世界は9月11日を忘れてはいけない2010/02/14 14:48:27

忘れてはいけないことって、たくさんある。ハイチを忘れるなとウルサイ私だが、べつにそれはハイチに限ったことではない。スマトラ沖もニューオーリンズも四川も、そして毎年必ず起こる豪雨と土砂崩れによる被害も、忘れてはいけない。災害の規模や死傷者数にかかわらず、失われたものひとつひとつに、軽重や尊卑は問われないからだ。大切なものの大切さは、固有のものだ。何十万人の被害でも10人の被害でも、そのことに変わりはない。


自然災害だけでなく人災も然りだ。鉄道、車、飛行機。人間が生み出した便利モノがいったいどれほどのトンデモ事故を引き起こしてきたことだろう。一瞬の偶然の重なりが便利な機械を凶器に変えてしまう。偶然でなく故意に凶器として使う例すらある。その最たるものが2001年9月11日の同時多発テロだった。凶器は旅客機だった。
WTCに飛行機が突っ込むさまは、確かに衝撃的だったけれど、なんというかあまりに絵的すぎて現実味が薄かった。実際に起こったことには違いないけれど、私は米国に対しつねづね薄情だから、この出来事によって幾多の悲しみが米国と世界を覆うことにはあまり関心がなかった。テレビに映し出された絵でほんとうにびっくりして言葉を失くしたのはやはり阪神高速が倒壊したところだ。いまのところあれを超える衝撃はない。大きいものが壊れていたからびっくりしたのではない。その絵の意味する災害規模が容易に想像でき、その被害があまりに身近にあったからだ。単に怖いもの恐ろしいものなら他にいくらでも思いつく。にしても、旅客機が高層ビルにぶつかってともに破壊されるなんていう図は地獄絵図に違いない。けれども米国に起きたこと故に、WTCには多くの同胞も働いていたのにそのことにはまるで思いがいかなかった。最初に自分の中に浮かんだ言葉は、ほら、いわんこっちゃない、だった。続いて、罰が当たったんだよ、偉そうにしてるからさ、だった。
その時点ではまだ、テロと断定されていなかった。
どうやらテロだぞ、ということになり報道にアルカイダだのビンラディンだのそんな単語が頻出する。仮にそれを信用するとして、それでも私の考えたことは操縦席に座ったテロリストのことだった。旅客機を凶器にしよう、そしてこともあろうに都会の真ん中の高層ビルに突っ込もうなんて首謀者はよく考えつくもんだ、手下はよくそれにしたがって実行するもんだ、と、毎度のことながら自爆テロがあるたびに自爆テロリストの心境を思ってアタマがこんがらがる。何が彼らをそうさせるのか、そうまでさせることに成功しうるのか。わからない。わからないが、誤解を恐れずにいうけど、洗脳されてテロを遂行する者自身が最大の被害者である、と私は思っている。肩を持つわけではない。けっしてない。しかし、彼らは自爆する前に人生を放棄させられているのだ。


これらの写真撮った人、どこにいたんでしょうね、当時。全部見たい人はこちらでどうぞ。


さっき、久しぶりにテレビの前に座って冬季五輪の女子モーグルを観戦していた。実は12年前から里谷多英ちゃんと上村愛子ちゃんびいきの私。その後、里谷多英ちゃんを応援しているとなかなかいいづらい状況があったり、上村愛子ちゃんは順調に実力を上げているのに五輪ではいつも残念だったしと、(雪のスポーツは全然わからないことも手伝って)あまり話題にしてこなかったのだが、昨日と今日はモーグルの上村すごいんだぞ里谷だってすごかったんだぞ(過去形でごめん多英ちゃん)とわめく私を母と娘と猫は知らない人のように眺めるのであった。


三つのメダルのうち、二つを米国選手が勝ち取った。凄まじい喜びようがとってもアメリカンでげんなりしたが、私はふと、9・11は米国人にとってなんなのだろう、と初めて考えたような気がしたのであった。私たちの広島・長崎のように、あるいは阪神淡路大震災のように、それはあるときは時代を語るキーワードとして機能し、あるときは記憶をたどる際の悲しい道しるべの役目も果たし、そして、大なり小なり、つねに癒えない傷として身体あるいは心のどこかに残されているかさぶたなのだろうか。どうなんだ、アメリカ人!

先週、上空から撮影した「その瞬間の写真」をたまたま見つけて、あらためてドエライことだったなあと思い起こしていたのだが、9・11を指して「米国を襲った不幸」という形容が似合わないのはどうしてか、千の風になって、などという歌まで流行したのに、あれを惨劇とか悲劇とかそんなふうに表現しないのはどうしてか、と、そんなことを数秒間思ったのであった。考えていけば答えは出てきそうであるが、そんな暇はないのでやめた。強大すぎる米国の悲しさ。国の強さと大きさは、国民にもそっくり存在していると思う。いい意味でも悪い意味でも。

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