「5」という数を非常に重要視しています。まずは手の指が5本であることから始まり、美しいものはすべて五角形を基本にしている、と。
raidaisukiさんはスタンダールがご専門、記事中ではスタンダールもその著作『イタリア絵画史』で「5」ならぬ「50」に言及していることをご紹介くださっています。
ダリがルネサンスの巨匠たちを範としたことと、彼が「5」にこだわったこととが無関係ではないということがわかる一例だと思います。
raidaisukiさま、ありがとうございました♪


コメント

_ 儚い預言者 ― 2010/02/24 23:02:06

超越には非常に面白い性質がある。それは無限である。この世ならざる世界、無限は逆説的に「この世」の基礎であり、そして不二の、一体の世界である。論理や感性さえも乗り越えなければいけない時、それは勿論無限からの降下を願わなければいけない。しかしそれが皮肉なのは、この見える世界の不可知性なのである。ペンがペンであることの不思議は、表層の形とその内容の意味との合意であることだ。要するになにがしら規定しているだけである。その合意こそが肝なのである。合意とは何だ。双方が対等であることの或る一つの約束事である。となるとどうなる。ペンと私、あなたは、同じ対等の存在であるとしたら、ペンも生きているのである。そこに幾つもの関係性の複雑さ、無限が忍び寄って来る。そうどう見ても分断はできないのだ。そこに数という象徴の極限が仕切りの役割を果たすのだ。0、1、2、3、4、5、・・・・の4まではある程度の範疇乃至は意味の由来と意志を計れるが、5になると何でも複雑すぎるのである。そこに惹かれるのは無限とは何かに近い憧れとなる。それはまるで「6」という最小完全数に最も近い最大整数であるという、もう少しで捉えられるという希望と完全には在り得ないという現実の、謂わば最大公約数ではないだろうかと。

_ midi ― 2010/02/25 17:34:07

預言者さま
律儀にコメントありがとうございます。
そうね、「5」は複雑かもしれません。
なんといっても星型ですから。

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